管啓次郎
Keijiro Suga

「翻訳人」、あるいは新しいヨナたち


管啓次郎の「『翻訳人』、あるいは新しいヨナたち」というエッセイを掲載し ます。これは平凡社から刊行のシリーズ「新しい<世界文学>」の発刊に向けてマニフェストとして書かれたもので、ハードコピー・ヴァージョン(印刷)は『月刊百科』1997年4月号に掲載されています。わたしたちが生きる世界についての、真の、そしてさまざまに異なるパースペクティヴと、それらが混淆したうえでの新しい世界像・自分像があり得ることを予感させる、力のこもったエッセイです。

 

 結論からいおう。翻訳文学に興味を失った文化とその言語は、はてしない同語反復におちいり、頽廃し、衰弱する。停滞し、腐敗する。唾棄すべき外国嫌いと偏狭きわまりない自国自文化崇拝がはびこり、閉ざされた黄昏のよどんだ空気の中で、陰湿な相互攻撃ばかりがつづく。あるいは、わずかにでも異質であると感じられる人々への、容赦ない冷酷な排除が牙をむく。これだけ明確に戦うべき相手がいくらでもいる以上、はっきりいわなくてはならない。ぼくらは翻訳文学を読むべきだ。つねに読むべきだ、いくらでも読むべきだ。もちろん、だれにとっても時間はかぎられている以上、だれもが世界のあらゆる地域の最新の文学のすべてを追いつづけるわけにはゆかない。あたりまえのことだ、地球の人口は六十億に達し、だれに頼まれなくても作品を書きつづける作家はいたるところにいるのだから! でもせめてひとつの異なった文化を背景とした、ひとつの外国語から翻訳されたひとつかふたつの作品を、それがどれほど自分とはかけ離れた世界のものであっても一年に一度は手にしてほしいと思う。それは別にきみの役には立たない。でも、心を打つかもしれない。きみを動揺させるかもしれない。そんな風に偶然手にとって読める作品、思いがけない新鮮さにみちた強烈な作品、派手な広告とは縁遠い聞いたこともない作家の作品を、これから何冊か、準備しようとしているところだ。

 十九世紀に一応の完成を見たヨーロッパによる世界制覇が、アジア・アフリカの旧植民地のあいつぐ独立というかたちばかりの終結に達したのが、二十世紀中葉以降の世界史の最大の流れだった。それで植民地主義が終わったわけではない。経済的支配のあり方が、ただ別の段階に移行したというだけのことだ。その一方で世界の人口はとめどなく成長をつづけ、国際貨幣経済を背景とする全地球的な物質交換は飛躍的に増大し、それに平行して多数の人の国境を超えた移動が日常化した。貨幣の首都とでもいうべき先進諸国の大都市では、自分とは異なった背景・言語・文化の人々と接触することはだれにとっても生活の一部となったし、そうした未知の隣人たちとのつきあいに、ある種の洗練と「正しさ」を模索することはだれにとっても義務となった。

 そう、あえて「正しさ」と呼び、義務と呼ぼう。昨年末、ペルーの日本大使公邸占拠事件が起こってから、日本に住む日系ペルー人たちに投石や突然の解雇といった信じがたい嫌がらせがあいついでいるという報道に接したことは、記憶に新しい。それが「文学」といったいどんな関係があるのか、ときみは思うかもしれない。だがぼくは、まさにそれは「文学」の問題だと思う。それは一方で、反政府ゲリラもフジモリ政権の当事者もひとりひとりの国民も区別なく「ペルー人」という存在をすべて同一視して嫌がらせに走る愚昧で卑劣な人間がまさに「ペルー人」という無差別的カテゴリーを言語によって設定しそれにしたがって行動しているからであり、他方でそうした外国嫌い(異物嫌い)の無意識的噴出である嫌がらせがいかに恥ずべきことかという判断を醸成する「場」もまた言語を使って歴史的につみかさねられてきた層にほかならないからだ。「部分」をもってただちに「全体」に代えるのはあらゆる全体主義の常套的修辞であり、そうした全体主義の欲望を暴きだすことは(一見どんなに無力に見えようとも)まず言語という平面で試みられなくてはならない。無意識が下す命令に抵抗することができるのは、忍耐強い意識化の努力だけなのだから。語られる言葉の内容、言葉の使用法がもっとも鋭く問われるのは、「文学」という、定義上われわれが生きる「現実」からは一歩引いた地平にひろがる言語的吟味の領域でのことだ。そこでは絶えず新たな問いが問われ、新たな答えが探られる。それは「現実」の直接性(ただちに反応しなくてはならないという必要)を欠く分だけ多くの時間を費やして、ある行為や言葉の意味と射程をよく考えてみることができる。

