時が多元的に響き合う対話
仲里効


 折に触れてあの眼差(まなざ)しに触れてきたような気がする。あの眼差しとは何か? なかなか正確に言い当てることができないので、つい思いあまって超越の目と言ってしまう。人が言葉を失うとき、しばしばそんな口の滑らし方をするようだ。

 東松照明の『太陽の鉛筆』に初めて接したときのあの目である。一枚一枚の写真はたしかに一人の写真家の手になるものだが、その向こうから訪れてくる濃密な気配を感じさせられた。写真家もよく心得たもので「撮ったのではなく撮らされた」と言っていた。<太陽の鉛筆>とは写真家の私を超えた向こうからの眼差しの謂(いわれ)である、と今なら少しはもっともらしく言葉にできる。巷に氾濫(はんらん)する写真の多くは主体や名に内属する。東松照明の写真は違う。見る者を記憶と存在の深みへと招き入れ、静かな胸騒ぎへと誘発するのだ。

 今福龍太はこうした東松照明の写真から伝わってくるものを「ある抽象性」、「時間の形而上学の現れ」といっていた。私たちはすでに『チューインガムとチョコレート』『長崎<11・・02>』『太陽の鉛筆』などのモノクローム作品を知っているし、戦後写真史はそれらをシリアスなドキュメンタリーとして括(くく)っていた。だがそうした写真史の文脈による囲い込みと、時代や社会への内属から東松照明の写真を解き放ち、新たなる時間の相へと開いたのが『時の島々』である。それを可能にしたのは、人種や国境や文化を超え、この世界を旅と混血の視線によって読み替えた今福龍太というクレオーリストである。

 これはテクストと写真の対話であるが、予定調和的な対称性を拒む。螺旋(らせん)形でヘテロジニアスなのだ。写真に目を落とし、テクストを繰る。と、思いもかけないところから光を当てられ、アッと息をのむ。時が多元的に響き合う。テクストが写真の秘密を探訪し、写真はまたテクストを発光させる。<時の島々>を巡りながら<島々の時>がざわめき始めるのを覚える。迷い雲がひとつ、果実のよに哀しみに触れた。
(なかざと・いさお 沖縄の雑誌「EDGE」編集者)
<初出:「沖縄タイムス」1998年2月20日夕刊 読書3面>