今福 龍太 シェイクスピアと"Americas" 2  
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アリエル、あるいは家族的紛争

 

 二○世紀の錯綜する「アメリカ」的歴史を、ほとんど世紀まるごと身を持って生き抜いてきた一人の詩人=思想家がついに逝った。一九九八年四月一九日、メキシコシティの自宅で八四年の生涯を閉じたオクタビオ・パスである。この、おそらくは世紀に数人というほどの文人の死去を大きく報ずるメキシコやスペインの新聞をインターネット上で閲覧していた私は、一つの関連記事を読みながら、不思議な夢想に入り込むことになった。
 その記事には、パスのここ数年来の病が、一昨年暮れの自宅アパートの火災によって大切な蔵書の一部を失って以来、急速に悪化の傾向をたどっていたことが報告されていた。書物が人々のイデアの凝縮として生産される歴史に寄り添いながら思考し、書きつづけたパス。そのような彼にとって、生きる意欲を削ぐことになった蔵書の焼失とはほとんど彼自身の身体部位の喪失に等しいものだったことを直感した私は、その痛みを想像してみた。彼の精神を育て鼓舞し充足させ、ついには身体の一部となって生きつづけるイデアの塊がもぎ取られてゆく苦痛を。しかも喚起的だったのは、火災で失われた書物の著者のなかに、ルベン・ダリーオが含まれていたことだった。ラテンアメリカの二十世紀の芸術思想の到来を告げるモデルニスモ(モダニズム)の提唱者にして、中南米・北米・ヨーロッパと渡り歩いたコスモポリタンな詩人。そしてわれわれの文脈では、いまからちょうど百年前の一八九八年、エッセイ「キャリバンの勝利」のなかで、『テンペスト』の新大陸的な「誤読」=「再創造」の作業に誰よりも先んじて着手したダリーオである。
 この、ダリーオとパスをむすぶ百年を隔てた「九八年」の符合は、われわれのこれからの考察にとって示唆的である。なぜなら、ダリーオによって自覚的に開始される『テンペスト』のアメリカ的転用の思索が、パスらによってきりひらかれた二○世紀末のラテンアメリカ的=メスティーソ的=クレオール的文化ヴィジョンとのあいだに抱える連続と不連続とを、この「九八年」の符合は暗示しようとしているからだ。いかなるダリーオがパスの身体の一部として生きつづけ、二○世紀のもっとも覚醒した「アメリカス」意識の一つを造形していったのか? この問いはすなわち、一九世紀末のモデルニスモの思想圏がたちあがることになった西半球をおおう歴史的文脈を、二○世紀末の現在がどの程度まで共有し、さらにそこからの変異や歴史的展開のなかで二○世紀という一つの世紀が何を経験してきたのかを明らかにするのに不可欠の問いかけとなるはずである。(この点については、ダリーオ自身の詩や散文、そしてパスの傑出したダリーオ論「貝殻と人魚」などをもとにあらためて本格的に論ずるつもりである)。  