 ある唯一の宗教や社会道徳や政治的イデオロギーの専制的支配から抜けだした後の混沌とした異種並存社会に生きるとき、ぼくらの下す判断はすべて必然的に「文学的=批評的」なものとならざるをえないし、それはぼくらにいまだかつてなかったほどの大きな自由への可能性を与える。すべては、まだはじまったばかりだ。すべては、これから試みられなくてはならない。でもその自由とは、また何の保証もないことの裏返しでもある。何の保証もない真空じみた空間で、自分がどのような自分を、あるいは社会を、生きてゆきたいのかというデザインは、結局は言葉を使った終わりのない(自分との、他の人々との)対話による以外にはない。文学作品を読むこととはまったく無縁な生活をしている人だって、必ずそうしているのだ。自分の経験を言葉で描写し、反芻し、未来の計画を言葉で練り、想像し、自分という物語の束を編み上げ、それを社会に投影している。

 いいかえれば文学は、実際に、人を作る。あるいは文学の核心をなす翻訳は、人の感受性と思考を造形する。「翻訳的人物だね。翻訳人です」と、みずからをさして、ある老いた小説家がいったことがある。目が覚めるような、驚くべき言葉だ。これに対して、そのころはまだ四十代半ばだった批評家は「僕も翻訳文学者たることを心掛けている」と受けた。一九四八年のこと。もう半世紀の昔の話だ。モーパッサンに心酔した自然主義作家・正宗白鳥は、自分が子供のころから「西洋崇拝」だったということを自嘲しつつそういった。けれどももちろん、それが正しかったということを彼は知っている。これに対して、ランボーを翻訳し、ベルクソン、アラン、ヴァレリーを読んで批評家になった小林秀雄は、それを信条の問題として捉えなおした。ぼくはこの態度に与する。 注(1)

 じつはぼくらは、だれもが多かれ少なかれ「翻訳人」なのだと思う。西欧諸語からの翻訳によって猛烈な変形をこうむり、その混乱の中から数十年をかけてさまざまなことがいえるように鍛え上げられてきた近代日本語を使って生きるかぎり、人は「翻訳的人物」であることをまぬかれない。それをいえば、起源も系統も不明の日本語という言語はそのはじまりから北から南から列島に移民し流入したさまざまな人々の言葉が入り交じり攪拌されて編み上げられてきたものだ、というところまで話を戻さなくてはならないだろうか。いずれにせよ近世に鎖国という比較的交通の遮断された時代があって、その後でビーバーのダムが崩れたように異邦の文物と人々がおしよせる時期が訪れたということはまちがいないし、その流入はさらに急激に加速しつつある。グローバリゼーション(全地球化)という言葉は、一昔まえまではただの言葉でしかなかった。しかしマクルーハンが予言した通信流通網の発達による「グローバル・ヴィレッジ」(地球村)の成立という事態は、現在ではすでに実現したと見たほうがいい。われわれは、いまここに暮らすだけで、同時に何千キロも離れたいくつもの土地を物質的・情報的に旅している。旅を強いられている。

