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今福龍太が読む 2

上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』(青土社)


 近代の人間社会に対して強権的な抑圧装置として働いてきた「ナショナリズム」や「国民国家」原理を超えるための、新しい思想のプログラムが現れた。そのプログラムに着手する手がかりを、これまで蓄積されてきたナショナリズム批判の思考の営為の虚を突くように、著者は「女性」という国家の外部に求める。

 近代の社会科学の認識論が、「国家」や「国民」という制度、あるいは「正史」とよばれる唯一の公共の記憶を自明の「自然」あるいは「宿命」として前提し、そうした歴史的規制の内部で思考してきた道筋を鮮明に相対化しながら進められてきた近年の国民国家批判の思考は、しかしいまだ完全には、国家のまったき外部と対峙するという試練にさらされてはいない。民族的、階級的、あるいは経済的抑圧の近代史に内在する権力の政治学を脱構築しようとしてきた近年の意欲的な社会科学ですら、その理論的根拠の一部をいまだ国民国家原理のカテゴリーの罠に無意識にからめとられているとすれば、国家を超えうる、近代国家原理にとっての背理となる「外部」をいかに導入するかが、批判的言説の核心となる。著者は本書で、これまでのフェミニズムや女性史をめぐる理論的・実証的な作業の延長線上に、いよいよ私領域における女性という問題系を超えて、公共領域において国民国家と対峙しうる「女性」というカテゴリー(あるいは歴史的変数)を定位しようというきわめて刺激的な試みに踏み出した。すなわちそれは、ジェンダー中立性を装っていた国民国家という概念を徹底してジェンダー化する、という言説上の闘いとして示される。

 女性史は近代史に背理をつきつける、という本書での著者の基本的テーゼはいつものように一点の曖昧さもない。第一部「国民国家とジェンダー」は、市川房枝、平塚らいてう、高群逸枝といった女性思想家=活動家が、戦時中の国家総動員体制のなかで国家が家庭や女性を含む公領域の末端にまで肥大化してきた時代背景において、いかに思考し振る舞ったかを検証する。市川に代表される婦人参政権論(平等の主張)と、平塚において典型的な母性主義(差異の主張)という、フェミニズムの両極に位置する戦略が、総力戦という最大の国家事業の遂行において日本国家が国民化の規制力をついに「女性」にまで本格的におよぼそうとした時代に、どれほど錯綜しディレンマに満ちた思想的行為として示されたかを、八○年代以降の「反省的女性史」の成果によりながら総括しつつ論じる。

 著者の結論は、だがこうした反省的女性史の検討が、女性をも戦争協力者の位置に相対化することで一定の断罪をくだすために目的化されているのではないことを強調する。反省的女性史の検討が導くのは、国家が女性を「国民」へと統合するときの究極的な矛盾の露呈であり、「女性」が最終的・決定的には「国民」にとり込みえないカテゴリーであるという、近代国民国家におけるジェンダー編成の臨界領域である。そうだとすれば、著者がいうように「女性の国民化」というプロジェクトは、それじたい背理としてしか現象しない。「国家」という「想像の共同性」の喚起によって現れる包括的カテゴリーに対し、「女性」は非帰属的な他者の視点をつなぎとめる特権性をつねに保有しているからである。

 本書の第二部は、まさにこうした理論的水準を、現在の日本において尖鋭的に問題化したいわゆる「従軍慰安婦」をめぐる議論において鍛えなおそうというスリリングかつ論争的な試みである。「従軍慰安婦」は日本の戦争と東アジア植民地化に付随した過去の問題などではなく、私たちが現在進行形で加担している犯罪である、と著者は明快に断言する。この問題のほんとうの位置づけは、過去における集団的・強制的強姦や性の奴隷化の示す犯罪性という点だけでなく、いまだに大半の旧慰安婦たちが名乗ることもできずに屈辱的な沈黙を強いられているという現在まで継続する加害の事実としてむしろ問い直さねばならないからだ。過去にほんとうに何があったのかを、文書資料と証言によって実証的に再構築する戦略が、「従軍慰安婦」の存在を告発する側からも、それを否定する保守論壇の側からも等しく採用されているが、そうした唯一絶対的に真実であると規定された「事実」を示して論駁するという方法論は、「現在の加害」をめぐって闘われる人間の「記憶の政治学」(本書第三部の表題でもある)が示すアクチュアルな局面に介入することがけっしてできない。

 著者の「従軍慰安婦」問題への視点が新鮮であるとすれば、それは歴史的事実を示す決定的な証拠を明示したからではまったくなく、「歴史的事実」がつねに現在時からの「再審」にさらされる変幻自在なものであることを指摘し、慰安婦たちが、正史として固定化されてきた「国民国家」による公共の記憶の皮膜を破って、国家に帰属もせず、国家によって代弁もされ得ない尊厳ある女としての「わたし」の記憶を、もう一つの歴史=物語として新たに定位しようという実践に、明快な認識論的根拠を与えたからなのである。

 「フェミニズムは国境を越えねばならない」という行動的な使命感につき動かされた、稀有なほど熱く明晰な理論書である。


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