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baja


Wednesday, September 11, 2002 at 14:05:11 (JST)
阪口浩一 <ekinkoichi@hotmail.com>
検索のドサクサで疲れ、ふっと息をついて、冗談半分に「ジュネ パリ 金子光晴」と入れてみた。  ここに出た。ネットの技術をひとつ発見した。    バイもしくはトライ、ポリリンガルで語ることの禁止・自己掟。  ジャンジュネは高校を辞めて、外を旅するためにバイトしている時に出会った。  饒舌で粘りつくことばの群れをやり飛ばし、あいだ、あいだに挟まれた、ジュネのことば。  僕だと思った。  太宰のことばが近いという意味以上に同じだと思った。  ジュネを知らせてくれたのは、安吾の「散る日本」だった。  その後幾年かが経ち、イスラームへと導いてくれたのも、振り返れば、それが機縁だった。  金子光晴には高知市内の小さな本屋で出会った。文庫の背の下に、まだ当時は競馬評論家ではなく、AVにもはまっていなかった「僕がシマウマ語をしゃべった頃」の作者の名を見つけたからだ。  一読、はじめて現代詩というものが分かった。もちろん、これは後付けだ。そのときは、やっぱり、じぶんのことばだと思った。  先日、在日詩人金時鐘氏に出会うことができ、氏のことば「人は逢うべき人に、逢うべき時に出逢う」「どんな天才といわれる詩人でも、必ずどこかのエコールに属している。だから、自分の本当に好きな詩人なり作家が、なぜ好きなのかを徹底的に考えなさい」を頂き、いまだ微かに靄がかかっているが、おぼろげながら自分の役割と出会いが見えつつある。  もはやサンボリズムと言の葉の雅、延命の真綿に包まれる甘い優しさの「人間」の前提に隠れることは出来ますまい。「答え」が正しいことは万人これに贖えませんから。何故なら、ぼくは僕達では決してなく。あなたもあなた達では決してないのだから。自分であわせるフォーカスは単眼。問われるべき、日本語の現在は、海の外の広がりではなく、もっと身近な「人間」つまり人と人との「間」に生まれるわたしという名の欺瞞と隠蔽なのだから……。  昨日、京大近くの古本屋で出会ったジュネ論の翻訳本の巻頭のいきなりのことばが、このページに、ここまで運んできてくれた。

Sunday, September 08, 2002 at 12:22:15 (JST)
ブレッド&ローズ
最初に現れる字幕が「米墨国境地帯付近」。スクリーンには、草むらをくぐり抜けてゆくメキシコ人が、足早に車へと乗り込む様子が映し出される。イギリスの労働者階級をおもに撮り続けてきたケン・ローチが、ソダーバーグの助けを借りながら、ロサンゼルスに舞台を移して撮影した傑作「ブレッド&ローズ」を完成させた。ティム・ロスもカメオ出演しているこの映画のテーマは、ロサンゼルスの高層ビルで働くビル清掃員たちの、健康保険や有給休暇を求めての闘争である。人は最低限の生活を維持するためだけの「パン」だけではなく、健康や休息などを楽しむための「ローズ」も必要だ、というのがタイトルの表す意味だ。この映画全体を包み込んでいる独特の熱気は、ベテランの俳優とともに起用された、実際に働いている清掃員や活動家らの迫真の演技からきている。そして、コミカルでシリアスでテンポのいい脚本も秀逸だ。ラティーノたちのパーティーでの、ロス・ホルナレーロス・デル・ノルテのバンド演奏も聞きごたえがある。イギリス人のケン・ローチは、大都会を支えていながら一般には見過ごされがちな、これら貧しくも活気のあるラティーノらに焦点を当てることによって、私たち人間なら誰もが心の内に秘めている複雑で激しいエネルギーや、感情の機微や起伏や、故郷や親族への精神的なつながりを多面的に描き切ることに成功したと言えるだろう。純粋に娯楽映画として楽しめるとともに、いつまでも深く考えさせられる映画である。さらに、少しでもスペイン語を知っている人ならば、ラティーノたちの言葉のスイッチングの妙に驚かされるに違いない。この映画のもう一つの魅力は言葉だ。スペイン語と英語、メキシコとアメリカ、そのあいだに引かれた暴力的なボーダー。それらを乗り越えてゆく人間の営み。言葉というものがいかに人間の生活と強く結びついているかを、私たちは教えられる。