 日本語に住んだ人々は明治の激動期、「私」を作りなおし、「社会」を新たに定義し、「生」の輪郭を描きなおし、ひどくようすのちがう「世界」に直面した。思いがけない大きな波に足をさらわれ、水中でもみくちゃにされてからようやく立ち上がって満足とともに新鮮な笑い声をたてた近代日本の若者たちが「西洋崇拝」の「翻訳人」となったからといって、その崇拝ぶりを嘲笑するのはよそう。人にはただ、未知の世界に対して魅惑を感じる者と嫌悪を感じる者がいる、というだけのことだ。あるいは予想もしなかった何かの出現に、不意打ちをくらったよろこびを生きる者と、眉をひそめるか逆上し激昂する異物嫌いがいるだけ。あるいはよく知らない新しい言葉に夢中になる者と、母から学んだ言葉に飽くことなくしがみつく者。白鳥のような人物にとって、「西洋」はたしかに魅力にみちていた。それは別の社会性、別の私、別の生き方、別の語り方をしめしてくれる、異様な力をもった空間だった。それはエグゾティシズムであり、幻想の西洋主義だった。しかしこの幻想は、白鳥の肉体で現実化する。

 自足し安定したふりをする「この邦」の中だけで暮らすかぎり、自分がどのように人と関わり、どんな言葉を話し、どのような行為の連鎖のうちに生きてゆくかは、だいたい予想がつく。その完結した自閉的世界に耐えがたい息苦しさを感じたとき、あくまでも個人的な、脱出と放浪がはじまる。文学に人が求めるのは、つねに何らかのかたちのパラレル・ワールドだ。自分の生きる現実世界を裏書きしてくれるものであれ、激しく否定するものであれ、創られた語りの宇宙がなまなましい実在感をもって、この私が生きる現実をゆらす。そして文学における翻訳とは、そんな平行世界を手品のようにすばやく、直接的に提示する手法だった。若き白鳥たちにとっての「西洋」は、まずは実体を欠くイメージにすぎなかったが、そのイメージの衝撃は実際に「翻訳的人物」としての私を造形し、そのような私として「この邦で」生かすことになった。翻訳が生みだす現実の亀裂、予定された世界の進行にまぎれこむ偏差が、私の生涯においてかたちをとり、実現される。私とはフィクションにすぎないが、この作られた私をおいては、私に代わって私を生きてくれる存在はない。一方、それにつづく世代にあたる小林は、文学者という職業的自己規定の上で「翻訳文学者」であることを心がけてきたのだという。翻訳というプロセスを意識し、その操作が作りだす私を意識しながら、新たに文の生産にとりくむ。自分を「日本」という社会的舞台で暮らす「翻訳的人物」だと呼ぶ白鳥よりも、小林はさらに屈曲した地点に立っている。

 ここで「翻訳」という言葉に、少なくともふたつの層を区別したほうがいいかもしれない。積極的に翻訳をおこなうことを活動の中心にすえると決意する批評家がここで念頭におく翻訳が、そのもっとも根源的な層においては、単に外国語で語られた思弁の反復や理論の適用などではないことは、明らかだろう。あらゆる思考の発生の瞬間にある翻訳−−見慣れないもの、徹底して異質なものを稲妻の閃光のうちに見とり、本当には語りえないその残像を言葉で包囲しながら、暴力的に切りつめ、精密さを断念しつつ文の網にすくいとってゆく行為−−に、彼はここでふれている。そうした翻訳にとっては、じつはオリジナルが外国語か母国語かというちがいは、結局はどちらでもいい。けれども同時に、通常の意味での「翻訳」という行為がもつ圧倒的な厚みと力を無視することはできない。外国語と格闘し、あるいはその翻訳(それはすでに一種の外国語だ)を苦労しつつ読むという抵抗にみちた迂回を経てはじめて、人は自国語内の翻訳というぎこちなく苛立たしい経験さえも発見できるのだ。いかに多くの言葉が、われわれにとっては見慣れないものであることか。あるいは、その見慣れなさが突如として水晶の輝きをおび、われわれの生に(たとえそれ自体は無意味であっても)輝かしい読点を打つことか。そうした経験がたしかにあると信じられるからには、小林のいう「翻訳文学者」を単に「文学者」と呼んでもさしつかえないだろう。それは異質な思考、異質な言葉のアレンジメントを、ある言語に移入しようと試みる者のことだ。国語の安定に奉仕し、飼い馴らされた文章の整然としたふるまいのみを期待する者は、「文学」という経験の動揺には、そもそも何の関係もない。あるいは「翻訳」という迂回がないところに、「文学」はない。

