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..トントンの時間漂流6
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... 記憶の満天
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. . .  宇宙はビッグバン以来膨張して続けているということになっている。星と星の間隔はしだいに広がっており、地球から見ると遠くの星ほど速い速度で後退しているという。もちろんそんなものは肉眼では見えない。ビッグバンとか宇宙の膨張とか言うが、しかし宇宙の中心は確定できるのだろうか。中心のない宇宙の「膨張」とはどういうことなのだろう。昔は、神が天地を創造したとして、天地を作り出す前は神は何をしていたのか、と教会で尋ねると、そういう無益なことを考える罰当たりのために神は地獄をお作くりになったのだ、と一喝されたというが、ビッグバンの理論が出てきて以来、宇宙論はますます神学に近づきつつあるように思える。
 簡単なことから考えてみよう。光のスピードは一秒間に約三十万キロメートル、地球を七回半回る早さだ。この光が太陽から地球まで届くのに約八分かかる。ということは、地球で見る太陽はつねに八分前の姿であって、〈現在〉の姿ではない。だからたった今太陽が大爆発して消えてしまっても、地球では八分経つまでそれに気づかないことになる。八分経ってやっと大慌てするわけだが、もちろんそれでも慌てることには変わりはなく、地球上にいるかぎりこの時間差は〈現実〉に何の影響もない。けれども、どこか遠くからこれを眺める者がいたら、その光景はどこか間の抜けたものに映ることだろう。
 もっとも、その観察者(もちろん人類ではないが)の位置がたとえば十万光年彼方にあるとして、そこまで光が届いてかれらがこの光景を見るのは十万年後なわけで、太陽が消えてもあると思ってのほほんと暮らしている人類の八分間の笑劇を、十万年後にやっと知って笑う連中はもっと間が抜けているということになる。そのように相身互いと考えれば、この宇宙にひとを笑いものにする余地はないのだが、空を眺めていて、今見ているあの星はもうずっと昔にないかもしれないんだよ、と言われ、ないものをうっとり眺めている光景を想像してつい笑い出してしまうのは、人間のかけがえのない美徳だというべきだろうか。
 ところで、〈見る〉ということほど得体の知れないこともない。夜空を眺める。そこには広大な宇宙が広がっている(もちろん都会ではなく、空気の汚れていない山の中かどこかだ)。われわれはこの広がりを空間だと思って眺めている。けれども、満天に散る星々は、何万光年、何億光年の彼方に広がっている。ということは、われわれがいま目にしているのは星々のそれだけ昔の姿なのである。
 われわれはこれが〈現在〉の光景だと思い、これが〈現実〉の宇宙だと思って眺めている。だがこれは〈現在〉ではなく〈過去〉なのだ。それも一様の過去ではない。距離も方角もとほうもなく隔たったところから、ここにあたかも降り注いでくるかのように見える〈過去〉だ。ある星々は何万年も前の姿をいま見せており、ある銀河は何十億年もの過去をいまここに送り届けている。だから、この星は五千年前、あの星は二万年前、あの星雲は五百万年前と、ひとつひとつの星がそれぞれの時、宇宙の時を、まったくアトランダムにここに現出させているのだ。あたかも闇の海に輝くホタルイカの群のように。
 ひとつひとつの星は、その姿を通して〈過去〉を現前させている。けれどもこの一点の〈現在〉に降り注ぐ〈過去〉とは何だろう。夜空に輝いている星々は、過去の痕跡としてわれわの〈現在〉に浮かび上がっている。〈現在〉に浮かび上がる〈過去〉、それはわれわれが〈記憶〉と呼ぶものである。だが夜空が〈記憶〉だとしたら、これは何の、誰の記憶なのか。宇宙そのものの記憶?、「見る」ものがいるときそこに浮かび上がる宇宙の内的な〈記憶〉。
 そのとき、星空を見るわれわれは何かといえば、この夜空を記憶の空間として眺める、宇宙そのものの内的な意識、といって大げさなら、少なくとも自分の記憶をそれとは意識しない宇宙の代理人のようではあるだろう。宇宙自身は何も想起しない。起こったことは起こり続ける出来事として、宇宙そのものとして拡散してゆく。宇宙には自身というものはなく、いわば生成変化があるだけだ。そこに〈わたし〉という意識が登場すると、意識ではない純粋な出来事としての宇宙の意識をすら代行して、その感覚(視覚)に宇宙の生成変化を映し出し、散乱展開する時空を、その場に発現する〈記憶〉へと変換する。意識とは宇宙にとってそんな装置であるかのようだ。
