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..トントンの時間漂流4
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....... 台所の旅
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. . .  カフェ・クレオールのカウンターに坐って、所帯じみた話をしていてはイマフクのマスターにつまみ出されてしまいそうだが、マスターは座布団の上にも千里を翔る瞑想の旅があり、ベッドのなかでこそ人はマボヤ神の習いにあやかって、あらぬ彼方へと旅するものだということをご存じだろう。

 それを口実に今回は、一度はしたいとおもっていた得意の料理を紹介しよう。ただし料理が得意だということではない。得意な料理がひとつある、ということだ。

 うちは女房の帰りが遅い。べつに夜遊びをしているふうでもないが、貧乏性で仕事をする勤め人だから、とにかく帰りが遅くなる。けれどもわたしの考えからすると、親たる者の第一の仕事は、子供にメシを作って食わせることだ。男親であれ女親であれ、親たる者はまずこれをやらなくてはいけない。鳥でも獣でも、みんな親が子供に餌ととってきて食べさせて養う。ともかく子供が一人立ち(一匹立ち)できるまでは、これは親の仕事だ。というより、そもそも「親」というのがたんなる生物学的概念でないとしたら、「親」とはまず子にメシを食わせる存在なのだ(名前を与える存在だという、文化的な、あまりに文化的な考えもあるが、マテリアリストのわたしとしては食い物を与えることの方に重きをおきたい)。子供の方は産まれたときからそのことを心得ている。だから自分をコインロッカーに棄てた誰かより、拾って育ててくれる人間を親だと思うのはあたりまえだ。それでも「生みの親」とかに執着するのは、血の繋がり云々というナチス的イデオロギーの洗脳がどこまで浸透しているかを示す現代的症候であって、この点では刷り込みによって「親」を認知するアヒルの方が、はるかに文化的だといえる。

 だからわたしは、子供にはメシを作って食べさせる、ということにこだわっている。外食させることはほとんどない。ときおり外に食べに出るとしたら、それは近所の小さなラーメン屋ときまっている。それはここのラーメンが50年この方変わらないんじゃないかと思わせる、なんともなつかしい味を出していて、そのうえ、おやじさんとおばさんが、絵に描いたような近所のじいさんばあさんたちだからで、近所の世話になるというのも文化的「親」概念の理解には必要なのだ。

 それと、半年に一度ぐらいは、駅の立ち食いそばを食べさせる。とくに日暮里の常磐線ホームのそばはいい(ちょっとほめすぎ、たいしたことはない)。最近は新宿にできたオペラ・シティーの筋向かいにある牛丼の吉野家にも連れて行ってやった。だが、マクドナルドやデニーズのたぐいには一度も行ったことがない。これはただたんに趣味の問題でも、カウボーイが嫌いだということのためでもなく、人間はブロイラーではないということをあまりに明白に心得ているからだ。

 さて、得意の料理の紹介に移ろう。それはササミの黄金焼きである。鶏のササミをまず小麦粉でまぶし、白身を少し抜いたかき卵にくるんで(おっと、その前に塩胡椒をきかせ)、フライパンで弱火で焼くのだ。弱火を効果的に使うために、フランパンには蓋がほしい。これで、ほんのり焦げめがついた、黄色っぽい笹のようなムニエル風のササミができる。柔らかくておいしく、これは子どもたちにもたいへん評判がいい。

 形からしてもまさに伝家の「宝刀」だといえる。こんなものをどこで覚えたかはヒミツだ。もちろん女房に教えてもらったのではない。この宝刀を二週間に一度ぐらい抜きつつ、あとはブタの生姜焼きとか、アジの開きとか、マグロの中落ちとか、砂肝塩焼きとか、タコとキュウリの梅干しドレッシングあえとかで切り抜ける。夕食は必ず3品ぐらいは作るようにしている。その中にはもちろん、味噌汁とか、豆腐の奴とか、しらすおろしとかもあるが、サブメニューでいちばん出番が多いのは、ベーコンと卵を使った野菜炒めだ。どんな野菜でも使う。きのこも、できればマイタケがあるといい。

 難しいのは煮物である。これは味付けがどうもうまくゆかない。けれども魚にしろ、野菜にしろ、きのこ類にしろ、煮物ができるとこれは一挙にレパートリーが広がる。ときどきお向かいの奥さんが、「父子家庭」を気の毒に思ってか、余分に作った料理を、それも煮物のたぐいを持ってきてくれるのだが、こころもち甘く、家の子どもたちの口にはちょっと合わない。実は女房は、煮物がうまい。そこで最近食卓に煮物が出るたびに、どうやって作るのかとそれとなく聞くことにしているが、これがマスターできたら、もう女房はいらない。

 洗濯、掃除はもちろんできる。これに関しては、皿洗いと同じく、余人を寄せつけない天性のものがある。それに皿洗いは、煙草に似て煙草以上に瞑想の友にふさわしいのだが、いかんせん洗いながら書くわけにはいかない。

 ともかく、自立した父親になるために、最近の課題は、煮物、とくに野菜と魚の煮物をマスターすることだと心得ている。誤解のないように断っておけば、これは自立した父親となって、家庭を支える柱となるということではない。むしろ避けがたいこの人間再生産のプロセスを、積極的にでもいやいやでもなく、事実性として引き受けながら、家族という関係のなかで、いかにして居ながらの離脱を実現するかという、けっして非クレオール的とは言わせたくない試みのひとつなのだ。





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