 ごく普通にいって、翻訳とは一言語から別の言語への意味の転送だと考えられてきた。それは外国語のかたち(外的な形式、言葉のありのままの姿)を破壊することにより、その「魂」(意味)を救出し、護送する。別のかたち(自国語)に移されて、そのかたちの中で「魂」がじたばた動きまわることにより、自国語のかたちにもどこか変化が生じ、収まりの悪いところができる。もちろんそういっていいのだが、ここでもうひとつ注意しておかなくてはならないことがある。言語と言語とのあいだの距離は、相対的なものにすぎないという点だ。言語が「ひとつの言語」として数えられるものになるのは、書字記録が残され、行政が介入し、文法が確立されて以後のことにすぎない。二言語使用や多言語使用といった言い方自体、近代国家成立後のごく短い一期間にのみ問題にされてきたことでしかないのだ。あらゆる人は、自分自身が身につけてきたたったひとつの言葉を話すにすぎず、自分のたったひとつの言葉において世界を了解し、語る以外にない。「いくつ」とはっきり数えることのできない複数の言語を使って暮らす、移住・混住・衝突・交渉にみちたわれわれの状況は、同名のきわめて野心的な作品で堀田善衞の語る「路上の人」のそれと、まったく変わらない。

彼の村で使われていた言葉は、どこへ行っても、北イタリアの平原でも、南ドイツでもプロヴァンス地方でも通じたことがなかった。従って彼の知っている言葉は、彼が路上の人として、数年間を一定の地方にいたときの、その地の言葉と、また別のときに別の地方で数年間を過したときの言葉の混ぜこぜであり、それは結局、北フランス、北ドイツなどの冬期酷寒の地を除いて、エスパーニアからオーストリアに到るまでの、あらゆる地方語の合成であった。庶民にとって国、国家、国語というものは存在しなかった。あるものは地方地方の言葉であり、その法と慣習だけであった。あるイギリス人貴族一行の従者をしていたときには、日常用の英語までも覚えた。従ってわれわれのヨナは、会話の相手次第によって、その相手の言葉で話す。複数の地方人と話すときには、いくつかの僧院で下働きとして雇われていたときに覚えた、ラテン語の祈祷用の言葉でつなぎ、各地方人と自在に会話を交わした。それが彼の特技と言えば言えたが、その程度のことは、多数の路上の人々にとっては何でもないことであり、すべての言葉を話すということは、どの言葉も全的に修得しているのではないことをも意味した。さればヨナは自分の言葉を持たない者であると同時に、すべての言葉を持つ者でさえもあると言えるであろう。 注(2)

 現代において、この事態は一般化した。流浪が言葉を育て、経験がその使用法を教える。言葉はあくまでも個人の一回かぎりの生に属し、一世代で完全にとりかえがきく。ヨナの状況は、惑星規模に拡大した。「路上の人」として生きることは、ぼくらの多くの運命となった。たとえば白鳥にはまだ、「日本」がありそれとは物理的に遠く隔たった場所として「西洋」があった。われわれにとっては、どこへ行こうと行くまいと、千の世界が混在し、つねに同時に露呈している。「翻訳人」となることは趣味や選択の問題ではなく、日常的な現実、生き方の必要な技法となったのだ。

 もっともヨナの「すべての言葉」は話し言葉であり、それは書き言葉とはちがう位相にある。日常の実用的な言葉と文学とは、それではどのような関係にあるのか。ひとことでいえば、その場で現れては消える話し言葉に「歴史」の翳を与えるのが、文学なのだと思う。あたりまえの、しかし真に驚くべきことは、「文学」がつねに不在を語るものだということだ。日本語では通常「通訳」と「翻訳」という言葉が峻別され、「通訳」は口頭でのコミュニケーション、「翻訳」は書字記録の領域での仕事ということになっている。口頭での伝え合いが深みに欠けるわけではないが、ここでまさにその「深み」を生むのはその場では現前しない来歴であり、そこに浮上しない長い時間の澱だ。そして人が過去をとりもどすのは言語によってのことなのだから、語り合いの「深み」はすでに「文学」に属している。路上でのそのつどの交渉に歴史の翳を与え、その場にふさわしい「正しさ」を生みだすのは、「文学」なのだ。

