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今福龍太が読む 7

李静和『つぶやきの政治思想』(青土社)


 真摯かつもっとも果敢な思想とは、本質的にこのように思考してきたのではないか。著者の詩的で官能的ですらある言葉の連なりに心を揺さぶられたあとの最初の思いはこうである。「このように」とは「どのように」なのか、という説明を求める問いには、論理的・分析的な言語が捕獲することも到達することもできない、生の身体的・情動的な領域に宿された知に寄り添って思考しようとする著者のことばづかいと表現の身振りに、ただつきしたがって、この文章を自らの内部に受け止めるほかはない、と答えよう。思考することへの意志が、自らの徹底して個別的な身体的記憶や情念の構造をそのままに受容しながら、そこに決して自閉的でも自慰的でもない、いやそうした地点から最も遠い、精密な「内部の対話」をゆっくりと確実に築きあげてゆく。歴史や政治をめぐる思考の真摯な流儀を、このような詩的な言葉遣いによって「言語化」する方法があったのだという事実を、著者は静かに、しかし啓示のような驚きと発見の気配とともに、私たちにさしだすのである。

 「匂いや、空気や、あるいは非常に個別的なある種のかたまりみたいな生身の言語・・・そのようなものも言葉として扱えるまなざし」---たとえばこれが、著者自身の「内部の対話」を言語表現へと塑造してゆく特異な方法の定義の一つである。それはつまり、自らの「生」に与えられた歴史的な条件と、自らの自立的な言語(というより「声」)とがぶつかりあい、折り合うぎりぎりの地点からしか、政治思想の言語は最終的に紡ぎ出されてはこないという、著者の確信を示しているともいえる。

 戦後、朝鮮半島---しかも四・三事件以後の済州島という苛烈な記憶と忘却が渦巻く地---に生まれた女性が、日本において政治思想研究者としての仕事を持ちつつ、「慰安婦」について(もちろん本書の思考の射程はそれだけに限られるわけではないが)日本語で書く・・・。この構図自体が、主題を概念的な用語によって客観的・分析的に語ることをはじめから拒否していることはいうまでもない。国家、民族、家族、家郷、男、女、父、母、子供・・・。本書の主題をかたちづくるこれらの問題群はいずれも、著者の地理的・歴史的身体と記憶の層に直接かかわりをもち、そうした複雑な身体意識のなかから手探りでつかみ取られるべき生存の位相を深くかかえている。そして表題作の冒頭で著者はまずこう書きつけることで、その困難な、ぎりぎりの表現行為に対峙する心構えを提示する。「分からないこと。分かってはならないこと。消費するのではなく受容しなければならないこと。それは語る私に、聞く我々に、居心地悪さを残す。だが(・・・)解釈することを拒否しなくてはならない。それが生きる場だから」。

 こうした言葉によって語りはじめられる文章が、理解や解釈という歯切れのいい叙述の構造をかたくなに拒みながらも、一方で決して感情的で自閉的な言説へと横滑りしてゆくことがないのは、著者が語ろうとしている思考の領域が見事に自らの「生きること」の揺れと厚みのなかで照準を合わせられているからである。個の「生存」としてしか存在しえない記憶がわれわれの歴史の「現在」を差し貫くときの、尊厳と羞恥とに満ちた両義的な作用にたいし、著者の直覚的なまなざしはもっとも研ぎ澄まされる。慰安婦のハルモニたちの語りを、歴史の「証言」行為として、あるいは植民地主義をめぐるイデオロギー的な抵抗の声として外部化し、意味づけるとき、われわれの多くは記憶を語ることによって生きてゆくことができなくなってしまうある「生存」の層が現に存在していることを不用意にも忘失しているのだ。

 人間ひとりひとりの「生存」の行為自体が、自己の記憶と自己とのあいだの調停の絶えざる試みとして生きられ、そこにしか思想化されるべき「生の具体性」はないという著者の主張は、しなやかで力強い思想の未来を指し示す。「主体」「権力」「支配」「隷属」「母性」といった、すでにイデオロギー的に意味を規定された概念的な用語の羅列にとどまるポストコロニアリズムやフェミニズムの議論と著者の主張との距たりは、まさにこの「生存」の場に交差する「歴史の神経系」とでもいうべき記憶の痛みと羞恥とを、思考の言葉がどれほど内包しえているか、という一点にかかっているからである。

 羞恥と抑圧のかたまりを「抱え込む」「抱き取る」、とも著者は表現する。この本書の鍵となる表現を叙述の比喩的かつ現実的な駆動力に据えることで、著者は自らの「生」の固有性を中心化し特殊化して自己完結的なセンチメンタリズムに陥ることからいさぎよく離脱し、朝鮮半島に個別に展開しつつ共有されてきた「歴史」の具体性の局面を、自らの意識と身体の問題として「抱き取」ろうとするのだ。

 最後につけ加えれば、日本語が、日本語の自明の所有者ではない者によってこのように柔らかくかつ強靱に「抱きとめられ」たことこそが、本書におけるもう一つの稀有な「事件」であるというべきであろうか。


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