メディア的世界同時性の抑圧に抗して   


 21世紀の最初の年が、希望を予感させる展望を生むことなく、危急の焦燥感と漫然とした不安のなかで暮れていった。「世界」を構築してきた制度やシステムはついに耐用年数を過ぎたのかもしれない。ツインタワーの崩壊は、世界の表皮がついに悲鳴を上げて剥落をはじめた兆候であると私には映った。すでに持ちこたえられない構造的なきしみと歴史的摩滅が、「世界」と呼ばれる建造物をいま襲っている。綻びを繕う体の修復ではもはやどうにもならない崩壊の前兆をまえに、しかし、世界の歪みをさらに増幅させるだけの「戦争」が、政治家や軍人たちの愚かな暴走によってエスカレートしている。テロ一掃という「正義」のスローガンを隠れみのにした大国のナショナリスティックな傲りと居直りは、国家的価値に自らの生存の意味を集約できないという(あたりまえなほどまっとうな)矜恃を持ちつつ社会を共に生きていた多くの人間を疎外することで、市民の日常を崩壊ぎりぎりの危機的地点にまで追いつめている。

 一元化された「世界」の暴走は、現実の変化や新たな倫理の胎動を自らの日常を生きる複雑で微細な感覚と知恵のなかで感じとってきた人間の、厚みのあるリアリティ感覚を喪失させた。とりわけ9月11日を境に、マスメディアによって伝えられる表層の「いま」が示す暴力性によって私たちの日常感覚は麻痺状態にある。現実を知覚する正常で落ち着いた意識を奪われたまま、人工衛星を経由して日々新たな映像と情報が圧倒的な量で押し寄せる。世界に同時生中継されるこの天体的な規模での情報通信の構造こそが、局所的な現実を世界にむけて即時的に拡散させることを可能にした。現代のメディア・テクノロジーは、いかなる局地的な出来事も、それが生起した瞬間に、個人の身体的な経験という位相を脱して容易に汎世界的な人類の経験へと組み込まれる可能性をひらいたのである。

 これをメディアが可能にした「世界同時性」の時間であるとすれば、いまや誰もがこの疑似的に生みだされた世界同時性の強迫観念とともに生きている。テロも奇病も生物兵器も明日は我が身、という漫然とした危機感の根拠もここにある。だが、メディア的な世界同時性に過剰に介入することは、かえって「世界」の多様なあり方を想像する能力を失わせることもある。メディアによる世界同時性の幻想を相対化しないかぎり、私たちの想像力は現実の「情報」の力に敗れ去るだけだろう。

 アフリカの部族社会のような無文字社会では、人々のコミュニケーションはいわば一本の長い鎖でつながれている。言葉が口承的(音声的)な世界だけで生まれては消える社会では、自分が誰かに話したことは、誰かがまた別の誰かに話すことでもある。言葉はそのようにして、土地と時間を渡り、知らぬ人間同士を結びつけ、そこに「世界」を現出させてきた。自らの言葉のそうした広範な浸透力と伝達力への想像力を基礎に、ことばへの責任感が生みだされ、その責任感の重みに耐えうるコミュニケーションが日常世界の均衡を保証した。個人が「世界」の片隅で日常を送りつつ、マスメディアの介在なくして、世界を精緻に想像するとは、こういうことである。

 メディア的映像や情報にではなく、「私が思い、言うことは、世界の誰かが思い、言うことでもある」という想像力に信をおくことで、世界同時性の強迫観念は解体されるだろう。そう考えればまた、私たちが批判する大国の愚かさは、突き詰めれば私たち一人一人の愚かさでもあることになる。

(共同通信配信、2002年年頭文化欄)


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