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今福龍太が読む 9

上野俊哉『ディアスポラの思考』(筑摩書房)


 人間の、郷土から遠く離れた土地への意志的・強制的移動と離散を示す「ディアスポラ」という概念は、ギリシャ語の「スペイロ」(まき散らす、散乱させる)に由来する古い言葉である。いうまでもなくこの概念は、歴史的な用語としては、ユダヤ人の二千年を越える離散と流謫の経験を意味するものとして、長いあいだ特定の歴史学的意味論の領域に特権化されてきた。のちに、たとえば十六世紀末のペルシャ、トルコの侵入によって領土を失い民族離散を余儀なくされたアルメニア人のケースに転用されるといった例外的な適用はあったにせよ、ディアスポラという概念はほとんどもっぱらユダヤ的離散と放浪という文脈の中で語られつづけ、そのことによってごく近年に至るまで西欧の国民国家の統合原理から外れた限定的、局所的な事柄として語られてきたのだった。

 けれども近代世界を覆い尽くし、それによって現代の世界の構造を基本的に決定づけることになった植民地化という運動が、結果として多様で包括的なディアスポラを誘引することになった歴史を、もはや私たちは無視できなくなった。植民地主義は多くの西欧宗主国の人々の移動や移住を生み出しただけでなく、植民地における労働力として膨大なアフリカ人奴隷(後にインド・中国系をはじめとする無数の契約労働移民)のアメリカ大陸・カリブ海地域への離散を生じせしめ、またインド洋・太平洋地域においても多くの労働力移動による民族離散が起こった。さらにそうした植民地主義的な過程によって生じた旧植民地の文化混淆的・言語混淆的な社会の成員が、こんどは欧米の大都市に移民や亡命者として還流するという経験を、いままさに私たちは同時代的に目撃している。ディアスポラはユダヤ的文脈をすでにとうの昔に超えて、現代社会の隅々にまで、それがつくりだした(ポスト)植民地主義的な政治・文化の編制の糸をはりめぐらしているのである。

 ディアスポラの経験とそれによってつくられた社会構成が遍在する世界で生きるという現実の確認は、日本人にとって、あるいは日本語を媒介に思考する人々にとってもけっして他人事ではあり得ない。上野俊哉は、現在の欧米において「ディアスポラ・パラダイム」として文化研究の領域で活性化している新たな歴史批判・近代批判・資本主義社会批判の思想運動を吸収し、それらを手際よく整理しながら、本書において現代の思想がディアスポラ概念を方法論的な戦略としてどこまで広範に活用しうるかを、真摯に、かつラジカルに問うている。

 エドワード・サイード。ポール・ギルロイ。レイ・チョウ。上野が本書で中心的に依拠するこれらの思想家たちは、みないずれも自らの出自と移動の軌跡のなかに、深くディアスポラの経路を刻み込まれている。サイードはパレスティナからニューヨークへ、ギルロイはジャマイカ(両親の出自)からロンドンへ、チョウは香港からカリフォルニアへ、というそれぞれに単線的ではないディアスポラの軌跡は、しかし単に家郷と現在の居住地との二地点を結ぶ地理的・空間的な距離や関係性に還元できない、現実と想像と記憶と政治のないまぜになった錯綜した認識のテリトリーを出現させる。とりわけギルロイの近年の黒人系イギリス文化研究と大西洋を交差するディアスポラ文化史の理論化の作業によりながら上野が本書で正しく指摘するように、ディアスポラは人間の起源の土地からの切断を個人のレヴェルにおける民族伝統や共同体からの隔絶の経験として社会心理学的に定式化するための方法論ではない(それらは従来の社会学的移民研究の常套手段だった)。ディアスポラはむしろ、歴史や伝統の喪失やそこからの断絶が、かえって想像力や記憶を刺激し、さらに社会編制のなかで自己のアイデンティティを組み替えてゆく政治文化的な運動のプロセスを集団的に喚起するようなかたちで作動する認識の相に与えられた名なのである。本書が分析するように、ギルロイはそれを、たとえばイギリスのカリブ系移民二世たちによるラップやレゲエ音楽の多彩で接続的な引用と練り上げの表現文化のなかに探求し、人為的に構成されたヴァナキュラーな移民文化のなかに、植民地主義的近代がつくり得なかった批判的な公共圏の創発を探り当てようとしたのだった。

 そうであるとすれば、国家や民族性、あるいは人種や伝統といった近代概念を自明の文化規範とするあらゆるイデオロギーが、ディアスポラの思考によって厳しく問い直されることは必然である。そしてこの局面において日本人だけが中立の、あるいは部外者の立場でいられるわけもない。本書のもっとも意欲的な部分は、ディアスポラ概念を、著者自身によって問題化された日本の近代思想史や現代日本のポピュラーカルチュアの領域に誘い込み、哲学者中井正一や作家中上健次の仕事のなかに強度あるディアスポラ運動の契機を読み取ろうとする試みである。とりわけ、ブリリアントな中上論へと誘導される論考「ラグタイム---ディアスポラと「路地」」は、起源としての紀州の「路地」を失い、その外へと漂流しながら想像の「路地」をユートピア的に生産し、やがては苛烈で混乱した異族と異文化混淆の非-場所的な「路地」へと転位していった中上の小説と生のかかわりを、ディアスポラ=「路地」という仮説のなかに描き出していてスリリングである。

 ディアスポラを、客観的な分析手法としてではなく、徹底して「意思的な」思想・実践行為として引き受けようとする熱い宣言に満ちあふれているところに、私はもっとも共感した。


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