今福 龍太 シェイクスピアと"Americas" 6  
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歌手たちはどこに
-----カルペンティエール『キューバの音楽』をめぐって

 

 フェルナンド・オルティスの『タバコと砂糖のキューバ的対位法』(一九四○)の刊行からわずかに六年遅れて、音楽史という形式によってキューバの植民時代から二○世紀初頭までの混血文化の展開を一望のもとに記述するという冒険的な企てを敢行したのが、フェルナンデス=レタマールによる「キャリバン」リストにも名を連ねているアレッホ・カルペンティエールの『キューバの音楽』(一九四六)であった。
 『失われた足跡』(一九五三)、『光の世紀』(一九六二)、『春の祭典』(一九七九)といった、アメリカ大陸の歴史的モティーフを想像力によって壮大な幻想小説へと仕立て上げる名手として知られる作家カルペンティエールが、大作家として自己確立する以前の時期に、一冊の音楽史の著作を刊行していることは、私たちの注意を惹くのに充分な事実である。「対位法」という概念をめぐって、オルティスからサイードへと文化批評と音楽的比喩との決定的に重要な関係を考察してきたいま、キューバ混血文化論の文脈において、音楽のモティーフが他にもさまざまに変奏されながら流れつづけていることの意味について、私たちはもう少し考えてみる必要があるからだ。
 『キューバの音楽』という著作は、おそらくそれまでに考えうる通常の西欧的「音楽史」という概念自体が転覆しかねないほどの、広範な音楽的言及によって成立していることにおいて、際だった特徴を見せる。通史という形式的な一般性はあるものの、その内容は、西洋「音楽」という概念を超えて特定の社会の「音楽的実践」が生成する文化交雑のプロセスを、そのまま音楽的創造をめぐる文化プロセスとして記述しようとする強い知的意志に支えられている。もともとこの本は、二十代半ばから十数年つづいたパリやスペインでの亡命生活に終止符を打ち、一九三九年に生まれ故郷であるキューバに戻ってきたカルペンティエールにたいして、メキシコの出版社フォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカ社が依頼した企画であったが、シュルレアリスムの洗礼をパリで一身に浴びつつも、「現実の驚異的なるもの」(のちのカルペンティエールに創造上の鍵となる概念)をブルトンらとは別の通路を通じて再発見しかけていたカルペンティエールにとって、キューバ音楽史の執筆という機会は、彼の直感に歴史的現実の根拠を与える重要な啓示ともなった。
 征服直後の十六世紀初頭にキューバ島に定着したもっとも初期のスペイン人植民者のなかにわずかに混じっていた歌手やビオラ奏者、ビウエラ(中世スペインのギターに似た五弦楽器)奏者による初期の西洋音楽の移植から記述を始めたカルペンティエールは、植民時代前半のカトリック教会系の宗教音楽、イベリア半島の社交的舞曲の伝播、さらに十八世紀のエステバン・サラスから二十世紀のアマデオ・ロルダンやアレハンドロ・ガルシーア・カトゥルラまで、その時代時代において真に「キューバ的」というべき優れた作曲家の作品の成立とその影響力について、通時的な枠組みにしたがいながら詳述してゆく。いわゆる西洋古典音楽のキューバへの移植とその変容過程をたどったかに見えるこの構成のなかで、しかしカルペンティエールの記述は、しばしば西洋音楽史の枠組みを超え、植民地社会が生みだすことになるヴァナキュラーな民衆音楽の種子が、外形的には西欧音楽的なイディオムによる音楽実践のなかに一つまた一つと懐胎されてゆく生成のモメントを的確に描写してゆく。キューバ音楽の成立を論じつつ、「音楽」という自明な西欧的な概念を、より原初的で身体的な「ダンス」「律動」「口承性」といった概念によって再統合しようするカルペンティエールの方法論は、すなわち、アメリカ大陸の経験に根ざした音楽史という形式そのものの新たな創造をめざしていたともいえる。そしてカルペンティエールがそうした方法によって音楽の内実を語ることになったのも、キューバ植民地社会が内包していた先住民文化と、とりわけ黒人文化の圧倒的な存在のためであった。
