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管啓次郎
Keijiro Suga

コヨーテ読書 5
花/野/世(フラワー・ウィルダネス・ワールド)
アイズリー、スナイダー、ヤキ族にとっての花 その1


 花がこの世界にとってもつ意味を考えてみたいと思う。

 花とはいったい何なのか。

 なぜ人は花を美しいと思うのか。

 他の動物たちは、花というものを、あるいは「こと」を、どう考えているのか。
 

 これらの一組の問いは、子供のころのぼくに生まれ、それからずっと答えをもたないまま、ときおり思いだしては漠然と考えてきたものだ。もちろん長い年月のあいだには、そのつどその場かぎりの答えも、いくつか思いつくのがあたりまえだろう。たとえばこんな風に。

 花が美しいのは、それがセックスに、生殖に関係しているから。(といっても花のセックスは人間のセクシュアリティとは無関係なのだから、この効果は純粋に言語的に生じるものかもしれない。)

 花が美しいのは、それが色彩をきわめて鮮烈に体験させてくれるから。

 花はいい匂いがする。

 花が美しいのは、それが鳥や昆虫を集めるから。集まるかれらを見て、人はそれらの小動物に自分を同一化して考える。

 花が美しいのは、それが花粉や蜂蜜といった特別な物質をもたらしてくれると、われわれは知っているから。(花粉の錠剤という合法的ドラッグを愛用するようになって、いよいよそう思う。)

 花が美しいのは、花のある場所には強い生命力が働いていることが感じられるから。ある土地が審美的にいってすばらしい土地であるとき、そこはまず確実に物質的にもいい土地なのだ。

 そして最後に、花が美しいのは、それがやがて枯れてゆくから。われわれは花のはじまりとその終わりを見ることができ、さらにその彼方に約束された再生があることを知っている。こうして花は、どのような意味においても、生命そのものの形象となる。

 六万年前、ネアンデルタール人は死者の体を少なくとも八種類の花でおおった。世界を移っていった者に手向けられた、こちらの岸辺の花束。それ以来、死は人にとって究極の教師だった。どうやらこの地球におけるすべての人間文化で、例外なく、花は特別な、強い意味を与えられている。それには何かはっきりした、物質的理由があるはずだ。でも、それが何なのかはわからなかった。その手がかりをはじめて教えてくれたのが、ローレン・アイズリーだった。

 

 ローレン・アイズリー(1907−1977)は、大恐慌につづくどん底の不況時代にネブラスカの平原で育った形質人類学者だ。ホーボーと呼ばれた鉄道浮浪者の生活を十代で経験したあと、化石狩りで生計を立てながらネブラスカ大学で学んだ。のちにはペンシルヴァニア大学で人類学科の主任を長らくつとめるかたわら、一般読者むけの科学史の著作を旺盛に執筆。こうした一般むけのエセーで、西欧的世界観の基本的な前提を問い直しつづけたのが、結局、彼のもっとも重要な仕事となったようだ。

 アイズリーは、ひとことでいって、幻視者(ヴィジョナリー)だった。ヴィジョナリーとは−−ぼくの考えでは−−未来を見る者ではなく、絶えず過去を見直してゆく誰かのことだ。つまり、ヴィジョンとは、つねにリ=ヴィジョンなのだ。いいかえればヴィジョナリーとは、世界の歴史について、他の人が信じてきた物語とは異なったヴァージョンを語る者。幻視者アイズリーの批判の標的となったのは、近代ヨーロッパ科学に内在するある種の論理であり、ヨーロッパの技術科学と手をたずさえて発展してきたヨーロッパのとめどない自己拡張だった。これを相対化するために、彼は西欧的クロノロジー(時間論理)の背後に隠されてしまった、まったく異なったさまざまな時間性に、人々の注意をむけようとする。イギリス経験論の親、シェイクスピアの正確な同時代人である幻視者フランシス・ベーコンについてアイズリー自身が使った呼び名にしたがえば、アイズリーもまた「時を見通す人」だった。

 たとえば「原初からの人々 (The Aboriginals)」と題された詩を、彼は書いている。ここで彼が想起するのはオーストラリアのアボリジナルたちにとっての「時」だ。人間が経験してきた数々の「時」のあり方のうち、近代ヨーロッパの物質的生産変型行動や経済行動を支配する単線的時間は、ごく限定されたひとつでしかない。しかしアイズリーが見る時間は、こうした人間的尺度での相対化を、さらに超えてゆく。人間が人間になった数百万年の、進化の時間を、彼は見ているのだ。人間の体には、われわれに先行するあらゆる形態の生命がそのまま宿っている。ある風景を見たなら、そこにはもはや回想不可能な太古からその土地が経験してきたあらゆる遷移の記憶がたなびいている。アイズリーの想像力は人類学的である以上に考古学的であり、さらに生物学的・生命誌的であり、地質学的なものだった。これらの多層的な時間を、彼は自由に往還した。