Thursday, September 05, 2002 at 23:25:54 (JST)
セントラル・タワーズ
8月下旬。名古屋。コンクリートに敷きつめられた白っぽい都会は猛烈に暑い。駅ビルと呼ぶには巨大すぎるセントラルタワーズ13階のスターバックスで、僕は、今月の中旬からドイツに働きに行くという友達に会いました。彼は、インターネットで適当にドイツの会社をいくつかピックアップして、メールと電話で決めたといいます。「次のワールドカップまでいられたらチケットとりますよ。来てくださいよ」と彼は終始にこやかでした。僕は彼の話を聞きながら、ドイツの地図を前にしながら、なぜかペルーのクスコに逗留していたときのことを思い出していました。そこは、マチュピチュへの入り口。「金がなくなってきたからヨーロッパで働いてきます」と律儀に挨拶して、そのまま音信不通になってしまった友達のこと。彼は大事にしていたチャランゴも欧州に持っていったはずです。または、一年間日本でアルバイトをして、二年間海外で生活をしている、というおじさんにもそこで出会いました。「できたら死ぬまで旅を続けるつもりだよ」と彼は笑顔で話してくれました。さて、名もなき移動する魂たちは、いまどこにいるのでしょうか。そして、僕はいまどこにいるのでしょう。あるいは、どこにいたいと思っているのでしょうか? それにしても、ドイツ・・ドイツ。

Thursday, September 05, 2002 at 23:23:44 (JST)
セルリアン・タワー
9月の最初の日。渋谷。背は高くないが、がっしりとした体つきの写真家が僕の横をゆっくりと通り過ぎて、聴衆の前で、話す。ポルトガル語なまりの英語が少しずつ早口になって、英語というテクニカルな言葉の桎梏がいかにももどかしそうにして、話す。場所を移した先のセルリアンタワーホテルでのマスターとの対談では、どこかの音楽のようなイントネーションのマスターのポルトガル語にじっくりと耳を傾けたあとに、とにかく早口の母国語で、話す。サルガドの写真は、彼の話し方と同じようにきわめて饒舌だ。写真や小説などで、いかにもといった感じの意図を過剰に含ませる作品を僕は好まないが、彼の作品は作者の意図をストレートかつ不思議な仕方で見るものに届ける。届けようとする意志に溢れている。溢れ過ぎている。本人は自分の写真を、アートではなくドキュメンタリーだと述べていたけれども、アートを通してしか人に伝わらないものがあることを、逆にサルガドの写真は僕たちに教えてくれるような気がする。究極のドキュメンタリーはアートと同じなのかもしれない。

Thursday, September 05, 2002 at 23:19:35 (JST)
セントラル・タワーズ
8月下旬。名古屋。コンクリートに敷きつめられた白っぽい都会は猛烈に暑い。駅ビルと呼ぶには巨大すぎるセントラルタワーズ13階のスターバックスで、僕は、今月の中旬からドイツに働きに行くという友達に会いました。彼は、インターネットで適当にドイツの会社をいくつかピックアップして、メールと電話で決めたといいます。「次のワールドカップまでいられたらチケットとりますよ。来てくださいよ」と彼は終始にこやかでした。僕は彼の話を聞きながら、ドイツの地図を前にしながら、なぜかペルーのクスコに逗留していたときのことを思い出していました。そこは、マチュピチュへの入り口。「金がなくなってきたからヨーロッパで働いてきます」と律儀に挨拶して、そのまま音信不通になってしまった友達のこと。彼は大事にしていたチャランゴも欧州に持っていったはずです。または、一年間日本でアルバイトをして、二年間海外で生活をしている、というおじさんにもそこで出会いました。「できたら死ぬまで旅を続けるつもりだよ」と彼は笑顔で話してくれました。さて、名もなき移動する魂たちは、いまどこにいるのでしょうか。そして、僕はいまどこにいるのでしょう。あるいは、どこにいたいと思っているのでしょうか? それにしても、ドイツ・・ドイツ。

