今 福 龍 太
Salgado proifle
 東京、渋谷で開かれた「Workers」展のため来日したブラジル出身の写真家セバスチャン・サルガードと、1994年6月初旬のあるさわやかな日曜日、名古屋市内を散策しながら対話した。日本に来る直前の取材先だったモザンビークでマラリアにかかり、高熱と体内のうずきを投薬で抑えての来日だった。

 「肉体労働者」のテーマをひとまず完結させたサルガードのつぎのプロジェクトが、現代世界のポストコロニアルな状況を集約的にしめす人的移動の形態、すなわち「移民」「亡命」というテーマであることは以前かわした対話から私も知っていた。生まれた土地、母なる言語、所属する文化といった帰属性の根をたちきって、戻りえぬ旅の道程へとみずからを押しだした人々への本質的な共感が、サルガードのあたらしいプロジェクトにかける原動力となっていることは確実だった。

 そうした「旅」の途上にあるあらたな世界市民をドキュメントする仕事に着手したサルガードであるからこそ、名古屋という場所は彼と対話しながら歩く空間として最適であるように私には思われた。なによりもまず、ここ数年のあいだに、名古屋はほかの大都市近郊のいくつかの町とならんで、日本のなかでも突出してマルチエスニックな場へと変貌しつつあるからだ。外国人労働者と一般に呼ばれることになったアジアやラテンアメリカからの出稼ぎ労働者たちは、日曜日ともなると、小牧、春日井、岐阜、刈谷、豊田、四日市といった周辺都市から放射状の交通機関を利用して名古屋へと集結する。市内にも、タイ、イラン、バングラデシュ、ブラジル、ペルーといったさまざまに異なった国籍をもつ人々が混住し、休日になると駅周辺に集まっては情報交換にいそしんでいる。


 こうした光景は、たんに異国にある外国人労働者たちの相互扶助的な生存のかたちをしめす社会的風景というだけではない。それは、20世紀末の世界が、ある文化的な力によって導かれていった「人間の交通」そのものをめぐる現代の激流の姿でもあるからだ。そうした現象を「移民」とか「亡命」と呼ぶかわりに、サルガードは以前から「トラヴェシーア」TRAVESSIAというポルトガル語の概念を喚起的に使おうとしている。彼は言う。

 「私にとってブラジルでもっとも美しい表現の一つが、トラヴェシーアという言葉です。これはふつう、横断とか道程とか通過を意味する言葉ですが、それは同時に、人間の知性の可能性をしめす指標でもあります。つまりそれは、人間の適応可能性、いいかえれば、あたらしい土地や文化、言語のなかに自分自身を定着させてゆく能力のことでもあるのです。トラヴェシーアはそうした主体的な移動と越境の行為をあらわす喚起的な言葉なのです」

 「ブラジル北東部の内陸乾燥地帯から、リオやサンパウロに移住してゆく貧しい人々の群れを、私は幼いころから目撃してきました。こうした人々の移住は循環性をもっていて、何年かに一度内陸部を襲う旱魃が、彼らを荒野から都会へと押し出してゆくのです。バスも鉄道もない奥地から、一日何時間も歩いて国道沿いまで出てきた彼らは、通過するトラックの荷台に乗り込んで海岸部の大都会へと家族ともども移動してゆきます。ある決意の表情を内に秘め、遠くから来て、遠くへと去ってゆくこれらトラヴェシーアする人々のイメージは、私をいつも魅了してきました」

 文化のなかに本源的に胚胎された人間のたえざる交通と移動のかたちをトラヴェシーアと呼びながら、サルガードはここでポストコロニアルな現代の風景が、人間の原初的な欲望や運命の世界とどこかで通底していることを直感しているようにも思われる。その意味で、日本の地方都市にいま成立しかけている不思議にハイブリッドで無国籍的な風景を眺めることは、私たちのいまだ開示されていない未来と、隠された記憶とを、ともに喚起する行為にほかならないのだ。そして写真を撮る、という行為も、まさに自らの生きる世界の未来と過去とを映像によって主体的に接続してゆく特権的な方法ではなかったか・・・。私はサルガードとそうしたトラヴェシーアの光景を見ながら散策することによって、これからの彼の撮影プロジェクトの行方と、自分自身の世界認識の変容の感覚とを、ともに照らし出してみたいと考えたのだった。