 「花はいかに世界を変えたか (How Flowers Changed the World)」と呼ばれる強烈な印象を残すエセーで、アイズリーは1億年前に起こった「白亜紀の爆発」について語っている。この時期は被子植物の出現期、つまり花を咲かせる植物の誕生期だった。「チャールズ・ダーウィンはそれを<言語道断な謎>と呼んだ。なぜなら被子植物はあまりに突然に出現し、きわめて急速にひろまったからだ」。被子植物出現以前の地球は、現在のわれわれが知る惑星はひどく異なったものだった。まず、草がなかった。動物界は、爬虫類に支配されていた。内陸部は松、トウヒ、巨大なセコイアの森林におおわれていた。「すべては硬く、きちんとして、直立し、緑だった、あまりに単調な緑だった」。そこに花咲く植物が現れ、急速にひろまった。これらの植物はふしぎな色に輝き、さまざまな奇妙な外観の果実をつけ、果実は「暖かい血をした高速代謝機械のための、濃縮食料となった」。裸の大地の表面は、草におおわれた。地球は、いまわれわれが知る意味での「緑」となった。植物生命におけるこの革命が、それにつづく動物の進化を準備する。アイズリー自身のカラフルな表現では

 

 

 すべての進化は、いうまでもなく、共=進化だ。すべての種の分化は、その環境とのあいだの相互作用の結果にほかならない。植物でも動物でも、生物はすべて環境とひとつにむすばれた、物質的結節点としてのみ存在できる。けれどもわれわれの惑星の自然史では、植物の決定的な先行性があることは疑えないだろう。植物が、地球を動物にとって住める星にした。

 花とは、したがって、ひとつの贈り物、徹底的に物質的な贈り物、どのような神によってでもなく、植物自身によって動物に与えられた贈り物だった。それは、花の仕事だった。花は生命を凝縮する。凝縮し、加速し、未知の変型の空間へと投げだす。今日の鳥も哺乳動物も、「白亜期の爆発」の直接の産物だった。鳥や蝶の目の覚めるような色彩も、すべては花の結果。われわれ地球の恒温動物は、かつて別のかたちをして別の血液をもち、花の時代がやってきてわれわれを以前の形態から連れだしてくれるのを、じっと待っていたのだ。

 

 ゲイリー・スナイダー(1930−)は、今日のエコソフィア(エコロジカルな英知)にとってもっとも重要な人物の一人だ。彼のエセーはつねに刺激的で、優美で、われわれ人間があらゆる生命の議会の一員として与えられた場所でどのように生きてゆくべきかという問いをめぐる、率直な提言にみちている。スナイダーにおいて、仏教、エコロジー、プライマリーな人々(ファースト・ピープル、ネイティヴ・ピープル)の伝統知が、本物の詩人の声をもって綜合される。

 エコソフィアを語る彼の著作には、二つの焦点がある。一つはわれわれの生活空間について別の見方を提出する「バイオリージョナリズム」(生命地域主義)という考え方。もう一つは、実践の要綱としての「リインハビテーション」(ふたたび土地に住みこむこと)だ。このいずれの概念にとっても、植物の先行性の認識が、決定的な役割をはたしている。

 「バイオリージョン」とは、その植物相(フローラ)および動物相(ファウナ)によって他とは区別される、きわめて広い地域をさす。あるバイオリージョンの特性は、たとえば分水界(水系をおなじくする地域)、地勢、標高、降水量といった、現実の自然力によって決まる。(ここで、たぶんマクロなバイオリージョンとミクロなバイオリージョンといった区分をさらにもちこむこともできるだろう。共通の特性におおわれた広範な地域だけでなく、ときにはごく近くにあってもまるでようすのちがう土地、局地的なゆらぎが存在するからだ。)バイオリージョンを知ることは、自分が住む土地の本質を知るということだ。あるバイオリージョンのもっとも明らかに見える特性は、その植物相だろう。(ある写真を見せられて、われわれはまず植物のようすから、その土地の位置を推測するものだ。)いわば植物とは、土地が語る言葉なのだ。

 スナイダーは、太平洋沿岸部のダグラス・ファーの例を上げている。これは太平洋岸北西部の、典型的樹木だ。その北限はだいたいブリティッシュ・コロンビア州のスキーナ川流域。南限は、ほぼ鮭の南限と一致し、カリフォルニア州のビッグ・サー川。四つの州(カリフォルニア、オレゴン、ワシントン、ブリティッシュ・コロンビア)、二つの国にまたがり、この樹の存在範囲はほぼ同程度の降雨量と気温水準によって決まっている。いいかえれば、その地域にどのような自然力が働いているか、ということだ。

 「場所の精霊」(ゲニウス・ロキ)と呼ばれてきたのは、じつはその土地に働いているさまざまな自然力の総和のことにほかならない。これは土地の精霊に対する、神秘主義とはまるで無縁な、確固とした、唯物論的見方だ。バイオリージョナリズムとは、このような見方を基本として、自分の日常生活を組織し、新しいかたちのコミュニティを作り上げようとする意志をいう。それは現行の政治形態や境界設定を書き直し、土地についてのとらえ方を根底から再構成する。

