管 啓次郎 コ ヨ ー テ・歩・き・読・み・ 
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コヨーテ歩き読み7
鶴見俊輔『期待と回想』
(晶文社、1997)

 

 鶴見俊輔の仕事はほとんど知らない。彼がごく若いころに書いた『アメリカ哲学』 をだいぶ以前に読んで、プラグマティズムの紹介につづいて佐々木邦を論じているの に意表をつかれたことがある。ぼくはプラグマティズムの思想にはずっと強い魅力を 感じてきたが、難解きわまるパースをはじめ、これまでに真剣にとりくんだことがな くて、まだこれからいろいろ学ぼうと思っている。その核心にあるのが「杜撰さ」と 「曖昧さ」を排除しない態度らしいという見当を、鶴見の語りをまとめた上下二巻の この本を、風花が荒々しく舞う春の一日に読んで、つけることができた。

 正直な人だ。話にはくりかえしが多いが、いかにも自分をよく見切ったという感じ がする。思想や知識を自分個人の力として使いそれで他を撃つという態度がない。他 人の否定すべき部分を見るときには肯定すべき部分を見るときに比べて目が曇るもの だということを、ただ知的な理解としてではなく、姿勢として身につけている。母親 をはじめとする女性に枠づけられ、高名な父親の影におおわれ、鬱病によって読点を 打たれた、「きせる学問」の「偽学者」としての自分の人生の範囲を、きちんと見定 めている。その上で、編集が思考であるという生活を半世紀にわたってつづけ、同時 代人のあるいくつかのみごとな精神に、率直に感嘆してきた。そのみごとな感嘆ぶり が、話を聞くわれわれに、新たないくつもの小径を照明してみせる。

 話のほとんどは思想的世間話だが、この「世間」はたしかに何事かを考えてきた。 そこにこめられた集合的な「期待」をはっきりと「回想」することなくしては、後か ら来た者にとっては歴史も何もあったものではない。十五歳でカフカのカール・ロト マンのようにアメリカにやられたこのかつての道玄坂の不良少年は、ある集合的な動 きの歴史を証言し、その話のおもしろさは波瀾万丈で、マンガ的だ。

 自分の好みとして「思想を純化する、純粋化してゆくことに反対」だといい、「疑 いの守り神としてのタヌキを信仰している」という彼が、アナーキスト/プラグマテ ィストとしてつねに重視するのは「ぼんやりした領域」だ。

 

 記号論と編集との関係は、ぼんやりしている領域が重大だということです。「粗雑 」とは考える対象がはっきりしない、「曖昧」とは意味がいくつも複合していると区 別するとして、この「粗雑」と「曖昧」の二つをまとめて「ぼんやりした領域」とい うとすれば、パースには思想の生産性の基礎にすでにこういう考え方があった。ミー ドにもジェイムズにもあると思います。(下巻、131ページ)

 

 そしてこのぼんやりした何かの気配を感じるということは、資質の問題以外ではな く、つまりはその人の人生に対する態度そのものの露出だということになるだろう。 やや長くなるが、印象的な部分をもうひとつ抜き書きしておく。(ついでにいえば、 書評は引用を中心に組み立てられるべきだと、ぼくは思っている。ただ、普通の新聞 や雑誌の限られた枚数では、それはかなわないことが多い。)

 

 哲学者は結局、自分のどこかにもっているクセから離れることができないんです。 言語の中には規則がありますよ。倫理的な規則がある。たとえば「正しいことをなせ 」。これは倫理的な一般原則です。カント哲学です。それじゃ「なにが正しいのです か?」そのとき、哲学というのは自分自身を尺度にするので、自分のクセというか、 気質があるでしょう。それなんですよ。

 「日本に哲学なし」というのは具合が悪いんです。日本人はもう何千年もここに生きてきたのだから、そこには土地との相互交渉があり、人と人との関係があり、自分たちの考え方があり、自分の考え方があるんです。創刊のころ、鶴見良行(アジア研究者)を『思想の科学』にひっぱりこみ、上野の地下道に行って、そこにいる人から哲学を聞いたことがある。「この世は本当にあると思うか」「あなたが死んでも、空は青いか」と聞いて歩いた。地下道に住んでいる人たちはいろんな考えを出してきた。それを「ひとびとの哲学」として雑誌に載せたことがあるんです。そこから再出発していく。ひとびとの哲学ですね。そう思った。はじめから出発しよう、とね。それは伝記という方向です。(下巻、208ページ)

 

 この「伝記という方向」の重視に、ぼくはぼく自身の性癖にしたがって、倣いたい 。伝記とは、あらゆる異質な断章群を呑みこんで、なお成立しうるものだ。人がたし かに生きたという唯一のフレームに依拠しつつ、思索と彷徨と感情と経済のすべてに ふれつつ、社会という共同性と個として生きられた主観性の干渉面を、描く。批判的 常識主義にとっては、まちがいなくもっとも便利で、しかも成果を期待できるジャン ルだろう。

 それは「自伝」という名の、「私」という他人をめぐる伝記の場合もおなじで、鶴 見のこの自伝的語りは、伝記ならではの混乱する水の上に、反復する魅力的なパター ンをくりだす波紋を浮かべている。こんどは全十巻の『鶴見俊輔座談』を、枕元のラ ジオから流れる講談を眠くなるまで聞くようにして、通読してみたい。ぼくに内在的 に追想できる二十世紀の後半部分が、まるでちがった色彩と図柄をもって見えてくる ことだろう。

(1999.03.23)

 

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