トントンの時間漂流2
−−〈父〉とは何か?
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. . .  わたしが「トントン」と名乗るようになったのは、最初に子供を育てるようになった ときのことである。女の子だった。そのころ、テレビで芦屋雁之助とかいうコメディア ン扮する父親が、娘をヨメに出す前の日に拗ねて泣く、というドラマがはやっていて、 女の子だと父親はこんなふうになるんだよ、とか人に言われて、これが心底気に入ら ず、オレはそんな父親にはならないと宣言し、生まれた子供に自分を「トントン」と呼 ばせることにした。
 「トントン」とは「おとうさん」から作った子供用の造語ではない。れっきとしたフ ランス語で、「おじさん」という意味だ。血のつながったおじさんでも、近所のおじさ んでもいい。小さい子が、大人の男をつかまえて「おじさん」と呼ぶ、あれだ。
 だがそのまま「おじさん」と呼ばせるのは、「バブバブ」とか音を出すだけの赤ん坊 にはまず無理だし、二歳、三歳になって少しは発音が出来るようになっても、親を「お じさん」と呼んでいたのでは、世間の手前具合も悪かろう。だが、幸いフランス語では それを「トントン」と言う。これは音の上で「おとうさん」と似ていなくもないから、 聞いていてあまり奇異な感じもしない。
 ただ、世に悪名高かったハイチの秘密警察が「トントン・マクート」と呼ばれていた のが気になったが、トレンチコートにサングラス、目深にかぶった山高帽というのも悪 くないというので、これに決めた。
 
 これはただの気まぐれではなく、きわめて理にかなったことでもある。というのは、 元来「父親」というのは、不確かなものだからだ。ローマの諺に言う。母親は文句なく 確実だが、父親はいつも不確かだ。よって婚姻関係にしたがって父親を定める、と。
 女は自分で、その体で子供を産む。生んだら母親になる。だから「母親になる」とい うのは身体的な出来事である。ところが男にとってはそうではない。男は「ラマーズ 法」だとかなんとか言って、たとえ出産に立ち会っても、なるほど赤ん坊というのはこ うして生まれるのか、とか、人間もほんとに動物なんだなあ、と妙に感心するだけで、 母胎からヒモつきでスルリと出てきた子供を見て、それが自分の子供だという現実感を 味わうわけではない。つまり女房の子供を産んだからといって、そのことで男は自分が 「父親になる」わけではないのだ。新生児はもじどおり普通名詞の新生児で、とっかえ られたってわからない。
 その新生児を、あなたの子供よ、とかなんとか言われて、そんなものかととまどいな がら、まあいいや、と太っ腹になって引き受けて、日々なにくれとなく面倒を見、少し は気にかけて、どうやら「保護者」の役目を引き受けて行くときに、そのうち、こいつ はオレの子供だ、という意識がしだいにできてくる。習い性となる、というやつだ。そ のころには、男もわれ知らず「父親になる」というプロセスを終えたことになる。
 
 もちろん、「オレの子供」というときの「オレの」は「所有意識」の表示などではな い。「所有」というのは人買い(安寿と厨子王を買った人買いのような)か、金を払っ てメカケをもつ旦那の意識であって、けっして「父親」の意識ではない。人買いや旦那 方と父親との違いは、前者が子供に対して「所有」の関係を主張するのに対し、「父親 である」とは「責任」を背負い込んでいるという状態だということである。そして「所 有物」は「処分」できるが、「背負い込んだ」ものは放棄できない。背負い込んだとい うことが、すでに「放棄の放棄」、つまり「見捨てるのをやめた」ということを意味し ているからだ。そしてこの場合、わがままを言うのは向こうである。
 もちろん父親は、たんなる「保護者」とは違う。血がつながっているということでも ない。まさにそれが不明確なところだし、血などつながっていなくても父親にはなれる のだ。それは実は精神分析が明快に教えてくれるところだが、ちょっと複雑だからここ では深入りしないことにしよう。
 とにかく、日々面倒を見て、こいつは棄てられないと思ったら、もう「父親になっ て」いる。そしてこのプロセスには多少時間がかかる。女は子供を産むと、それが「母 親になる」ことだが(最近では、そんなことでは簡単に「母親」にはならず、あいかわ らず自分の子供としての要求を、つまり無理無体な要求を、赤ん坊に押しつける女たち もいるようだけれど)、男の場合は、女が子供を産んでから、その子供によって「父親 にしてもらう」というところがある。とにかく、男は多少時間をかけて「父親になる」 のだ。だから、女房が子供が産んだとたんに、「父親になったことを実感した」なんて いう男の言うことは信用できない。そいつは、あさはかか、無責任か、いずれいい加減 な早とちりだと思ってまず間違いない。
 