Sebastiao Salgado
Chimborazo, Ecuador 1995
 待ちあわせた名古屋駅の雑踏を抜け出してまず最初に私たちが訪れたのは、駅近くに聳える在日韓国人教会だった。現代の日本社会が、最近の外国人労働者の流入のはるかに以前から、歴史的な移動の経験を内蔵した社会であったことは、なによりも在日韓国朝鮮人たちの存在がしめしている。この名古屋教会は尖塔をもった大きな近代的ビルで、6階に大きな聖堂があり、内部の3階から5階部分は日本人の老人も含めた養護老人ホームとして運営されている。そうした寛容で開かれた施設をひととおり案内してもらったあと、私たちは11時からはじまったミサ(日本語の同時通訳システムが備えられている)に列席した。車椅子の老人からチマ・チョゴリ姿の若い女性まで、さまざまな年齢の在日韓国人たちが聖堂をうめ、聖歌隊の少女たちの凛とした歌声がひびくなかでミサはおこなわれていった。

 今回は特に仕事上の撮影は行なわないと言っていたサルガードも、この空間の不思議な交流の空気にうながされたのか、愛用のライカM6をとりだして、ほどなく老人たちや少女たちが一瞬見せる表情にカメラを向けはじめた。なにかが、彼の創造力の導火線に火をつけたにちがいなかった。教会を辞去して外に出た私は、在日と呼ばれる集団の日本における歴史的・社会的位置づけを簡単に解説したあと、サルガードに印象を尋ねた。やや興奮した面持ちで、彼はこんなふうに答えた。

「養護老人ホームを日本人にも開放するという在日朝鮮人教会の姿勢には、深い歴史的慰謝の感情がこめられているのではないでしょうか。それは、歴史的加害者と被害者、あるいは強者と弱者という関係をのりこえて、感情の負荷を自ら慰謝してゆくためにとられた、すばらしい実践活動であるように思えます。これはその意味で、一つの社会的抵抗の行為でもあるのでしょう。そしてその抵抗が、慈善的な行為として示されねばならなかったことのなかにこそ、彼らが日本社会において偉人としてかかえるすべての歴史的感情の堆積を見てとるべきなのでしょう。それにしても、あの少女たちの聖歌は美しかった。名古屋の教会で、韓国語で歌われた賛美歌の声にあれほど感動するとは予想もしませんでした」。

 サルガードもレリア夫人も、敬虔なカトリック国ブラジルの出身であるにもかかわらず、すでに現在のパリでの生活において日常的に教会に通うというようなレベルでの宗教意識からは遠いところにいる、いわば私と同類の現代人である。その彼がここで感じとった賛美歌の声がつくりだす意思は、だから宗教の外形的な意味を超えて、人間の意識や感情の深い層へと降りていったときに感知されるなにかであるにちがいない。しかも、視覚的な風景以上に、声のような聴覚的世界がサルガードにとってきわめて貴重な体験の核を形成していることに、私はこのとき気づいたのだった。



Salgado at Nagoya, 1994
 つぎに私たちが向かったのが、名古屋に成立した「もう一つのブラジル」だった。下町のアーケード街の一角に最近できたブラジル料理屋は、日本で働く日系ブラジル人たちにとっての「ブラジル」そのものだった。とりたてて豪華なメニューがあるわけでもないこの飾らない大衆レストランで、私たちは肉の串焼き(シュラスコ)を注文し、アンタクチカ・ビールを飲みながら、周囲のブラジル人たちを交えて話しはじめた。サルガードはこのサンパウロのリベルダージ地区を彷彿とさせる雰囲気のなかに、あっという間に自分自身を投げ出していった。