Friday, August 16, 2002 at 22:12:49 (JST)
沖縄マンダラ
写真家はたとえば、穏やかな風のなかでそよいでいる木々の葉を写真に撮り、ある一点の過去のなかへとそれらを凍結させ閉じ込める。しかし写真は時に、未来の痕跡を写し取ることがある。写真の特権的な役割のひとつはそこにあると思う。まるで宗教的な祭壇がいくつもの通路を示すことによって人々の未来を示唆しているように、写真は呪術的なまでに未来を写し出すことがある。「沖縄マンダラ」の写真集を見ると、東松照明よって瞬間を写し取られた人々のほとんどは、こちら側にあるカメラのレンズを見ているか、あるいは意識している。東松はけっして自らが黒子となって人々の日常をこっそりと覗き見ようとはしていないことがわかる。彼はおそらく、多様な時間へと開いている沖縄の人たちの「視線という通路」を見つけだし、そのなかに入り込むようにして未来を透かし見ようとしているのだろう/最初は50個の英単語しか知らなかったというリチャード・ロドリゲスの自叙伝「Hunger of Memory」を読んでいる。スタバンスも英語の習得に苦心したことをどこかでちらっと書いていた。もともとスペイン語しか知らなかったチカーノ作家の書く英語ばかりを読んでいると、英語のなかにどのようにスペイン語(的な何か)が入り込んでいるのかが、直感としてわかるときがある。英語で読むという行為のなかに、スペイン語を読むという行為が重なってくる瞬間がたしかにある。

Saturday, August 10, 2002 at 23:11:32 (JST)
Jose Machos
那覇の本屋で僕は、米須興文さんの『文学作品の誕生』(沖縄タイムス社)を買いました。沖縄で購入した唯一の新刊本です。著者の名前はそのとき初めて知りました。僕はその旅で、朝から晩まで島のあちこちを車で訪問し、そして夜になると、宿泊していたホテルの近くの飲み屋で泡盛をすすりながら、そのとても誠実な感じのする本を読んだりしていました。サンパウロにおける「ブルームズデイ」(『ユリシーズ』)に催された、複数言語の奏でる交響楽のような詩の朗読会と、沖縄在住のイェイツ研究家である米須さんとの興味深い邂逅についての話をマスターから聞かせていただいたのは、それから数年後のことです。アイルランドと沖縄の共通性を指摘する人は多いですが、米須さんが語るジョイスの「沖縄まん担み(沖縄をまるごと担ぐ)」性はとても説得力がありますね。アイルランドと言えば、下北沢(新宿のアイリッシュ・パブだったか)で、コヨーテさんのアイルランドへの人並みならぬ思い入れを聞かせていただいたことを思い出します。コヨーテさんの世界も深い・・。蛇足ですが、エルパソを舞台にした秀作『The Dark Side of the Dream』を書いたAlejandro Grattan-Dominguezは、『Chicano Renaissance』によるとChicano-Irish wrirerだそうです。サンパウロが可能にした「人と声の豊かな交響=交通」にSpanglishやcaloが加わるとどうなるのだろう、という空想はなかなか魅力的ではあります。

Friday, August 09, 2002 at 22:38:02 (JST)
imura
横浜でマスターに会えることになった。短い東京滞在の帰り間際に、なんとか時間を作っていただけたようだ。思えば、昨年末に、雪深き札幌でお会いして以来のこと。季節はすでに夏になっていた。この息苦しいような暑さのなかにいると、いまからちょうど一年前に、マスターと二人で山口昌男先生のご自宅をお伺いしたことを思い出す。そんなことをぼんやりと考えていると、帰省ラッシュの狂騒がかすかに聴こえ始めている雑踏のなかから、世界各地の風を受けてきた見慣れたパナマ帽を発見することができた。マスターはいつもの笑顔を見せながら、その日の朝に見た真っ青な湘南の空の色と、そして海からの穏やかな風について話し始めた。それから、湘南の海岸線を走るサイクリングロードのことも。僕たちは、およそ中国とは関係のなさそうなトロピカルな恰好のまま、中華レストランのなかへとずんずんと入っていって、奄美やブラジルの話をする。横浜港が広々と見渡せる大きな窓を背にしてマスターは語り出す。「奄美の三線の先生と、その日の気分によってお互いの三線を調弦し、楽器を通して対話をしていると、さっきまでは理解できなかった奄美の言葉がなぜかわかるようになることがあるんだ。先生も僕の言葉がわかるようになる。不思議だね。つまり、三線はコミュニケーションの手段になってるんだよ」。そう言って笑ってから、今度は、豊穣な島唄世界を取り巻いている安易な情報操作と商業主義のつまらなさを指摘し、モノと概念のあいだに横たわる広くて深い世界へと僕を誘っていった。「そういう世界を示すことのできる雑誌を作りたいね」。昨夜の多木さんとの会話を思い出すようにして、頭のなかにあるいくつもの道筋について熱っぽく語ってくれた。僕にとってマスターとの会話はいつも、思いもかけないもう一つの世界への通路となっている。今回もまた多くの考えるべき種子を与えられた僕は、いただいた東松照明さんの「沖縄マンダラ」の写真集を手に、足早に帰途についたのだった。

