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今福龍太が読む 19

四方田犬彦『ソウルの風景』(岩波新書)


 四方田犬彦が韓国という存在に直接向き合って思考したとき、そこからつむがれる文章にはつねに特別の熱と真摯とが鋭く刻印されている。二○年前もそうだった。スウィフト論で学位を得たばかりの彼が建国大学の日本語教師としてソウルに一年間滞在した一九七九年。長き軍政の独裁が終息へと向かうこの韓国の現代史における大きな転換点の空気を、八○年代の初頭に日本の雑誌に発表された四方田のエッセイや論考は、特異な熱気とともに活写していた。私はそれらの論考の、現場の社会的状況を的確につかみだす歴史的遠近法の精緻さとともに、著者が「韓国」という存在自体に対峙するときに特別に示す、事象の細部への異様なほどの執着と、学問がもつ論理的明快さを破る情念的な拘泥の感覚に、強く揺り動かされたことをよく覚えている。韓国において、なにが彼をこれほどまでに熱く真摯にさせるのか? この問いにたいする可能な回答の一つとして、私は、韓国と韓国人が四方田に徹底した「他者」として迫るその強度において、四方田自身の「自己」を完膚なきまでに相対化するからではないか、と考えてきた。

 それから二○年ほどがたち、著者はふたたびソウルでの長期滞在の機会を得、帰国して一年も経たずに滞在記としての本書『ソウルの風景』を上梓した。この例外的なスピードからだけでも、彼の韓国にたいする熱がいまだに継続していることを私たちは確認できる。そして本書は、先の問いの答えを、ようやく私に確信をもって示してくれたような気がする。

 あらたなミレニアムを迎えた二○○○年のソウルに、居住者として二一年ぶりに戻ってきた著者の感慨は、まずなによりも韓国社会経済の、短期間での驚くべき変貌ぶりであった。七九年の一○月に朴正煕大統領の暗殺があった事実を確認するまでもなく、軍事独裁政権下での反共を国是とする厳しい監視体制が市民の日常を覆い尽くしていた当時と比較したとき、著者が今の韓国の民主化と消費主義のすみずみまでの浸透を素直に驚く心情は、強いリアリティとともに私たちにも迫ってくる。

 四ヶ月のソウル滞在中、著者の探求の視線は一気に韓国社会の核心へとあやまたず伸びてゆく。大衆消費社会の到来のなかで先祖儀礼や民間信仰のような伝統的価値がいかに意味づけなおされるのか。映画をつうじた「北」への意識の変化。金大中ノーベル平和賞受賞をめぐって表面化する慶尚道と全羅道とのあいだの地域的対抗意識の実体。圧制にたいする民衆蜂起としての「光州事件」(一九八○年五月一八日)の現場がいまやモニュメント化されて聖域となり、一方で、かつて従軍慰安婦であった女性たちの共同生活の場が昨今の日本人の巡礼地となる事態への違和感・・・。著者の目と耳の直接的な経験から発したこれらの状況への観察と批評的分析は、現在の韓国に対峙する著者のまなざしがすでに二○年という歴史的・主体的時間のもたらす遠近法によって精緻に微分されているがために、厚みある独特の考察を生み出してスリリングだ。

 韓国はつねに痛苦のなかで現代史を生きてきた。そこではほとんどあらゆる社会的事象が、悲惨と挫折と屈辱のはての沈黙とによって裏打ちされている。だが本書における著者のもっとも刺激的な立場は、彼が安全地帯に自らを置いてそうした事態を論評し、悲惨をめぐる歴史的体験の生々しさを一般的なヒューマニズムの名のもとに馴致してゆくことから、徹底して身を引き離している点に求められよう。韓国への安直な旅や巡礼はありえない。歴史的負荷を抱え、政治的にチャージされた場に向き合うことは、どこへ行き、何を見、誰に聞くかをめぐって内部で闘われる回避と拘泥の苛烈な過程をいかなる旅人にたいしても要求する。そして、韓国社会と韓国人への本質的な考察をつうじて最後に現れる理解は、日本と韓国が、すでに互いに相手の存在を内側に構造化することで、自らを成立させている、という両国文化の相互浸透、ハイブリッド化の認識である。

 本書が「ソウルの風景」という一見おとなしく常套的な表題を持っているからといって、それを新書という外形的な理由による一般化の要請の結果であるととることはおそらく誤りだろう。ここでいう「風景」とは、流れる歴史的時間の産物として絶えずつくりなおされ、人間の理性と感情との交錯する苛烈な交点において立ち上がる真実と幻影とを抱え込んでいる・・・。本書で私たちは、まさに異国の風景を、そのように錯綜した文化的・政治的消息の織物として見ることを学ぶのであり、その眼差しの深みは、そのまま自らが帰属すると信ずる国家の日常的「風景」への批評的視線へと、まっすぐに反映されるべきものだからである

 


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