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今福龍太が読む 23

山尾三省『祈り』(野草社)


 取り除かれた瓦礫の光景のなかにいまだ眠る者たちへの記憶を前に、人々が祈っている。悲劇からちょうど一年が経ち、記念への衝動と義務感とが、祈りの姿に有無を言わせぬ集団的意思を与えている。けれども、厳かに追悼し祈る舌の根が乾かないうちに、指導者はあらたな無差別の爆撃を貧しき大地に加えようともしている。祈りつつ戦争する。その作法には、「祈り」に託された人間の存在が本質的に抱える苦渋のかけらもなく、痛苦への想像力がまるで欠けている。祈るという行為が、これほどまでに衰退した知性と痩せ細った想像力の持ち主によって主導される光景は、人類にとって無惨というほかない。
 

 そんな「祈り」の節操なき冒涜を目にして、祈るまい、と決意する。祈りがこれほどまでに政治によって馴化され、祈るべき対象が特定の死者たちのメディア化されたイメージへと収斂してしまうのであれば、もはや祈りの彼方にはいかなる慰藉も安らぎもない。祈りは口実であり、自己目的的な儀式であり、先制暴力への心理的予防線にすぎなくなった。祈らずに、ただ深く思い、強く批判し、斜に構えつつも静かに世界の理を受け入れる・・・、そんな矛盾をはらんだ作法のなかにしか、もはや自らがよってたつ魂の根拠をつくりあげる基盤はないのではないか。現代社会の高速回転する日常のなかで幻像化する「神」への疑念と、通俗宗教への不信心も手伝って、祈りを捨てようとするぎりぎりの地点まで私たちは追いつめられているような気がする。
 

 そんな私の耳に、屋久島の森と水の傍らで祈りつづけた一人の詩人の声が聞こえてきた。屋久島の奥深い森に自生する、一般には「縄文杉」と呼ばれる樹齢七千二百年の老杉を「聖老人」と呼び、それを「私の祈りの名」であるとかつて書いた詩人山尾三省の凛とした声である。昨年八月二十八日、詩人の好んだ二十四節気でいえば「処暑」の侯に、屋久島一湊白川山の自宅でガンのため六十三才で逝ってから一年。命日にあわせて刊行された真っ白な装幀の詩集は、簡潔に、『祈り』と題されている。  死期を察した詩人は、この本でこれまでになく透明な声で、ひたむきに祈る。水に祈り、森に祈り、土に祈る。洗濯物に祈り、爪を切るパッチンという音に祈り、石油ストーブの上のヤカンに祈る。イワタイゲキの黄色の花叢れに祈り、白亜紀の小鳥エナントオルニスの一本の足骨の化石に祈る。風にむかって詩人が祈ると、風はこう語りかける。「ぼくはね かつて生まれたこともない存在だから 死ぬこともない」
 

 人間のもっとも裸で純粋な願いを、祈りとして森羅万象に向ける詩人の声に耳を澄ませるうちに、祈りを捨てようとしていた私のニヒリズムがどこかへと立ち去ってゆくのが感じられる。「祈り」に残された可能性の種子が芽を吹きだす胎動が感じられる。いや、可能性どころか、祈りはここで私たちの過去を深く省察し、現在の人類がたどり着いた文明の地点を厳しく裁き、ついには未来を全幅の希望で満たすための、はじまりにして最終的な行為として位置づけられている。永劫宇宙の一断片に過ぎない、だが見事な一断片として存在する、「わたし」であり「ひと」であるもの。それを詩人は「雨のような銀色の光」と呼び、またそれを「不断光」と名づけてこう歌う(「ひと」、改行省略)。
 

  「夜も昼も絶えず 春も秋も絶えることのない ひとつの銀色の光がある
  ひとは その光の中に生まれる その光の中で育ち その光の中でひととなる・・・・・
  母が逝き その年が明けて 世界孤独という言葉をはじめて持った時に
  その光が はじめてわたくしに届いた・・・・・」
  

 両掌を合わせ、深く高いものにむけて、かなしく光りつつ祈っている自分がいちばん好きだという詩人。彼は死者となった肉親に祈りつつ、同じ祈りを、森羅万象に、雨水や石のような無機物にも等しく差し向ける。おのずからあらわれる合掌の姿勢は、強要された祈りのもつひきつった不自然さへの私の違和感を柔らかく解放する。そういえば詩人は、『びろう葉帽子の下で』のなかの短詩でこんなふうに歌ってもいたはずだ。
 

   「最も深く祈っているとき 人は 手を合わせはしない しかしながら 
   最も深く祈っている時 人は 手を合わせている 
   存在は そのようにして 人を開示する」(「存在について」)
   

 手を合わせ、手を合わせない祈りを、死者と生者と、すべての存在に向けて差し向けよ、と山尾三省は私たちにうながす。この内在的な祈りは、人間の至福を理想にではなくいまここの現実そのものに見いだそうとする深い覚醒の反映でもある。そしてニューヨークの悲劇のわずか2週間前に、世界孤独を背負いながら銀の光となった詩人の一周忌には、儀式では終わらない、未来永劫の祈りを捧げられるような気が、いまの私にはする。

 


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