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今福龍太が読む 1

鵜飼哲『抵抗への招待』(みすず書房)


 火急の「現在」が要請する、書くことへの切迫した衝動が、文化や社会や政治の「現在」の定位をその端緒に向けて限りなく微分化し脱構築する厳密な歴史的遠近法によって支えられていること。アクチュアルで実践的な思考の成果としての一冊の書物が、そうした歴史と現在とをつなぐ時間と空間の多様性を包摂した精密な視点によって書かれることは、いまの日本においては例外的な事態になってしまった。

 ある具体的な社会現象にたいする逼迫した危機意識は、しばしば歴史的な遠近感を欠いた刹那的で表層的な断罪や非難におちいりやすい。あるいは通俗的な言論の「現在」を規定しつつ権威的に流通する特定の言説への批判的対応は、ともすれば対峙する言説の基本構造をそのまま踏襲しながら繰り出される、共犯的ですらある言語行為として批判力を失ってゆく危険性をつねにかかえている。しかし、鵜飼哲の最近ほぼ十年間の論考や書評を集成した本書は、そうした現代における「批評」行為のいくつもの陥穽を真摯で強靭な思考力によって遠ざけながら、わたしたちが「現在」というものと思想的にいかに切り結ぶことができるかという緊急の問いかけにたいする一つの理論的かつ倫理的水準を、あざやかに提示する。

 著者の思考はつねに身近な危急の「現在」から出発する。アジア各地で声を上げはじめたいわゆる「従軍慰安婦」たち、沖縄で高揚する民衆運動、在日朝鮮人作家の苦悶と挑発、外国人登録における指紋押捺問題、新宿西口地下通路の野宿者強制追い出し……。これらはいままさに血を流す「現在」でありながら、限定された時代を超えたいくつもの「過去」と幾重にも錯綜しながら結びあっている。おなじようにして、著者の思考の出発点を画す出来事は「日本」と呼ばれる国民国家の核心に突きささる刺のような痛みとして内部化されながらも、「日本」という領土的な枠組みをつねに対象化し、外部化し、周縁化する批判意識を呼び覚ます引き金としてはたらいている。「現在」に可能な限り歴史的な深みを与えること。「日本」を地理的・空間的な不確定性のなかに突き落としてみること。すなわち著者が対峙しようとしている「日本」の「現在」が、時間的にも空間的にも収縮自在の運動性と遠近法を与えられることによって、ここでは批判的思考の厳密さと強靭さが見事に保たれているのだ。

 しかもこうした身近な事柄についての思考は、そのすぐ傍らに、一見かけ離れた場所における「世界」のさまざまな動きを執拗に追い求める著者のまなざしが存在していることによって、さらに包容力と喚起力を増幅させる。パレスティナやボスニアにおいてくり返された民族主義と宗教をめぐってなされる大量殺戮。アルジェリアの泥沼化する内戦や、大国の覇権の幻想に支配された湾岸戦争。フランスの国民戦線を中心にヨーロッパ全土を席巻している人種主義的暴力と移民・難民排斥。ホロコーストの記憶を現在の証言の語りのなかに再提示する映画『ショアー』の衝撃。独仏の国境都市ストラスブールで行われた、亡命作家を国家原理を超えて受け入れる避難都市ネットワーク会議への参加……。これらの出来事にやむにやまれぬ衝迫を感じて思想的に介入してゆく著者の軌跡を本書でたどるうちに、著者の日本人としての「現在」への問題意識が持つ深度と強度を背後から支えるもっとも本質的な「参照=証明」(レフェランス)こそが、こうしたヨーロッパの政治文化を襲う新たな地殻変動の事態なのだということが深く納得される。

 八○年代後半のパリに留学し、ジャック・デリダをはじめとするフランス現代思想・文学のもたらす知的なインパクトを真っ向から受けとめながらも、そうしたすでに充分権威化された知的潮流をいま一度脱中心化し、ヨーロッパ周縁部で傷口をあける火急の現実にかかわりながら、同時に東アジア政治文化の状況を計測し、身を持って介入する……。いまの思想界に、これだけの熱情と、厳密な知的平衡感覚をもって思考し行動する論者がそう多くいるとは、私には思えない。鵜飼哲は、その意味で二○世紀におけるフランス的知性が自らの理論と行動を一つのトータルな実践行為のなかで最高の凝縮力を持って示した本質的な「アンガージュマン」の思想的系譜を現代的な文脈のなかで受け継ぐ、異郷からの嫡子という特異な立場をすら(本人の自覚とは無関係に)主張できるのかもしれない。

 無論こうした思想史上の不用意な系譜的認定は、著者によって反論やいくつもの留保を受けるにちがいない。だがまさに、自らがそうではないものによって自らの生存が賦活され、他者であるはずのものにいわれのない自己同一化の衝動を感じざるを得ないという、この逆説的な真実のよってきたる、現代における政治文化の来歴をこそ、本書はその深層において解きあかそうとしているのではなかったか。

 自己と他者。当事者であることと傍観者であること。自言語(国語)と他言語(外国語)……。そうした対抗的な二項の対峙関係のはざまに分け入ってみたとき、そこに、「異なる」ことによって「同一」であるような新たな地平、すなわち従来の自己同一性の概念をくつがえす認識の領野が広がっていることを、それに対応する現実とともに著者は発見したのだ。その地平こそが、著者にとっての新たなアンガージュマンの現場となった。

 本書の最後に引用された、パレスティナ亡命思想家エドワード・サイードの次の言葉は、著者のような果敢な実践的思考者のためにこそある。「知識人の任務とは、危機を明確に普遍的なものにすること、特定の人種や民族の苦悩にいっそう大きな人間的規模を付与すること、その経験を他の人々の苦悩と結びつけることであると私は信じている」。


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