Thursday, August 08, 2002 at 16:57:18 (JST)
cafemaster <cafemaster@cafecreole.net>
 島尾マヤ、奄美大島で逝去。52歳。抽象的な数字となった年齢が、私にはうまく像をむすばない。52歳のマヤさん? えっ、ミホさんのこと? いや、やはりマヤさん・・・。
 52年の生涯、と言い換えてみる。すると、かすかな像が現われだす。言葉を捨てて四十有余年の沈黙を生きぬいた少女の、深く内に堆積してゆく声の残像。耐えられぬ時の宙づりの天空にやはらかく舞い踊るおとめ。
 島尾敏雄の『日の移ろい』のページをしばしばかすめていった薄い幸の、薄い影の少女マヤは、なぜか私の心の痛点をはじめから叩きつづけていた。鹿児島の養護学校へ戻るため、修道女の付き添いで連絡船に乗り込み、デッキでしずかに手を振るマヤの存在論的な孤独を、私はいつか自分が引き受けるかもしれない痛苦の前兆として読んでいた。それから二十余年。私のなかのマヤさんはそのままデッキの上で一人佇んでいて、私は生まれてくる自分の娘に、この永遠の聖處女にちなんで「摩耶」と名づけようとさえしていた・・・。
 葬儀が行われたカトリック名瀬聖心教会。名瀬の建築物のなかでも、清明な線と色使いでとりわけ好きな空間だ。この教会のま向かいに、私が三弦を購入した「福沢三味線店」がある。蛇皮模様が鈍く光るこの三弦で、いま三つの音を、世界を調律し直すために奏でてみよう。マヤさんがたどる天上への道に、教会のなかのこだまする空気に乗って、その音が届かんことを。

Thursday, August 08, 2002 at 07:58:30 (JST)
イカレ=ポンティ
「無数の蝉がやかましく鳴き始めると夏も終わりだ」。大磯から江ノ島までの海岸線を、水平線を見ながら自転車で走る。辻堂では一匹の蝉が裏返しになって半分死んでいた。まったく夏も終わりだ。一年中でもっとも強い太陽の光が僕には気持ちよく感じる。三島は太陽について何と書いていたんだっけ。しかし夏はもう終わっているのだ。サーファーたちは毎回少しずつ形状を変えてやってくる波に乗るために飽きずに自慰行為をしている。いつも通るテナント募集の空きビルの前には僕よりもこぎれいな格好をしたホームレスがいて、僕は目で挨拶をした。相模大橋をわたってアクエリアスを飲んで、扇風機しかない部屋に戻ってNash Candelariaを読む。18世紀初頭のアルバカーキを開拓した祖先をもつカンデラリーアのシンプルな英語が、この季節の昼間には丁度いい。ただ彼は、既存の言葉を少々信頼し過ぎているきらいがあるようだ。言葉の向こうの歴史を見るためには、言葉が生まれる前の出来事を見るためには、私たちはもっと詩的であることを活用しなければならない。「無言の口の瞳に倣へ」と書いたのは誰だったか。それで思い出した。島尾マヤさんが亡くなったそうだ。言葉を誰よりも信頼していた作家の長女。書いて書いて書きまくったあとに彼が到達した場所こそがナマの出来事。黙祷。

