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今福龍太が読む 6

森巣博『無境界の人』(小学館)


笑みを浮かべながら思わず快哉を叫ぶ、というような本に巡りあうことは、ちかごろひどくまれになった。流行小説やタレント本、コンピュータ本や商魂丸出しのマーケティング本(人生論的翻訳書の多く)といった本ならざる本、似非本の暴力的な氾濫のかげで、私たちにほんとうにスリリングな思考を迫る書物の数がひどく貧弱になってきていることはたしかだ。もちろん、まだ稀に良書はある。佳作もある。考え抜かれ、調べ抜かれた労作も、何とかまだ出版の日の目を見ることができている。

 だが、そのような本にたいし、快哉を叫ぶ、ということは少ない。なぜなら、私の信ずるところでは、思わず人の心の空洞に痛快ですがすがしい風を吹き込むためには、その本と著者の筆致のなかにある種の「快楽」の相が必要だからだ。エピキュリアンとしての身体感覚と知性のバランスのなかで、はじめてねばり強い日常的思考の端緒が築かれる。ところが学術界における哲学や思想は、昨今、思考の倫理的な身だしなみに気を取られるあまり、ものを考えるということのもつ、ごく日常的で通俗的な「快楽」の側面をひどく過小評価しているように思えてならないのだ。

 そしてまさにこの点で、本書は、人間的日常の享楽主義的な空気を充満させながらも、思考の生真面目なエシックスから決して離れることなく、もののみごとに人間存在の本質的な問題点に迫る糸口を明示し得たという点で、快哉を叫ばずにはいられない、久方ぶりの快作として強く私を印象づけた。

 著者の稼業は、現在オーストラリアを拠点にして世界中の賭場を攻めつづけている、カシノ賭博の常打ち賭人である。そして本書は、そうした著者の賭場の内外を舞台にした生活の機微の中から分泌された無境界人として生きるエシックスを、過激な反「日本人論」の論理を繰り出しながら記した私的ドキュメンタリーとでもいえようか。だがこう本書の履歴と構成を解説しても、著者とその作品である本書が私たちに思考をうながす核心にある、あの輝ける珠玉の存在を示唆することなど、とうていできそうにない。なにか本書は、日本語においてこれまですくい取られることのなかった、ある種の渡世の自由さ、無限定さを、はじめて痛快な肉体と頭脳の統合のなかに実現した、稀有なる作品であるような気がするのだ。その魅力はだから、人間の魂が本来的に持つ、珠玉のような僥倖とでも呼ぶほかはない。

 本書の冒頭から、著者の自由さと無限定さへの欲求は、火を噴くように爆発する。オーストラリア・クイーンズランド州最大の歓楽都市ゴールドコーストにあるジュピターズ・カシノの前で、日本からのヤクザらしき人物に突然「日本人ですか?」と訊ねられた著者は、賭で手痛い敗北を喫して重く暗い怨念で充たされた体に芽生える殺気をじわりと相手に差し向けるように、からかい半分で「日本人とは、どういう意味ですか?」と逆に問いかける。予期せぬ応対に驚き、答えに窮して言葉を濁す相手を著者はさらに問いつめてゆく。「日本国籍所有者のことを日本人というのか?」「日本に帰化したガイジンがなぜ日本人ではないのか?」「大和魂や日本精神などというものは、一体どこを探せば見つかるのか?」・・・・・。

 この度肝を抜く冒頭から始まり、本書は一気呵成に、巷に氾濫する「日本人論」なるものの幻想性を、最新の国民国家批判からカルチュラル・スタディーズにいたる学問界の新進理論をいとも自由に活用しながら、暴きだしてゆく。ネオナショナリストや阿呆陀羅経読み「知識人」による有象無象の「日本人論」が、少数者の差別と排除に基づく集団的自慰行為であると喝破し、そうした社会は実のところ、多数者が少数者の抑圧に無意識に荷担しつづけるという意味で、多数者にとっても畢竟住みづらい社会なのであると、エドワード・サイードやベネディクト・アンダーソン、坂井直樹らの著作を引きながら説く部分など、学術用語の晦渋な使用に胡座をかいた凡百の学術論文の自信のなさに比べて、なんとも頼もしいほどの堂々たる理論展開である。

 著者は二十歳を過ぎてから、国境の存在などないかのように、世界を渡り歩いてきた。通用する姓もすでに森巣ではなくMorris。イギリス人女性と結婚し、「混血」の子供も産まれた。頼みとする組織も、制度も、政治共同体もなく、幻想の母国語すら振り切って、ただ自らの「人」としてのミニマルな倫理と道理を「世界」に直接対峙させながら自力で生き、考えぬいてきた著者にとって、近代の「国民国家」という捏造物が、本書において徹底した批判と解体の作業にさらされているのも当然なのだろう。著者の優れた資質は、「混血児」を持ったというような生活の現場で突き当たる実存の問題から自らの知的好奇心を出発させ、そして必ず、正しい書物に突き当たり、その成果を自らの快楽的な思考の栄養分として自在に取り込んでゆく、みごとなまでの知のフットワークである、といえようか。

 賭人の明日なき日常の瞬間瞬間に現れ、消え去ってゆく周囲の男女の感情の機微も、言葉を失うほど美しく純粋だ。だがそれらの物語に心をふるわせつつも、やはり本書は、特異で痛快な読書論にちがいない、と思い直す。アンダーソンも、ウォーラーステインも、ノーマ・フィールドも、著者のような読者によって生き直されることほど幸福なことはない。正しい本に突き当たるためには、私たちは「日本人」を辞めねばならないのかもしれない。


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