 だから、身近に生まれた新生児に自分を「トントン」と呼ばせるのは、きわめて理に かなった行いである。ところが二、三年も経つととんでもない不都合が生じてきた。べ つに子供が親の意図を察知したわけではない。まったく関係ない事情だ。
 その頃、田中角栄がニクソンを追って、中国(当時、むかしは中共と言った)と国交 を回復し、北京を訪問したそのみやげに、珍獣パンダをひとつがいもらってきた。角栄 氏の方は「首相の犯罪」で失脚し、脳梗塞を起こして目黒の屋敷に蟄居するようになっ ていたが、わたしが徐々に父親になってゆこうとしていた頃、上野動物園で飼われてい たこのつがいのパンダが、初めての子供を産み、人気者「パンダの赤ちゃん」の名前を 全国で公募することになった。そしてその結果採用された名前が、なんと「トントン」 だったのだ!
 迷惑と言えばこんな迷惑は話なく、その日から毎日、テレビのニュースに出てくる男 のアナウンサーまで、猫なで声で「トントン、トントン」繰り返すようになった。
 その日から「トントン」はうちでも身内のあいだでも笑いものである。いや、こちら が本家本元だ、と虚勢は張ってみたものの、もはや「トントン」の謎めいた威光は、笑 いの嬌声で吹き飛ばされてしまった。
 
 そのためではないが、いまではわたしも「パパ」と呼ばれている。というのは、数年 前、事情があってフランスに一年滞在したとき、子供たち(女の子がふたりいる)を現 地の街の学校に入れたところ、ある日学校から帰った上の子が、「おとうさんって、わ たしのほんとのおとうさんじゃないの?」と尋ねてくる。ドキッとして、「どうしてま たそんなことを?」と聞き返すと、「だって、うちはトントンって呼ぶじゃない」と言 う。そこで、初めて気がついた。「トントン」と呼んでいると、フランスでは文字どお り「おじさん」になってしまうのだ。そのうえ、やたらに離婚(だいたい結婚もしてい ない)や片親の子が多い街である。「おかあさん」が「おじさん」と暮らしていてもべ つだんなんの不思議もない。
 けれどもここで子供にいらぬ詮索をさせたり、余分な空想にうつつを抜かせたりする 必要もないだろうと、「トントン」というのは「おとうさん」の変形で、これは日本語 なんだよと、子供にはそう説明して一応難を切り抜けることにした。嘘も方便というや つだ。それで納得したのかどうか、子供たちはいつのまにか、わたしのことを「パパ」 と呼ぶようになった。学校のともだちがみんな父親のことを「パパ」と呼んでいたから だ。
 
 とはいえ、わたしは今でも、父親というのは基本的に「おじさん」なのだと考えてい る。足が短くても「おじさん」なのだ。このことは例の出産のことと関係している。そ してこの出産のことは「真理」のステイタスと関係している。
 「真理」には二種類ある。証明のいらない「真理」と、証明を必要とし、証明によっ て構築物となったときはじめてそれと認められる「真理」だ。「母親である」というの は前者の「真理」に属している。ところが「父親である」ということが「真理」たりう るには、いくつもの証拠を重ねて証明しなければならない。それもすべて「明白な」証 拠ではなく、状況証拠か蓋然性を示す証拠にすぎない。だから「父親」という「真理」 が、「母親」という「真理」以上の通用力をもつには、この「証明」の作り出す構築物 に、もうひとつの「真理」以上の価値をもたせなければならない。そこで、もうひとつ の「真理」は言語を必要としない「動物的真理」であり、「父親的真理」は言語的構築 という精神の営みに支えられたより高次の、より文化的な「真理」だということにな る。
 それに対して「おじさんである(であろうとする)」ことは、「父親的真理」のよう な牽強附会によって「母親的真理」を抑圧したり排除したりしようとはせず、「母親的 真理」の「事実性」に呼応するかたちで「父親である」ことの関係をとらえなおしてゆ こうとする、「第三の真理」のあり方の模索である。
 そんなわけでこのヴァーチャル世界では、わたしはいつも「トントン」でいようと思 う。子供を引き受けて、「保護者」であり「訓育者」ではあっても、けっしてその「所 有者」ではなく、また「家長」などでもない、けれども男ではあるところの「おじさ ん」だ。



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