Tuesday, August 06, 2002 at 10:24:25 (JST)
ジッパー鮫
中村君の文章を読んで、迷宮的幻想都市(島尾敏雄)の那覇でも、古本屋巡りと大学図書館巡りをしたことを思い出した。その途上では、予期せぬ老若男女と、予期せぬ家々や白い砂利道で、中途半端な言葉を交わすことができた。古ぼけた三線の音がついさっきまでくっきりと青空に向かって鳴り響いていた空間には、無数の揺れ動くokinawaの言葉が見えた(聴こえた)。島々の人々の唯一無二の身体のうちにもそれぞれに揺れ動く言葉が見えて(聴こえて)、僕のなかにも不完全な外国語や日本の各地の方言が揺れ動きながらせめぎあっていた(共存していたとはとても言えない)。本土に戻ってからの旅先で「沖縄」という形象の字に触れては、ふと「ガンジューイ」などという山之口獏から仕入れた言葉が口をついて出て、いくつかのokinawaの言葉を口に出してみたりする自分がいた。けれど、本土に拠点をおきながら島々に思い入れを感じているそういう自分が、あるときから急にイヤになった。日本に囲い込まれてしまっているこの魅力的な群島から少し遠ざかろうとしていた。そして、同心円状の広がりだけではない、楕円心状や、飛び地や、有徴と無徴が混淆した、いつでも何かの途上にあるような土地を頭のなかで作っては、そのなかに僕がたどってきた大小の街や、名前もついていないような土地を、等価に(ときに無差別に)並べようとしていた。そのようなラビリンスな土地の情景を、等価ではない言葉で表現することができるのか。そんなことをずっと考えては、小説でも詩でもない(あるいはそのどちらにもなりうるような)言葉に置き換えようとしていた。

Thursday, August 01, 2002 at 18:44:45 (JST)
jose machos
ラップというのは単調なリズムにダジャレをのせることのようだ。ポストモダンと呼ぶにはあまりにも無邪気な歌詞ということを考えれば、どこかの番組でやっているように、ラップは勉強に使うのが一番いいのかもしれない。ラップを使って元素記号を覚えるなんてことは、もう誰かがやってるんだろうな/島唄の真髄など私には知る由もないが、称讃されまくっている元ちとせを聴いても何も響かないので一人で落ち込んでいた、というのはウソで、私はコマーシャルよりも自分の耳を信用している。奄美音楽に急速に近づいているマスターに、奄美の奏でる音について今度訊ねてみよう/それにしても昔の曲のカバーばかりがリバイバルされ、しかもどれを聴いてもモトウタの方がいいというのにも困ったものだ。時代のなかで歌は生まれ、時代とともに歌と聴き手は育ち、あのときの歌は「いま」のなかに、あのときとは違う顔をして現れる。ビーチボーイズを聴きながら皿を洗っていると、忘れていてもよかったことをふと思い出したりするから不思議だ/楽器への偏愛という感情を喪失してもう何年たつだろう。あの頃は、テレビを見ているときもギターやベースを抱え、外に出るときにも持ち歩いて、寝るときだけはそっとスタンドに立て掛けておくといった生活をしていた。マスターの文章(『旅』(8月号)を読んでその頃の自分を思い、消えかけてしまった感情を少しだけ取り戻すことができた。

Thursday, August 01, 2002 at 18:41:56 (JST)
jose machos
数学の公式のXのところに、極端に大きな数字を当てはめて公式のもつ意味の何たるかを知ろうとしていたあの頃のように、僕は自分自身の身体に対しても極端に大きな負荷をかけることによって、その何たるかを知ろうとしてきた。坂口安吾が3時間睡眠を続けたことによって精神をおかしくしたという文章を読んで、僕は正直言ってうらやましいと感じたことがある。どうすればこのぼんやりとした空気を打ち破ることができるだろうと、いつの頃からかずっと考えていた。生きているという実感、などというとかっこよすぎるけれども、健康を保つことによって生き長らえることや、あるいは幸せな結婚をして健やかな子どもを授かるなどという凡庸な考え方に対して、僕はことごとくつばを吐いてきた。いまの僕からは想像もできない(?)だろうが、僕はあらゆる反社会的な行為に魅力を感じ、そのなかのいくつかは実際に行動へと移してきた。いまから考えるとまったく自慢にもならない。僕の身体はその限界を感じとると、いくつかの病気という徴候を通して僕を病院に送り込んできた。この数年間も、僕は薬づけの生活を送ってきた。しかし、ものごころついてから初めてといってもいいだろう、規則正しい食生活と適度な運動と適度な睡眠と穏やかな精神状態を数カ月間維持してきたおかげで、いまの僕はとても健康になったような気がする。身体をつねに意識し闘ってきたときと比べて、いまでは時間がゆったりと流れてすべてを微細なところまで見ることができるようになったと感じる。自分とは何だろうという実感を、僕はこれからどのように手に入れればいいのだろう。