 私たちのとなりでなごやかに食事するある日系一家。家長らしき二世老人を囲んで三人の娘たちが、それぞれ小さな子供を膝に乗せている。一人の娘の夫は日系ではなくポルトガル系で、その小さな二人の子供のうち一人の顔つきは日本人、もう一人は白人の骨格だ。サルガードは交互に小さな子供たちを抱き上げ、その頭をやわらかくなぜ、さすりながら、この一家にポルトガル語でゆっくりと話しかける。ふとした瞬間に、今度は彼の手にライカがあって、小さなシャッター音がする。サルガードの手にかかると、この機械は異物性をまるで示すことなく、日系ブラジル人たちのトラヴェシーアの風景へと静かに浸透してゆくのだ。私のほうに向き直ってサルガードがいった。

 「ほんとうに魅惑的な光景です、これは。日本人の顔をしたブラジル人が日本にいて、なおブラジルと深く精神的につながっている。しかもそこにはすでに、おなじ親たちから金髪の混血児と、黒い目の混血児とが同時に誕生している。そしてこの小さな魂たちは、あるいはやがて日本を新しいすみかとして選択し、成長してゆくかもしれない」

 「世界は、人間と土地との関係の変容によって動いているのです。近代性、モダニティへと向かって突き進んだ19世紀後半からの人間は、人為と自然、支配と服従、管理と隷属といった社会的均衡の臨界をどこかで破ってしまった。高度資本主義の成立とともに、一方で植民地主義の帰結としての人間の離散がこのときはじまったのです。亡命、移民、難民といったこの激烈な現代的民族離散の現象は、けれど私にもう一つの<家族>の成立への予感をいだかせます。トラヴェシーアの主体的道程にある者たちが、民族や出自を超えて一つの家族を構成するのです。労働者というテーマも、そうした集団性や共同体の新しい存在のかたちへの予感があって選択されたものでした。その意味で、労働者から移民へという私のプロジェクトの移行は、連続したものです。近代世界を支配してきた資本家という英雄にかわって、それに新たな挑戦をしかける集団・家族の出現を、私は記録してみたいのです」

Salgados at Ohsu, Nagoya 1994
 このサルガードの言葉に、かれのすべての創造の核心が込められている。かれはここ名古屋で、自らもかつて亡命を余儀なくされた故国ブラジルに再会したのではなかった。彼とはことなった時代と空間を渡りながら、しかし同じ意識の離散の道程をたどっていま交差した人々との邂逅の風景のなかに、トラヴェシーアを共有するある<家族>の成立をサルガードは感知していたにちがいなかった。彼はまた私に、「きみに語りかける第二の、第三の声を聞くことが必要だ」とも語った。
 「北部モザンビークで私は飢饉にあえぐ農民たちと一緒にただひたすら大地を歩きまわりました。戦争と飢餓が、彼らを襲っている。しかしそこには、人々の関係の環とでもいうべきものがあり、その関係は人間の尊厳によって結ばれています。そうした風景からは、声が聞こえてくる。失われた人々の声、鳥の声、土のあげる呟き・・・」そうした第二第三の声は、じつはきみ自身の体内に眠るけものの声でもあるのです。私の仕事は、結局、土地土地に尊厳をもって生きるトラヴェシーアの人間的風景のなかから、自分自身のなかにうごめく獣との対話を引きだすことなのでしょう。私にとっての学校は、大学でも国際機関でもなく、もっとも素朴な人間の共同体としての農村や労働の現場のなかにしかありません。そこで耳にする第三の声のなかに、自らの内部の獣の息づかいを感じとることが、私の写真の原点であり、帰結でもあります」サルガードはよく歌を口ずさむ。歩きながら鼻歌を楽しそうに歌う。しかしそれはいつも無意識のようだ。歌いながら撮影する写真家・・・。第三の声が自らの口からこぼれでるのにまかせながら、サルガードは人間のもっとも原初の歌を映像に込めて送りだしているのかもしれなかった。


初出:『アサヒカメラ』1994年8月号
写真出典:上記およびhttp://www.terra.com.br/sebastiaosalgado
Malawi/Mozambique, 1994