Moon of Turquoise

しい椅子がやってきました。ターコイズブルーに輝く逸品です。herman miller 社のAeron chairといえば事務用の椅子としては画期的なデザインと機能で、ニュー ヨーク近代美術館のコレクションに選定されたことでもよく知られています。期待を 込めて腰を下ろし、自分の体型に合わせて四つのレバーと一つのパッドの位置をおも むろに調節すると・・・「?」「!!!!!」このフィット感には驚嘆。
またまいま書いている絵本論(『ぱろる』10号掲載予定)のなかで、ドイツの幻 想的な絵本作家ミハエル・ソワに触れました。数年前にベルリンで刊行された彼の 『ソワの箱船』 は、人間の日常に侵入する動物たちの不可思議な行動と悪意あるアイロ ニーを描いて、私を震撼させました。食卓のスープのなかで水浴びする豚、冬の家の 窓を横切る空飛ぶペンギン、豹柄のスカートを履いて姿見に見入るウサギ、
人体の構造 とその動きに対応してつくられた、体を腰を中心にして包み込むような独特の柔らか い包容力と機敏な反発力は、むかし、はじめてフィットネスシューズを履いて驚愕し た時の感動に似ています。たかが椅子のために高額の投資をして、と以前の私ならば 一蹴したでありましょうが、もはや腰椎に永遠の爆弾を抱える身、良い椅子はわが身 体の一部となりました。

常に復帰しても長時間の座位はすぐ腰を責め立てます。復帰後、さまざまな場所 に坐ることになりました。家や研究室の椅子やソファはもちろんですが、いちばん気 を使ったのは移動の際の椅子でした。
rabbit on the train
"Rabbit on the train"
by Michael Sowa

一匹に一 台のラップトップコンピュータを与えられ、その前に座り込んで嬉々として画面を見 つめる羊たち・・・。レンブラントとマグリットとターナーとワイエスのうえに鋭い 批評的毒と哄笑のスパイスをかけたような筆致で描き出されたそんな動物寓意画の一 つに、「列車に乗ったウサギ」なる小品があります。見れば見るほど、何か奇妙な感 覚が誘い出される絵です。
タクシー、バス、飛行機、電車・・・といろい ろ乗ってみて、それぞれの交通機関の動きと椅子の質や構造が、自らの腰を通じて細 かく体感され、いままでは意識もしなかった情報が、私の頭脳のなかの身体感覚デー タベースのなかに蓄積されていきました。面白い発見は、いちばん腰に負担を及ぼす でのはないかと思われた電車の椅子が、比較的長時間坐っていても意外に腰に不快感 をもたらさないことでした。理由は不明ですが、十代の頃の旅といえば、日本列島を 駆けめぐる夜行列車の長旅だけであったことを思い出し、鉄道という機関のもたらす 独特の移動感覚が身体の不自然な固化を阻んでいるのではないか、と直感しました。 体が小さすぎ、ウサギ氏の足は列車の床に届いてはいませ んが、私は彼の腰が不思議に安逸な包容感によって満たされ、鉄道の揺れと車窓の風 景の流転がウサギ氏を深く躍動的な瞑想のなかに導いているだろうことを疑いません 。

りながらも、魂が歩き出す。これは鉄道にしかありえないセンセーションである と、腰に休眠する火山を抱えて旅することになった私はあらためて確信したのでした 。

April 1999
今福龍太


MOON OF TURQUOISEのMarch
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