Thursday, May 23, 2002 at 17:28:42 (JST)
Super Eagles
「ナイジェリア対横浜マリノス」の親善試合を見てきました。代表落ちの中村俊輔選手は残念ながら出場しませんでしたが(案外ショックが大きかったのか。奥、波戸は元気に出場。松田は磐田へ)、アフリカでもっとも実力があると言われている代表チームの切れのよさを、満員の観客に十分に見せつけてくれました。有名なオコチャは出なかったけれども、カヌ(アーセナル)には満足しました。2得点のオグベジェ(パリSG)もよかった。フォーメーションの確認をしているような余裕のナイジェリアに対して、ばたばたと必死のマリノスがなんとか点を入れると、「しょうがねえなあ〜」といった感じで数分以内にナイジェリアがとりあえず同点にしておく、といったわかりやすくもスリリングな流れで、結果は2対2の同点でした。あるいはナイジェリアの選手には、相手との動きのなかでゴールを決めていく、といった身体技法がインプットされているのかもしれませんね。マスターがブラジルで見た試合について、そういうことを教えてくれたような気がします。それにしても、サッカーというスポーツのもつ緩急の動きは、アフリカ人の身体においてこそ存分に発揮されていると思いました。アフリカの超一流プレイヤーのきびきびした動きに比べると、Jリーグのなかではけっして下手ではないマリノスの選手たちも、なんとなくだらだらした感じに見えてしまいます。アルゼンチン、イングランド、スウェーデンと一緒のグループのナイジェリアには、本番でも是非頑張ってもらいたいものです。まあ、彼らはあまり気にはしていないようですがね、この組み合わせを。初戦のアルゼンチンには、当然のように勝つつもりでいるくらいですから。

Tuesday, May 07, 2002 at 21:15:23 (JST)
Jose Machos <imura@gc4.so-net.ne.jp>
私がよく利用していた本屋が最近、消滅したり縮小したりした。その跡地に店を開くのは、「もう必要ないだろう!」と叫びたくなるくらいどこにでもあるマクドナルド、じゃなくてユニクロだった(どちらでも同じだけど)。私は自慢ではないが、本屋があるとそこが旅先であろうと思わず入ってしまい(しかも荷物になるのに買ってしまい)、古本屋を思いがけない場所で見つけてはにやにやするような人間である。30代の半ばすぎという世代だからだろうか。私の上の世代や下の世代はどうなのだろう。思えば中学生のころ、年に一回か二回、母親から1万円をもらって神田で古本を買うのが楽しみだった。じじくさいなあ(コヨーテさんによると、堀江敏幸氏は古本屋の匂いが好きだそうだ。彼は私と同じ年だ)。でも、そういう類いの経験をしている友達は私のまわりにはいくらでもいたのだ。ただ、就職して結婚して子どもができて・・と時を重ねるにつれて、彼らが手にしていた文庫の『魔の山』は「夕刊フジ」に変わり、『構造と力』は『五体不満足』に変わる。これで、知性のかけらもないおじさんの一丁上がりだ。知性は「青年」を脅かす一過性の病なのか。昔マスターがあるシンポジウムで、ご自分の経験から山での仕事について語ったことがあって、質疑応答の時間にある女性が「山にゴミを捨てさせないようにするにはどうしたらいいですかねえ」と質問したことがある。それに対してマスターは「ゴミを持ち帰ることがカッコイイと思わせればいいんですよ」とあっさり答えたのが印象に残っている。何を言いたいかというと、かつての「青年」にとっては知性はかっこよくて気持ちいいものだったのだということ。かっこいいかどうかが若者の行動規範なのだ。しゃれた服を着ることよりも、西田幾多郎(古すぎるか)を携えている方がかっこよかったのだ。まあ、いまだってそうだと思うけどね、私は。そしてまた、(日本の)おじさんには知性は似合わないものだとうすうす感じていたということ。また、いまの「青年」にとっても、知性はあまりかっこいいものではなくなってしまったのだろうなあ、ということ。その結果、今日もまた、知性を売り物にするような良心的な本屋は、廃業に追い込まれていくのである。悲し。