 『キューバの音楽』において、植民地時代最初期においてすでに存在したキューバ音楽におけるアフリカ的なるものの現前についてのもっとも見事な記述が、ソン・デ・ラ・マ・テオドーラの成立をめぐる部分である。マ・テオドーラ(テオドーラばあさん)、本名テオドーラ・ヒネスは、十六世紀半ばにサンティアゴ・デ・クーバで活躍した黒人音楽家であった。彼女は、妹のミカエラや他の白人音楽家たちとともにサンティアゴで小さな合奏団を構成するメンバーとして活躍した。このおそらくはキューバにおける最初の「オーケストラ」は、二人のピファノ(高音のフルート)奏者、セビリア出身のコントラバス奏者、そして黒人であるテオドーラ姉妹から成っており、彼女らは世俗的な祝祭行事の際に演奏しただけでなく、教会における宗教行事の際の演奏も担当したのだった。
 植民開始後わずか半世紀の時点で、すでに黒人音楽家がキューバの社会生活・宗教生活の核心にこうしたかたちで深く浸透していたという事実は、キューバ音楽の生成過程の秘密を解き明かす一つの鍵となる。歴史的背景をみておこう。当時、大西洋の両側にまたがるスペイン帝国を統治していた神聖ローマ皇帝カール五世によって、一五一七年からフランドル商人を介して本格的に導入されたアフリカ人奴隷交易の開始以前に、すでにカボ・ヴェルデやイスパニョーラ島を中継点にしてキューバへの黒人の移住は始まっていた。たしかに当初、黒人たちの社会的地位は先住民に比べてさえ低いものではあったが、プランテーションの厳格な管理によって植民地労働力として徹底的かつ体系的に搾取される一七世紀以降の状況と比較すれば、この時期の黒人たちには、かえって個人の能力や資質に応じた一定の自由な活動が可能であったともいえる。カルペンティエールは、一五三九年頃のハバナに教養の深さで知られる黒人の警官がいたことや、薬草術を駆使して数多くの白人たちの病をいやす黒人治療師が評判であったことを書きとめているが、キューバをはじめとしてカリブ海諸地域やブラジル北東海岸部において共通していえることは、植民初期のアメリカス諸社会において、黒人が、それが保持するアフリカ系文化の根幹とともに社会の中枢的な文化に介入しえた特権的な領域が二つあったということである。その一つが宗教であり、もう一つが音楽であった。
 キューバではフェルナンド・オルティスやリディア・カブレラによって、さらにはブラジルではニナ・ロドリゲスやアルトゥール・ラモス、ハイチではプリス=マルスらによって先駆的に探求された、カトリックとアフリカ系憑霊宗教とが混交した宗教的シンクレティズム(習合)のメカニズムと、そうした研究の文化論的な意義については稿をあらためねばならない。(*Carpentier, p.39) だがここで重要なことは、アフリカ・ヨルバ系の神々をカトリックの聖人表象のなかへ劇的に組み込んでゆくエネルギーを示したアメリカ黒人たちの精神文化は、同じようにして、キリスト教音楽やヨーロッパ系の社交音楽をアフリカ系の音楽とダンスのイディオムによって書き換え、読み替えてゆくすぐれてダイナミックな文化的置換作業へとすぐにも向けられていったという点である。その一つの画期的な例が、ソン・デ・ラ・マ・テオドーラなのである。
 すでに述べたように、このソン(キューバ民衆音楽の根幹にあるヴァナキューラーな民謡=舞踊のジャンル。単純に「音」という意味もある)の作者であるテオドーラ・ヒネスは、サンティアゴに住む年輩の自由黒人の女性であった。彼女はその歌い手としてのたぐいまれな能力によって知られていた。そして彼女の多くのレパートリーのなかで、一九世紀まで三百年以上の時間を越えて歌い継がれることになったもっとも有名な曲が、ソン・デ・ラ・マ・テオドーラであった。スペイン中世に歌われた物語詩であるロマンセの形式を色濃く残しながらも、カルペンティエールによれば、この曲には先住民音楽や、とりわけアフリカ音楽の決定的な要素が幾重にも折り重なるかたちで刻印されている。

