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今福龍太が読む 28

四方田犬彦『見ることの塩 パレスチナ・セルビア紀行』(作品社)   


 表題の「塩」とは、旧約聖書において、背徳の町ソドムの住人が神の烈しい憎悪と懲罰によって塩の柱に変えられてしまったという挿話からとられている。見ることが痛苦であるものが現前することを「見ることの塩」と呼ぶならば、旅において、憎悪と諍いの果てに生じた塩の柱だけを見つづけるのではあまりに救いがない。だが、イスラエル、パレスチナ、セルビア、コソボと結んでたどられた著者の一年足らずの旅と滞在は、戦争や報復や支配の結果として生まれた、鉄条網と土嚢と兵士と廃墟によって埋め尽くされた、まさに痛苦の光景そのものだった。
 

 四方田犬彦という旅の達人が、旅から直接立ち上がる深い思索を書物として差し出す名人芸を、すでに私たちは韓国、ニューヨーク、モロッコのそれぞれ見事な滞在記・紀行として堪能してきた。だが、今回の書物は、著者自身が、これまでで「最も陰鬱にして苦い味わいを持った旅」であったと告白するように、旅がうながす著者の思索の飛翔は最小限に抑えられ、現実のあまりに苦く痛ましい質感だけがひたすら読者に迫ってくる。テルアヴィヴやベオグラードといった都市に滞在した日常感覚から紡ぎ出される観察は、広範でかつ深い。イスラエル/パレスチナ編でいえば、「ユダヤ人」という概念の定義不可能性にはじまり、シオニズムとユダヤ教のねじれた関係、ロシアやアラブ系の新移民にたいする社会差別、「新ディアスポラ」とも呼ぶべきユダヤ人のイスラエル国家からの新たな離散状況など、歴史的現実の記述そのもののなかにすでに矛盾と逆説の種子が無数に孕まれていることを、著者の筆は直截に語りつづける。イスラエル(ユダヤ人)とパレスチナ(アラブ人)の二項対立という紋切り型の図式のなかで曇らされていた私たちの先入見は、霧が晴れるようにして、あらたな覚醒した視点へと導かれてゆく。だがその覚醒とは、現実のさらなる曖昧さと複雑性と矛盾を受け入れるしかない、という究極の決意を私たちに迫るような、そんな悲観主義的な覚醒である。
 

 これらの血塗られた地で、「見る」ことはそのまま痛苦にほかならない。だが、see(ただ見る)ではなく、regard(関心を持って見る)という英語をもって「見る」ことを貫くならば、旅の目の射程は塩の柱を突き抜けて、乳や蜜の流れる豊饒な大地へと行き着かぬとも限らない。おそらくはユートピア的な幻影であるかもしれぬ、そんなかすかな希望とともに、私はこの、著者による「悪魔払い」の書を読了した。
 

 (初出:「日本経済新聞」2005年9月11日)

 


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