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今福龍太が読む 4

村上龍『イン ザ・ミソスープ』(読売新聞社)


 なぜ小説を書くのか、という問いにたいして、思わせぶりで個人的な動機づけを離れた、純粋に政治学的な理由をもって明快に応答できる作家は、おそらく日本においては村上龍しかいない。現実の社会のマクロ政治学的な構造を批判的に見据えながら、それを「小説」という物語の手法のなかで一種のミクロ政治学の実践として語ること。そうした方法論として小説が存在しているということを誰よりも強く直感する村上龍にとっては、現実の社会現象として表面化する人間のあらゆる欲望と情念の産物や営為は、彼のストーリーテリングのための素材などではなく、まさに小説という政治学を発動するための認識論的な戦いの現場として存在することになる。

 本書は、一人のアメリカからやってきた猟奇殺人者の謎めいた三日間の行動を、夜の新宿を外人に案内するというアルバイトをしている二十歳の若者の視点から描き出している。大晦日へとむかう「時」がもつ終末論的緊張感を基調低音に据えながら、歌舞伎町のパブでの大量殺戮の現場に立ち会うことになった若者の日常心理が決定的なカタストロフ(崩壊)の淵へと連れ出されてゆく過程が、ほとんどステレオタイプとも呼ぶべき俗っぽい道具だてにも武装されて緻密に語られてゆく。鮮烈な殺人と暴力の描写は、リアルなものが姿をあらわさないわれわれの「現実」というもの表皮を、冷徹に引きはがしてゆく。

 現実の底が割れて、現実の社会がよってたつ本質的な原理が露呈する姿を、村上龍はひたすら小説という方法論のなかで探求しているのだ。彼の作品が、つねに黙示録的で、廃墟のような破滅的カタストロフを希求しているように見えるのもそのためだ。だが、「現実」というものは、まさにその底が割れることを徹底的に阻む社会的制御のシステムとして機能していることを彼は一番よく知っている。本書の結末部分を書いていた著者を襲った神戸・須磨区の事件の擬似的なリアリティが、小説というミクロ政治学の方法論と格闘する著者の今回の意識の戦場だった。


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