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管啓次郎
Keijiro Suga

コヨーテ読書 9
草原狼(ステッペンウルフ)年頭所感


 おくればせながら、あけまして。本年(1998年)もよろしくお願いいたします。

 さて、今年はキューバ独立運動に端を発した米西戦争、百周年。シアトルのうちの近くの公園には、ちょうど百年前にマニラ湾で実戦に使用された船の大砲が、砲口をつぶされ黒ペンキを塗られ、子供たちがまたがって遊べる遊具として置いてあります。こうして実物をしめされると、百年なんて短いものだとも思えますが、自分の記憶をどんなにさかのぼっても百年前につながる事実は何もないのだから、やはりそれは忘却より深い時間の底。いまから百年後のことを考えれば、百人の鬼が勢ぞろいして大笑いするに決まっているけれど、年頭に未来のことを思うともなく思うのは、人情です。

 ところで、ぼくは今年満四十歳をむかえるというので(あたかも人ごとのようにいいますが)狐につままれた気分。しかしこれをもって「いよいよ不惑か」といったら、友人から「不惑といふのは数へでいふものだよ俺たちの場合去年の正月に明けてすでに不惑となつてゐたのだよ」と諭された。これは奇怪。なにゆえ昨年一年も(それ以前とおなじく)およそあらゆる事ごとに迷い、惑い、まろぶがごとく日々を送らなければならなかったのか。ひとことでいって、like a rolling stone.

 それでは不惑が聞いてあきれますが、いかんせん、昨年はお正月にその自覚がなかった。今年は、はじめからそれを自覚しているだけ、ささやかながら希望がもてる。かくして「不惑」という古来のさだめがしめす社会的責任をはたすべく、今年は身をつつしみ、心を真竹のごとく正して、仕事に打ちこみ無病息災、無辺の世界のアローヨ(枯れ川)を、不羈の片雲を追って歩いてみることにしよう、と決意した次第です。

 不惑という言葉には、どうやらそれをすぎるともはや方向転換もままならぬという自覚がこめられているのでしょうか。それが最後の転身の機会であり、それをすぎたら自分はいやでも終わりにむかっておなじような自分をくりかえしつつ生きざるをえないということでしょうか。何しろ四十歳にもなると、誰でも二十年の時間が見通せるようになる。無為に終わった過去の二十年を未来に折り返せば、それが人生のあらかじめ約束された終わり(それもうまくいってのこと、途中であえなく倒れる可能性はつねにある)。慄然とする短さです。その短さを自戒するようになったとき、あるいは中年がはじまるのかもしれません。

 消費社会ではどうしても青年期が長くなる、という意見があります。これは商品として組織されている生活様式のオプションの多さと、それまでの経緯を問わずともかくあらゆる時点でそのつどのスタート台につけば一律に過去を白紙にしてくれる貨幣の魔力に乗った見せかけの「自由」に由来するものだと思いますが(とはいってもその見せかけが保てることこそ真の「自由」なのだともいえる)、たしかに行動的には青年のまま肉体は老年に突入してゆく人も、現代では珍しくない。するとつまりは、従来の「青年」や「中年」や「壮年」や「老年」という区分は意味を失い、すべては個人が自分の生き方をどのように「様式化」するかという問題に帰着するのかもしれません。それは趣味の問題ですが、自分の趣味を貫徹するのは、それはそれで非常にむずかしいことです。

 哲学者、というよりもランボーやアンドレ・マルローと並ぶ、自己の生の様式化にすべてを賭けた「生の詩人」と呼んだほうがその本質をついていると思われるミシェル・フーコーもまた、満四十歳になろうというころ大きな転機をむかえていたようです。すでに『狂気の歴史』も『言葉と物』も書き上げていた彼は(こうしたすべてが二十代から三十代にかけての仕事だと思うと茫然としますが)、以前から気に入っていたチュニジアの海岸の漁村に家を買ってずっとそこに住もうと考える。さらにはニーチェの教えに忠実に、毎日少しずつ余計に、日焼けし、自己の肉体を律し、スポーツ的な「ギリシャ人」になってゆくことを誓う。彼と正確に同世代であるもうひとりのニーチェ主義者三島由紀夫との対比には非常に興味深いものがありますけれども、たぶん死の恐怖と魅惑に深い関わりをもつにちがいないこの「太陽」への憧憬が、フーコーと三島の二人の生の様式化にとっては、中心的な主題となりました。(ついでにいえば、肉体へのこだわりとは、それ自体、非常に観念的なものです。ぼくがいつもボディビルダーたちに感じて驚くのは、かれらが逆説的にも非常に観念的な人々だということです。)

 もちろんぼくは、この二人の「生の詩人」のみならず、自分の生を誰のそれにもたとえるつもりはありません。海岸生活にはひかれますが、「ギリシャ人ぶり」にはそうでもない。ぼくにもぼく自身の様式化への道があるのかもしれませんが、それはまだはっきりせず、茫洋とした島影のようにかすんでいます。それでも不惑は不惑、それは年齢というよりも決意の問題です。そこでぼくもシアトル名物スペースニードルの大晦日の花火ショーの音を遠くに聞きながらあるささやかな実現への誓いを立てたのですが、それについてはいわずにおくのが花でしょう。荒野に草をむすんで後日のための道標とするように、以下のたわむれの小「狗」集をもって、その獣道の決意のための覚えとしておきます。

 では、お元気で。

 年頭小狗集 「犬の教訓」 一九九八年元旦

 やまひなり 不惑 惑溺 溺死寸前
 雷電のアイデンティティや 雷おこし
 屯田兵 とんでもないや だまされた
 屯田兵 デンマルク国への最大遺物
 手習ひも 一期一会の 四十路かな
 ようそろう 揚子江楊貴妃 ひざまくら
 酔ひざまし ハイデガー開けばまた熟睡
 日溜まりに猫もまたぐや 『有と時』
 三駅までは歩かうぢやないか モンゴロイド魂
 気配にひよいと ふりむけばランボーが立つてゐる

 

  

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