 スナイダーはいう。「<本当の人々>は、土地の植物のことを身近に、じつによく知っている。(... )ほとんどのアメリカ人は、自分たちが植物を知らないということすら知らない」(『野生の実践』)。もちろん、その無知はアメリカ人にかぎった話ではない。舗装道路、自動車、広域市場に大規模流通する食物、工業食品といった「アメリカ的生活様式」を無自覚に採用したすべての先進工業国が共有する、空恐ろしい無知だ。しかもこの無知は、わずか数十年の無知にすぎないのに、もはやほとんどとりかえしのつかない地点にまで進んでしまった。知識を、とり戻さなくてはならない。

 まず、植物からはじめる。その「ローカルな知識」の追求において、われわれは権利上・実践上、ある地域の生まれたてのネイティヴとなることができる。この動きが、「リインハビテーション」と呼ばれる。植物を見分けられるようになり、植物についての伝承知を学ぶことが、その最初の鍵となるだろう。食料採取パターンは植物相によって決まり、伝統社会はすべて環境についてのきわめて正確な経験的知識をもっていた。逆にいえば、土地をめぐる確実な、本物の知識が、新しい、場所に根ざしたethnosを組織する。人々は、「土地が、その地点で、どのような特定の植物を<語るか>を学ばなくてはならない」(『宇宙の中のここ』)。

 土地は人間の言葉を語りはしない。しかし、われわれはそれをわれわれの言語において理解する。そのための中心的な語彙は、かつてわれわれの祖先が−−血脈による祖先ではなくその土地の祖先が−−その土地の植物を呼んだその<名>なのだ。

 土地に住む人々、伝統的先住民は、ふつう土地の聖性についてきわめて鋭敏な意識をもっている。この聖性が由来するのは、生と死の神秘の意識、われわれの生命が環境との日々の物質的交換によって織り上げられたものだという自覚だ。その論理は、ごく明快に、次のようにいえるだろう。

 われわれは生きるために、他の生命を殺す。

 われわれは生命を、土地からの純粋な贈り物だと考える。

 われわれが死んだなら、この体を物質的に土地に帰さなくてはならない。

 スナイダーは、土地の人々のそんな意識をうけついでいる。彼の態度を、ぼくは「ナチュラル・マテリアリズム」と呼ぼう。

 


 

 自分をかたちづくる物質をサクラメンタルなものとして見るこの態度は、非常に重要だと思う。ここでスナイダーは、彼にとっての<仏教>をあらわに語っている。仏教の第一の戒律は「傷つけないこと」、サンスクリットの「アヒムサ」だ。殺生をしてはならない。しかしわれわれの生命の持続のために、殺しは避けえない。種と種の関係から見れば、死と生はつねにひとつに連続している。生きることは殺すことであり、傷つけることなのだ。このことは、われわれのひとりひとりが自分なりの回答を探さなくてはならない問題だ。そして最終的な回答が出ないうちにも、きみには日々の態度決定がせまられる。

 

 

 はたして、伝統文化が考えてきたような「霊」が実在するかどうかは、どうでもいいことだ。問題なのは、「自分」への物質的同化によって、それ本来の自律性を破壊され、ありえた生存の可能性を断ち切られた生命が、たしかに実在するということだ。この失われた可能性、ここに臨在する空白のことを人は「霊」と呼び、それは言語的な構築物であり、それが人の行動を制御する。ナチュラル・マテリアリズムが見る「霊」は、まやかしとは無縁であり、この意味での「霊的(精神的)追求」は、自分の行動の意味を考える誰もが、つねにおこなってきたことだろう。

 

 ところで、世界各地の文化の神話で、液体から花への転換が語られているのは興味深い。古代ローマでは、眠る女神ユーノーのお乳が地面に落ち、そこから白い百合が咲き出た。イスラム教徒にとっては薔薇が神聖だ、なぜならそれは預言者モハメッドが天を旅した際の汗のしずくから生じたものだから。ラテン・アメリカ先住民文化の土着化したキリスト教のいくつかでは、ゼラニウムは悪魔から逃げるキリストの血から咲いたといわれる。谷間の百合は、「聖母の涙」とも呼ばれる(エリアーデ編『宗教百科辞典』パミラ・フリーゼの記述による)。

 こうした神話が生まれるのは、花が水さえあれば何もない土地から生えだすことを、われわれが知っているからだ。乳、血、汗、涙は、いずれも象徴的な意味をおびた水にほかならない(おそらく精液から咲く花という神話もあるはずだ−−あるいはジャン・ジュネの『花のノートル・ダム』がそれか)。意味は、言語によって、花に与えられる。これらの神話の真の秘密は、花とは水(元来は天からやってくるもの)と大地との結婚から生じたものだという点にあるだろう。水が、花になる。花に変わる。そしてこの単純な事実がもっとも強烈に感じられるのは、水の乏しい土地、すなわち砂漠地帯でのことだ。

 

(次回、その2へつづく)

 

  

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