 ともかく、夜空として広がるのが、無辺際の宇宙の〈記憶〉の劇場だとするなら、われわれは「見て」いるのだろうか、それとも眠っているのだろうか。闇はまぶたを廃絶する。真っ暗な闇の中ではまぶたはあってもなくてもかわらないからだ。そして「外界」の現実を見ることと「夢」を見ることとにほとんど区別がなくなる。じっさいそこには、ありもしない過去の星々が、いまこの満天を飾るかのように見えており、この意識たる人間どころか地球すら存在しない百億年前の光景さえ、そこには含まれている(もちろん望遠鏡が必要だが)。これが「夢の舞台」でなくて何だろうか。その「舞台」に浮かぶ無限に多様な時間・・・。そういってよければ、この夜空の広がりは、〈現在〉の空間ではなく、闇という見えない〈時間〉の海なのだ。その「海」が、うねるように、あるいはそれよりはるかにダイナミックに、満天に散乱して波打っている。
 〈見る〉ことは、人間の感覚の中で格別の地位を占めている。〈見る〉ことは通常〈知る〉ことと重ねられるように、認識の能力そのものとほとんど区別されずに考えられている。眼は視界を開き、人間を世界のパースペクティヴのなかにおく。そのなかで、「見える」ものにはひとはとりあえず安心する。「見えない」ことは対象が把握できないだけでなく、自分が定位できないという、たいへん「不安」なことなのだ。だから人間は〈闇〉を避け、そこに光を投げかけて〈闇〉を掃討することを、自分の能力の実現と考えてきた(啓蒙というのはそういうことだ)。
 だが、〈見る〉ということは実は限定された能力でしかない。それ自体が力不足だということでばかりでなく、視覚そのものが人間の生存領域を限定しているのだ。あらためて言うまでもないが、視覚は光がないと役に立たない。その視覚の届く範囲つまり視界は、宇宙に届くことはけっしてない。昼間空を見上げるとき、青空は大気を突き抜けているのではなく、逆に大気が宇宙からの光を遮り、乱反射させて青空というシェルターを作っている。そのシェルターのなかではじめて〈視界〉は可能になる。光が明るすぎても暗すぎても、視界は成立しないのだ。真っ暗な夜には視界はない。
 そのシェルターなしに視界は成立しないとすれば、「視野が開ける」ことは、このシェルターの内だけを領界としてその外を無視することである。だから〈見る〉という働きを「全能性」とパラレルに考えるような人間の意識は、成層圏のなかに自閉することではじめて成り立っているといってもよい。生物学者なら当然のことと思うだろうが、人間の視覚は人間の生存様態の限界に見合っているはずだ。だから〈見る〉という働きは、われわれの昼間の明るみの中でもっともその威力を発揮し、そのことで生存にとって重きをなす。その〈見る〉働きは、宇宙空間のなかでいったいどこまで役に立つのだろうか。だいいち、宇宙の〈闇〉は通常の意味での〈空間〉ということさえできそうにない。なぜなら、そこに働いているのは〈時間〉なのだし、その〈時間〉は〈見る〉ことができない。
 夜になっても、われわれは見つづける。けれども夜の闇を透して浮かび上がるのは、空間ではなく時間の布置である。それをしも、ひとは「見る」と言い、見ていると思ってしまう。「星を見る」と。だからそこにカシオペアやアンドロメダの似姿が、あるいはオリオンとサソリの尻尾が見えたりする。つまり夜を「見る」とき、ひとはすでに幻視の世界に入っているのであって、実は「見て」いるのではないのだ。
 それをあえて「見よう」とするときどうなるか。「観測」という言葉がある。それは目で見ることではない。レンズを通して集まる光の痕跡をたどることだ。それは闇の中での手探りに近い。目で見るのではなく、手で触れるのだ。そのようにして闇の広がりが触知されるが、その広がりは時間そのものではないだろうが、光の移動のうちにたどった時間の影ではある。
 「観測」は肉眼ではできない。観測をするは望遠鏡を通してだ。かつて望遠鏡は眼の延長だった。だが、いまやそれは、「見る」眼とは離れて、自分の役目が「見る」ことの補助とはまったく違う、時間の痕跡の収集であることを明らかにしつつ、宇宙に浮かんでいる。ハッブル望遠鏡はもはや地表にさえない。それは宇宙の生成変化を情報へと転換する転轍機として〈闇〉を触知している。ふと思い出すのは、荒川修作が岐阜の養老町に作った「養老天命反転地」だ。その窪んだ楕円の斜面を滑ると、自分がハッブル宇宙望遠鏡の集光装置の上で遊ぶ虫になったような気がする。





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