 そのモデルニスモの思想圏の背景となった、一八九八年の政治史を再び簡単に振り返ろう。この年、スペインからの独立をめざして闘われていたキューバ独立戦争にアメリカ合衆国が介入する。スペインを打ち破ったアメリカ合衆国は、そのままキューバの後見人を自認し、一九○二年のキューバ独立以後キューバに傀儡政権を樹立させて文字どおり新たな「ネオコロニー」(二○世紀型の植民地)として政治・経済的にこの島を支配しつづけた。このネオコロニアルな支配は、いうまでもなく一九五九年のフィデル・カストロによる社会主義革命によってキューバの親米傀儡政権が倒されるまで、半世紀以上にわたって続くことになったのである。(さらにいえば、一八九八年の米西戦争によってプエルトリコとフィリピンとがアメリカ合衆国の領土となり、ここではスペイン帝国に代わってアメリカ合衆国が一九世紀的な植民地の維持を肩代わりしたことになる)。
 こうしてみると、米州における一八九八年という画期的な年は、すなわち、アメリカ大陸全域におけるアメリカ合衆国の存在が、一つの現実的な抑圧装置として出現した象徴的な年だったということになる。そしてその年に、まさにルベン・ダリーオのエッセイ「キャリバンの勝利」が書かれることになったのである。一八九三年にニューヨーク(ここでキューバのモデルニスモ思想家ホセ・マルティと出会う)を訪れていたダリーオは、北米を特徴づける物質主義や傲慢で粗野な文化性向を批判し、「銀行券が舞うこの怪物的な首都では、キャリバンがウィスキーを飲み干している」と書いたが、シェイクスピア劇の粗野な化物キャリバンの性向をそのままアメリカ合衆国へと読み替えるこの修辞学は、ただちにモデルニスモの思想運動のなかで一つの強力なルート・メタファーとしての影響力を発揮してゆくことになった。この影響は、当時ダリーオが外交官として滞在しつつ文学的リーダーとして活躍していたブエノスアイレスや隣のモンテビデオ、さらにサンティアゴといった南米の諸都市においてとりわけ顕著であった。たとえばフランス系アルゼンチン人の作家パウル・グロウサックは一八九八年五月のブエノスアイレスでの講演で、キャリバンの名前を援用しながら、アメリカ合衆国の帝国主義的な進出を当時のラテンアメリカの一般的な知識人がいかに捉えていたかを次のように語っている。  

 南北戦争と西部への非道な侵略以来、ヤンキーの精神は混沌としたキャリバネスク(キャリバン風)な肉体に完全に乗り移った。旧世界はこれを不安と畏れを持って静観している。いまや没落を宣言されたわれわれの文明を、新しい文明が乗っ取ろうとたくらんでいるのだ。(Fernandez Retamar, Caliban and Other Essays, p.10)  
 アメリカ合衆国(ヤンキー)の西半球における台頭をキャリバネスクな「混沌」をかかえた邪悪な身体の出現とみなすこうした感覚は、一方で、ラテンアメリカ文明(「われわれの文明」)の美質をほとんど「旧世界」(すなわちヨーロッパ)の価値の一部であるかのように前提する発想と対をなしていた。この場合、「秩序」は徹底して旧世界の側にあり、新世界における北米的「混沌」は完全に否定的な意味論を与えられて、キャリバンの粗暴なイメージと同一視されたのである。(だがもちろん、キャリバン的身体の本質的な「混沌」はやがて世紀後半になって、特権的な意味をそなえた輝かしい混血アメリカのメタファーとして逆のかたちで復活することになる)。  

