今福 龍太 シェイクスピアと"Americas" 9  
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ソンの数列の上で
------ペレス=フィルマとウィリー・チリーノ

 

 「翻訳によって失われるもの」("lost in translation")とは、ふつう狭義の「翻訳行為」が不可避的にもたらす、他言語への意味の置換の不完全性を指す常套表現であると考えられている。翻訳とは、一般には、意味内容が可能な限り保全されることを理想とした二言語間における語彙の置換の作業であり、その作業は言語的伝達の一方法として充分に有効性を持っていると信じられている。そしてその信仰を前提にした上で、さらに翻訳可能性の限界の部分で、どうしても完全には他言語に置き換わり得ぬなにかがこぼれ落ちる。原著者の特有の言い回し、ニュアンス、舞台のローカリズム、土着性・・・・。それらが通常いわれる「翻訳によって失われるもの」のいくつかであり、言語のはざまに落ちこぼれてしまったそれらのものは、もはや翻訳された表現のなかでは決して回収することのできない、原言語における本質の一部を形成しているとみなされる。
 このような、言語本質主義の色彩を濃厚にたたえた言語観が、「翻訳によって失われるもの」の存在を認定していたのだとすれば、少年期にマイアミに亡命したグスタボ・ペレス=フィルマにとって、翻訳とははるかに錯綜した喪失と発見との相互作用の謂であった。「三曲のマンボと一曲のソン・モントゥーノ」と題されたエッセイで、ペレス=フィルマは、もし自分自身が翻訳途上で失われてしまったならば、という移民や亡命者にとってきわめて核心的な問いを自らに投げかける。現実に彼は、キューバからアメリカ合衆国への亡命経験のなかで、比喩的に言えばフロリダ海峡のなかにスペイン語におけるなにかを決定的に喪失することによって、英語に翻訳された自分自身を見出す。マイアミのキューバ人街であるリトル・ハバナの町角で、彼は「ラブ・ジュース」と表示された店先でキューバの「バティード」(さまざまな熱帯果実のミルクシェイク)を飲む。八番街(カジェ・オチョ)の洒落たキューバン・レストラン「ベルサイユ」に行き、「トロピカル・シチュー」と名づけられた「アヒヤコ」を注文し、満腹するとデザートに「トロピカル・スノー」という名の「アロス・コン・レチェ」(ミルクで甘く煮た米)を食べ、「エスプレッソ」(キューバでは「カフェ」あるいは縮小辞をつけて「カフェシート」としか呼びようのない、香り高く濃厚で甘いコーヒー)を一息に流し込む。
 こうして彼は、ある一日の午後を、完全に「翻訳」によって自らと自らの言語を喪失したままに、しかしその一瞬一瞬をいとおしく愛でながら、過ごす。ペレス=フィルマは悲痛な皮肉まじりにこう書いている。

 翻訳とは一つの場所である。それは、まるで見慣れないと思えるほどのありふれた日常の場所であり、わたし自身の(きみ自身の)場所である。この翻訳という場所で、私は失われ、そしていま発見される。(Firmat, "Three Mambos and a Son Montuno", in Bridges to Cuba, p.323)
 この、翻訳のはざまで感じとられた、悲痛な自己喪失とかけがえのない自己発見の共存する感覚は、ペレス=フィルマによって音楽的な挿話としても語られている(『ハイフンの上の生』)。六○年代初頭のマイアミで成長したペレス=フィルマは、このキューバ革命直後の時期のマイアミの亡命キューバ人社会に、ある種の深い喪失の感覚が流れていたことを当時の大衆音楽の記憶から語り起こす。亡命初期の人々のメンタリティーを映しだしていた当時のマイアミ大衆音楽は、おしなべて祖国へのノスタルジーと、新しい社会環境に適応できない現実逃避の感情によって特徴づけられていたが、なかでももっともよく聴かれた曲の一つが「ソンはキューバから出ていった」(El son se fue de Cuba)という歌だった。