管 啓次郎 コ ヨ ー テ・歩・き・読・み・ 
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コヨーテ歩き読み12
畠山重篤『リアスの海辺から』
(文藝春秋、1999)

 

 衝撃的な傑作だ。三陸リアス海岸で育った漁民が、海を痩せさせるのは森林破壊に ほかならないという真実を見抜き、漁場の海に流れこむ川の流域に漁民による広葉樹 の植林運動をはじめる。すでに十周年をむかえるという、「森は海の恋人」を標語と するこの運動が、「リアス」という地理学的名称の源にあるスペイン大西洋岸ガリシ ア地方に伝わる「森は海のおふくろ」(El bosque es la mama del mar)という諺と呼 応し、青年時代から著者が渾身の情熱を傾けて養殖にとりくんできた帆立貝の貝殻が 、ガリシアにあるキリスト教の大巡礼地サンチアゴ・デ・コンポステーラの巡礼の象 徴として使われるそれにまっすぐにつながり、雑木の森が育てる多様性と豊穣の海、 そこに住む人々の生活感覚と知恵と心も、ユーラシア大陸ひとつ隔てて二つの大洋に 面しながら、ひとつに合流する。世界とは響きでできあがった、四つのエレメント( 地水火風)とさまざまなかたちの生命の、時空を隔てたダンスなのだということが、 圧倒的なリアリティをもって目の前に現れる。地にも水にも足のついた生活ぶりのゆ たかさは、都市とも産業化されたライフ・スタイルとも、まだまだ共存させることが 可能だし、そのためにできることやるべきことはいくらでもある。本当にそんな気に させられる、気合の入った本だ。

 むせるようなゆたかさが、少年時代の著者の生活をみたしていた。海がなければ一 日たりともすぎてゆくことはないし、知識の習得も責任ある実践も、すべてが日々の 海とのつきあいという面に刻まれてゆく。小学生ともなれば、ともかく毎日が釣りや その他のすなどり。そこには遊びも仕事もなく、ただ幸福が真剣に追求される。目張 釣り、とうじんぼう釣り、子持ち蟹を狙う夜泥棒 [よどぼう] という夜釣り。潮の変 化も、餌や仕掛けの準備も、釣ってはならないものの判断も、四季が循環する一年の サイクルも、少年はひとりで身につけてゆくのだ。「蟹が大きな籠にいっぱい。真蛸 三匹、大型の真鰈十二匹、五十センチはある黄肌 [まつかわかれい] 一匹、大物のと ど一匹、車海老十八匹、海鼠七個、でろれんつぶ十三個、赤にし一個」という一晩の 夜泥棒の成果もすごいが、この獲物とそのすばらしい味を育むのが「広葉樹の森から 流れ込む二本の小さな川なのだ」(51ページ)というからくりも、いつしか彼はお のずから悟ってゆく。こうした知識の構築ぶりに、ぼくとしては、特に興味がある。

 ある年、冬が迫り潮の引きが悪くなるまえに、意をけっして学校を休んで「屏風岩 」の主ともいうべき大物のとうじんぼうを釣りにゆくことにした少年に、父親は「そ ういうことだったら父さんが先生にいってやるから......」と、ぽつんという。これ には唸ったね。もちろん、海の教育は学校教育よりもはるかに大切だ。農林水産業の 、ざっとこの二千年くらいの伝統にいまだつながった部分、利潤ばかりを考えて大規 模に産業化されたものではない部分を、着実にうけわたしてゆくような教育こそ、現 代の学校教育によってもっともずたずたにされてきたものだろう。学校はたしかに、 産業構造の要請に、忠実にしたがってきた。貧しい食卓と貧しい脳味噌と貧しい都市 景観と貧しい言葉は、どうやらすべて、手をたずさえて輪舞を踊っているらしい。

 その対極にあるのが、海に森を見る目であり、森に船を見る目であり、貝殻に星を 見る目であり、三陸にガリシアを見る目だ。因果関係と類縁をしっかりと見抜き、マ テリアルなゆたかさをはばむものをきちんと指摘し、それを超える道を探る。この直 情の漁民のリアリズムに、学べることは大きい。「貝道」をたどり聖ヤコボのみちび きによりスペインをさまよう後半部は、感染的な幸福感にみちている。

(1999.06.15)

 

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