 こうした、貪欲なヤンキーの領土拡張と物質主義のイデオロギーをキャリバンのイメージに読み替えて対比させながら、ラテンアメリカの美的・精神的感受性の優位を宣揚しようとするモデルニスモの思想的方向性は、それから二年後、一九○○年にモンテビデオで刊行されたホセ・エンリケ・ロドーの『アリエル』において見事な結実をみることになった。ロドーは当時ダリーオの評伝を書いたばかりの二九歳の新進のウルグアイ人思想家であり、この著作によって『テンペスト』に登場する妖精アリエル(エアリエル)に、ラテンアメリカ的象徴性をはじめて与えることになった。そこでは、シェイクスピアの造型した「聡明な賢者」にちなんでプロスペロと呼ばれている名教師が、優美なアリエルの銅像の周囲に参集した卒業間近の若き学徒たちの前で即興的な最後の講義を行う、という叙述の形式が採用されていた。
 『アリエル』はおそらく、二○世紀の幕開けの年に刊行されたという事実を象徴的に担いながら、今世紀のラテンアメリカ思想史におけるもっとも高名な著作でありつづけてきた。近年のある研究書によれば、一九○○年の初版以来一九七九年のバルセローナ版まで、すでに五十四種類の異なった版がスペイン語圏において刊行され、『アリエル』に関する主要な研究書、論文はスペイン語、ポルトガル語、英語に限っても数百におよんでいる。
 この著作の驚くべきポピュラリティの理由は、奇妙なことに二つの相反する要因によるものとして考察することができるかもしれない。一つは、すでに述べてきた、北米の物質主義的な帝国性を西欧ラテン文化を背景に持つ中南米的な精神性の原理に対置するその素朴ともいえる明解さである。ラテンアメリカの審美的理想主義とアングロアメリカの合理主義の対峙という構図は、かならずしも北米的文明の物質主義的達成を真っ向から否定するものではなかったが、「合衆国を崇拝する、だが好きではない」と書いたダリーオにとって、問題の所在は、世俗世界における政治経済的な達成よりも精神的精妙さと調和を人間存在の本質として優先する、彼の審美的な信条のほうにあった。セオドア・ルーズヴェルトによる一九○三年のパナマ運河の建設権獲得や一九○四年のモンロー宣言の拡大政策等によって、アメリカ合衆国のその後の中南米への拡張主義的傾向はロドーの予感をはるかに越える勢いで進んでいったが、まさにそうした歴史的事実関係の激烈さによって、『アリエル』が示唆したアングロ/ラテンの対峙の構図は後世の人々によってより強調されて受容されていったのだと考えられる。
 だが、そうした明解な二項対立の図式的な解釈をどこかで逸脱してゆく、『アリエル』全体を貫いて流れる熱を持った言語修辞学こそ、この著書の多義的で多様な読みを可能にしてきた最大の理由でもあった。パスとならんで現代メキシコの批評的知性を代表してきた作家カルロス・フエンテスは、『アリエル』に散見される過剰でビザールな言語用法を多声的な祈祷音楽としての一八世紀のオラトリオにたとえ、そこに一種のバロック的「狂気」すら読みとろうとしている。だがフエンテスが正しく指摘するように、この言語的「狂気」は、修辞学に淫することで生まれる狂気ではなく、ラテンアメリカの自己同一性を本質的に探り当てようとする、言説とコミュニケーションにかかわる火急の情熱がもたらしたものにほかならなかったのである。
 ともあれロドーの言葉のなかの過剰性に目を向けたとき、そうした読みの地平においては、『アリエル』のなげかけるものははるかに現代文化をめぐるアクチュルな問題意識に接続される。アリエルという形象の示す美と感受性と深く繊細な精神性をラテンアメリカ文明の特質として称揚し、キャリバンに託された北米物質主義と大衆社会のイデオロギーをこれに対置する構図は、当時のフランス思想(とりわけルナンの知的エリート主義とフーリエの理想主義)の強いこだまを受けながら、北米的功利主義のゆきつく先にある二○世紀末の現代社会を、不思議な予言力によって照らし出していもいたからである。その意味で、ロドーの深い読解は、北米というキャリバンをラテンアメリカの他者として排除するのではなく、他者が自己をつねに規定し直す弁証法的な関係性のなかに、キャリバンとアリエルとを位置づけることを私たちにうながすことになる。(次回はこの点を『アリエル』の本文に即して考察する)。
 やや結論を先取りした言い方をすれば、ロドーの提示したアリエルという理想形象のなかに、あらかじめキャリバンは棲息していた。自己規定が他者性を疎外するのではなく、他者性あるいは代替可能性のなかにこそ自己意識の核心がひそんでいるという、現代の私たちが手に入れかけている接続的なアイデンティティの思想に、『アリエル』は先駆的に立ち向かおうとしていたからだ。そう考えたとき、アリエルはアメリカ的世界観を更新するための未来的な記号となる。ロドーの死後一三年たった一九三○年、第一回のサッカー・ワールドカップ大会がまさにモンテビデオの街で開催され、決勝ではウルグアイがアルゼンチンを下して優勝した。この芸術的な身体性を誇るアリエル同士の闘いによってサッカーの二○世紀が集約されていたのだとすれば、今年のフランス・ワールドカップのピッチ上で展開されるであろう、アリエルという名を持った一人のアルゼンチン選手の優美な動きを、私たちは注目しないわけにはいかない。アリエル・オルテガ。アルゼンチンの一○番をつけたこの魅惑的な足のアーティストが身を持って示す、百年後のアリエルの可能性を、私たちは一九九八年六月のフランスに見いだすことになるのかもしれない。  

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