ドミニカ人のビリョ・フロメタによって創られ、のちに多くのキューバ人アーティストによるカヴァー・ヴァージョンを生みだしたこのヒット曲は、つぎのような暗示的な物語を歌っていた。一人の農民(グアヒーロ)がハバナにやってきて、ソン(すでに述べてきたようにキューバの音楽的な魂とも呼べるジャンル)がキューバの国から立ち去ったことを知る。ソンだけでなく、キューバ国歌である「ラ・バヤメーサ」も、さらにモイセス・シモンズによってよく知られたキューバ歌謡の古典「南京豆売り」(エル・マニセーロ)も、国を離れていた。キューバの歌がみな亡命してしまったために、島をあまねく沈黙の淋しさがおおいつくす・・・。
 いうまでもなくこの歌が語ろうとしているのは、現実のソンの亡命ではなく、ソンというなつかしい文化伝統によって表象されたキューバ人そのものの、その亡命の境涯にたいする悲嘆についてだった。だが歌は、それをあくまでソンという音楽伝統が生きる場所の流転として語ろうとする。歌い手の位置は、そのとききわめて不明瞭なものとなる。歌手は「ソンはキューバから去った」と歌うが、それが「いかなる理由で」「どこに」去ったのかを決して語らない。さらに歌手は「ソンはあそこ(「あそこ」)に傍点)から去った」と歌う限りにおいて、自分が少なくとも「あそこ」(キューバ島)にいないことだけは示唆するものの、では自らがいまどこに立っているのかには最後まで言及しない。六○年代の初期のキューバ亡命音楽には、こうした場所と歴史性の曖昧化という特徴が一貫して流れていたのである。
 歴史的・地理的な自らの位置に言及することなく、喪失とノスタルジアの感情のみによって現実を語ろうとする大衆音楽のこうした傾向は、亡命キューバ人たちの、どこにも自らの生の碇を降ろすことのできない流浪という苦悩を受けとめるための格好の器となった。しかし私たちの文脈でいえば、「ソンはキューバから出ていった」と歌うことは、すなわちソンの由来をたずねる「モントゥーノ」のリフレインがつねにキューバ文化生成の秘密の場所への探求を指向していたように、ふたたび「キューバ」という文化的な実体が大きな変容・転換の道へと歩みだしたことを暗示する。流浪の心情に訴えかけるかたちではあれ、大衆音楽における亡命キューバ人の自己確認への道程が、ふたたび「ソン」のモティーフによって示されていることは、やはり見過ごすことができない事実であったというべきであろう。
 グスタボ・ペレス=フィルマにとっても、この「どこかへと去っていった」ソンの去就は、自らのアイデンティティそのものをめぐる問いとして、つねに彼自身の内面で反芻される謎としてあった。マイアミでの青年時代が終わり、ミシガンで学究生活に耽っていた八○年代中頃のある日、休暇中の彼は当時のマイアミ・サウンドの拠点の一つであったラテン・ライブハウス兼ディスコ「バナナ・ボート」でウィリー・チリーノを聴いていた。ウィリー・チリーノは七○年代から活躍するマイアミ・サウンドの中心的なミュージシャンであり、ペレス=フィルマと同じく、キューバに生まれてローティーンでアメリカにやってきた亡命一・五世の一人だった。優れた作曲家でありマルチ演奏家でもあるチリーノは、基本的にマイアミ周辺のクラブを唯一の活動拠点として徹底してローカルな聴衆を相手に、キューバ音楽のエッセンスを彼自身のアメリカ的音楽体験へと接続しながら創造的な音楽を生みだしていた。