 「文学」とは言葉のアレンジメントの定式化と、そこにいたる美学的・倫理的判断のつみかさねのことだ。したがって口承文学というジャンルは人類とともに古く歴然と存在した。だがそれが幾重にも折りかえされ畳みこまれた襞をもち、とても文字の助けを借りなくては覚えきれないほどの長さを手に入れ、その複雑さと長さによって人間にとっては完全に外在する「物」の重みと存在の自律性をおびるようになったのは、印刷術普及以後の世界でのことで、その複雑さ・長さ・洗練は、小説というジャンルでも詩というジャンルでも十九世紀に頂点に達したといっていいだろう。いいかえれば「翻訳的人物」としての現在のわれわれの原型は、十九世紀に確立された。ぼくらが生きる「人間」としての自己、信じる「価値」、描き思う「世界」は、好むと好まずを問わず、十九世紀のそれの延長にある。

 この前世紀の形式を、ただ廃棄することはできない。経済的にも、文学的にも、日常生活の様式でも、内省的な思考においても、われわれはあいかわらず「ヨーロッパ」の「帝国」が「世界」を制覇したその時代の形式を踏襲して生きている。しかし、「首都」が「海外」の「植民地」を経営するという地理的・物理的限定の時期は過ぎ去って、いまでは砕け散った植民地が世界にばらまかれ、目に見えない首都が電子のボディに乗って世界を流浪しつつ支配している。いたるところで都市はモザイク化し、境界は多孔化し、まったく異なった来歴をもつ人々がまったく異なった言葉を話しまったく異なった匂いを発散させながら、隣合わせに暮らしている。われわれのすべてがヨナとなったこの時代、ぼくらは地球規模で、隣のヨナの背後にあるものを見つめなくてはならない。ヨナの足元をなす観念の地層が、自分のそれとはまったく異なったものだということを知らなくてはならない。いいかえれば、きみが偶然に出会った、あるいはこれから出会うかもしれないヨナが背負う「文学」を、ぼくらは知らなくてはならない。同時に、それを翻訳しなくてはならない。世界化した物質流通と惑星化した情報流通を背景に、歴史上かつてない地平に直面したコスモポリタニズムが、新たな市民性(シヴィリティ、丁寧さ、「正しさ」)を手に入れるための唯一の方法は、これまで回路に乗ることのなかった種類の文学=翻訳の経験をつむこと以外にはないと、ぼくは思う。新しい市民性をめざすその基礎作業を怠れば、絶えざる移動のうちに拡散しあるいは突然の集中をくりかえすわれわれの浮遊する居住地は、ひどくさびしく殺伐とした、危険な場所となるばかりだろう。

 たとえばイギリス植民地だったカリブ海の小さな島に生まれ、住みこみの子守として働くためにアメリカに移住したひとりのアフリカ系女性。アメリカ南西部の大平原で生まれ、小学校に入るまでスペイン語しか話したことがなかったチカーノ(メキシコ系アメリカ人)の男性。カリフォルニアで生まれ、成人後の十年間をブラジルですごした日系女性。白人とアメリカ先住民の混血児として生まれ、数年間日本に住んだこともあるオジブウェ族の男性。こうしたかれらのすべてが、新しいヨナたちの言葉と物語を書き記す、でも自分自身以外のだれも代表しない、でもたしかに新たな市民性をこの惑星に刻む、作家たちとなった。どのひとりを特権化するつもりもない。ひとつの注目はしばしばひとつの忘却を隠すからだ。出会いはあいかわらず偶然に支配されるだろう。けれども生きること、旅すること、翻訳すること、語ることがすべておなじひとつの事態を意味するようなかれらとともに、そしてかれらの作品の背後をなす多くの路上の人々とともに、世界の広大さと深みを再発見する仕事は、手つかずでぼくらに残されている。

 

注(1)「正宗白鳥−−大作家論」(『小林秀雄対話集』、講談社、1966)
注(2)堀田善衞『路上の人』(新潮文庫、1995、24−25ページ)





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