Donde esta la Ma Teodora?
Rajando la lena esta.
Con su palo y su bandola?
Rajando la lena esta.
Donde esta que no la veo?
Rajando la lena esta,
Rajando la lena esta,
Rajando la lena esta......(Alejo Carpentier, La m徭ica en Cuba, p.47)

テオドーラばあさんはどこにいる?
薪を割ってるのさ。
棒切れとバンドーラ(三弦のマンドリン様の楽器)を持って?
薪を割ってるのさ。
どこに行ったか姿が見えない?
薪を割ってるのさ、
薪を割ってるのさ、
薪を割ってるのさ・・・・・
 独唱者がソロで歌い、その問いかけにたいして合唱が答える、という歌唱が持つ応答のパターン、いわゆる「コール・アンド・レスポンス」の形式をここにみることができるが、これはアフリカの言葉遊び歌などに典型的な形式であり、黒人たちによる憑依儀礼の際の宗教的な歌謡にも取り入れられて発達した、もっともアフリカ的な音楽作法の一つであった。さらに、「薪を割っているのさ」というフレーズが即興的に反復され、最後の部分では踊り手が飽きるまでつづいてゆく、という形式も、キューバにおいて「ソン・モントゥーノ」と呼ばれる、もっとも基本的なソンの形式においてみられるアフリカ的反復の一要素であった。また、字義通りに訳せば「薪を割っている」となる"rajando la lena"という表現も、いうまでもなく「踊っている」あるいは「楽器を演奏している」ことの比喩表現であって、これは「野豚を狩る」(cazar el verraco)あるいは「脂を抽出する」(sacar la manteca)「サツマイモを引っこ抜く」(sacar el boniato)といった黒人たちの基本労働を示す表現が、同じように「踊っている」ことを意味するクバニスモ(黒人たちによって再編されたキューバ独特のスペイン語表現=キューバ語)の典型的なあらわれでもあった。
 このようにしてみたとき、スペイン人植民初期のキューバ社会において黒人女性によって歌われて伝承されたソン・デ・ラ・マ・テオドーラは、その音楽的構造からも、また実践のスタイルからみても、さまざまに出自を異にする音楽文化の驚くべき混合体として生み出されたものであることがわかる。『キューバの音楽』のなかで、カルペンティエールはオルティスの概念を援用しつつこう書いている。
 ソン・デ・ラ・マ・テオドーラの分析がきわめて興味深いのは、キューバ音楽のまさに出発点において、それがトランスカルチュレーションのプロセスを示している点にある。その文化転位のかたちは、詩のさまざまな韻律、いくつもの旋律パターン、そしてスペイン系の楽器が、アフリカの古い口承の伝統の真正な記憶と混ざり合って生み出された。・・・そして彼らはバンドーラのような弦楽器をリズム生成の楽器へと変貌させることによって、彼らが打楽器的な本能を忘れてはいないことを示した。こうして、いまでもキューバのソンにおいては、ブラジルのサンバがそうであるように、ギターは旋律をつかさどるというよりは打楽器的な役割を持つことになったのである。(Carpentier, p.49 )
 音楽家という職業において、キューバの植民地時代の黒人は、植民地社会の人種的偏見や抑圧の構造から離れて独自の貢献をキューバの民衆文化の創造にたいして果たすことができた。歌手たちは、音楽家たちはどこにいるのか、どこから来たのか? と問いかけるソン・モントゥーノの典型的フレーズは、キューバ文化が生み出される揺籃において起こった秘密の所在を永遠に問いかける無意識の心意を深く刻み込んでいるのかもしれない。   

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