 その夜、ペレス=フィルマの前で、チリーノはミゲル・マタモロスによる伝統的なソン・モントゥーノのレパートリーである「ソン・デ・ラ・ローマ」を演奏した。少女が母に向かって「ママ、私は知りたい。あの歌手たちはどこから来たの?」と訊ね、母の答えである「丘からやってきて、平野で歌っているのよ」がリフレインとして繰り返されるという歌詞の基本構造を持ったこの著名なソンは、三人称複数形「彼らは・・・である」という意味のsonと、音楽ジャンルとしてのsonとを掛けながら、まさにソンの由来をソンとして語ろうとする、ソンの文化史的探求のテーマを懐胎していた。チリーノはこの曲を、「バナナ・ボート」において、電子キーボードを使いながらロック、ジャズ、ドゥー・ワップといったアメリカ的音楽イディオムに軽快に流し込みながら演奏した。途中でキューバン・チャランガの名手ホセ・ファハルドが飛び入りで加わり、木製フルートで見事な応酬をする。モントゥーノの掛け合いが最高潮に達する・・・。
 このようにして演奏されたその夜の「ソン・デ・ラ・ローマ」は、ペレス=フィルマのなかに「ソンの去就」をめぐる一つの答えを啓示のように与えることになった。考えてみれば、「バナナ・ボート」はマイアミのケンダール地区の「ローマンズ・プラザ」と呼ばれる大きなショッピングモールのすぐ脇にあって、その連想が「ソン・デ・ラ・ローマ」を「ソング・オヴ・ローマンズ」と翻訳する機知をペレス=フィルマにもたらす。これこそが、キューバン・アメリカンの音楽であり、チリーノのあの柔軟で自在な変換行為のなかにこそ、ソンの力が宿っている・・・。ペレス=フィルマはこうして結論づける。「その夜、私は確信した。キューバを離れてソンがどこに行ったかを。それはケンダールにたどり着いたのだ」。
 ペレス=フィルマにとって、「ソン」がいかに彼自身のアイデンティティの問題と直結していたかを示す、つぎのような短詩がある。
 これらの詩を、ソンの数列、と呼ぼう:
 複数の人称としてのSon(Son はスペイン語で二・三人称複数の存在「である」を示す)
 ルンバの鼓動としてのSon
 後継者としてのSon
 〔君たち、彼らは〕である、であった、であるだろう
 ソン、ダンソン、グアラチャ
 息子、彼の父親の息子
 ほんとうに彼が?
              (「ソンの数列」)
 ここでペレス=フィルマにとっての「ソン」は、自己をめぐる三重に錯綜した関係を抱え込んだ特別に暗示的な表象としてとらえられている。スペイン語で存在を示す動詞 serの二・三人称複数形としての son 。キューバ民衆音楽の根源的ジャンルとしての son 。そしてさらに英語世界においては、文化の世代継承において強大な先人として立ちはだかる父にたいする従順にして反抗的な son ・・・。
 一・五世代としてのペレス=フィルマもチリーノも、この「ソン」の多義性のなかで格闘していた。それは、「キューバ性」をめぐって自らの原型へと掘り進んでゆく内向きの探求でもあったが、一方で「キューバ」自体が流浪し、離散し、伸縮自在な場へと変容している限りにおいて、それはより錯綜した翻訳行為に近づいていった。ソンこそが、まさにチリーノのいう"elastic music"、 すなわち自在に伸び縮みし、姿を変える、苛烈な「文化的翻訳行為」の現場であったのである。チリーノの出世作「ソイ」(Soy)は、「私は・・・である」という直截な肯定の表現を表題にして、まさにソンの去就を自らの問題として問い、それに柔軟な回答の糸口を与えようとする真摯な思索に満ちていた。
 私は遠いところにある一番小さな村。
 私は巨大な海の騒音と潮風。
 私は鎖でも鉄格子でもない。
 私は砂糖であり私は塩。
 きみが私を好きになっても、私を見放しても
 私にとってはおなじこと。
 (Firmat, Life on the Hyphen, p.118)
 人格を場所に置き換えながら繰り出されてくる拡張された擬人法のなかで、海へと船出して漂流し難破しかけるキューバという島、すなわち「キューバ」という文化的実体の経路への想像力がここでテストされていることは疑いないのである。   

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