管 啓次郎 コ ヨ ー テ・歩・き・読・み・ 
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コヨーテ歩き読み10
多和田葉子『カタコトのうわごと』
(青土社、1999)

 

 あれよあれよと驚きながらこの本、多和田葉子の第一エッセイ集を読むうちに、ぼ くは著者をマイスター・タワダと呼ぶことにした。マイスターとは「達人」であり「 師匠」だが、その女性形をドイツ語で何というのかは知らない。英語ならマスターの 女性形はミストレスだが、ミストレス・タワダと呼ぶとあたかもアイジンにむかって 呼びかけているようで畏れ多いことおびただしい。けれどもマイスター・タワダはレ ンアイの対象というよりはレンタイの対象であり、そのレンタイは丘にむかって並ぶ 植物やその丘に巣穴を堀りくりかえす齧歯類の小さくおびただしい獣たちのレンタイ とのレンタイにつながる。こうしてぼくらは異種混成的グレンタイになってゆくのだ ろうか。それらの旺盛な植物には見知らぬ言葉が芽ぶき、それらのアナーキーな獣は 言歯で言葉をぼろぼろにし、おかげで風景には風が吹きまくる。「風」の中に住む一 種の「虫」が解き放たれ、ぼくらを自由にし、「景」という太陽を上空に輝かせる都 がカンパネルラ(トマソ)を思いださせ、この名はトマソンにも宮沢賢治にもつなが る道だ。「語」を掘ってゆけば「吾」はどこに出るかわからない。どんな言語を(言 ! 言! 吾! 思わずむせるような反復というか上塗り、ペンキの匂い、ぽかんと 開いた口が五つ)話すことになるかわからない。多和田葉子はヤマトの言葉を多言語 化し、整然とした原稿用紙の枡目のような「田」を埋めてゆき、弥生文化以来の田ん ぼは、いつのまにか原始の温帯広葉樹林的密林に姿を変えるようだ。

 マイスター! あなたはこう書いておられます。

 

 ものを書いていると、言葉が、時には文字が、不思議な身体性を発散し始め、やがて 、わたしは、その身体の形、動きだけを追いながら書いていきたいという思いに駆ら れることがある。これが、わたしにとっては、書くことと踊りとの繋がりの発生する 場でもある。(182ページ)

 

 そうですね。そんなダンサブルな文だけに、ぼくも興味をひかれます。ぼくも自分 が文章を書くときには、どんなによたよたしていても、そんな踊りをめざしたいもの です。そしてマイスター! あなたは次のようにも書いておられて、それにぼくはま たもや全面的に共感します。

 

 九〇年代を代表する文学とはどんな文学かと聞かれたら、わたしは、作者が母国語以 外の言語で書いた作品、と答えるのではないかと思う。そういう本をわたしは「外国 語文学」(外国文学ではなくて)と勝手に呼んでいる。 [......] たとえば、母国語 で書く文章は、危ないところを削られてお上品になっているのに対し、外国語で書く と文章に穴があるから、その穴から気持ちが直接飛び出していくことがよくある。ま た、外国語では「巧みな言い回し」などというものに頼らないから、映像をはっきり 出すしかない。型にはまった物の見方をうまく引用できないから、何もかも自分の頭 で考えないとならない。だから、嫌でも真剣さが出る。滑稽さも出る。おかしくて、 直接的で、映像の鮮やかな「外国語文学」がわたしは好きだ。 [......] それでは、 日本にいて日本語しか読みたくない人には、外国語文学の味が味わえないかと言うと 、決してそんなことはない。外国語文学の日本語訳を読めばいいのだ。(130−131ページ)

 

 外国語とのあいだの交渉、対決、時差、触媒化による発熱、などをはらまないかぎ り、文学はまるでおもしろくな(らな)い。国民国家の形成と国語の安定化が進行し た過去二世紀ほどのあいだ、文学はそれらに平行して与えられた枠を壊してゆくこと を最大の使命としてきましたし、その手法の最大のものは翻訳でした。この観点から すれば、マイスター! ありがとうございました。翻訳についてさらにあなたが書い てくださった次の一文に、翻訳者の拙いかたわれであるぼくは、思わず瞬間的に地球 の重力に抗して筋肉運動をおこないその結果地表との直接的接点を失うほど、うれし く思ったのです。

 

 ヘルダーリンがギリシャ語からドイツ語に翻訳した<アンティゴネー>を読んだとき には胸がどきどきした。よく意味の分からないところがある。文章の中から立ち上が ってくるものがある。わかりやすいということと表現力があるということは違うらし い。こんな翻訳になってしまったのは、ヘルダーリンが気が狂っていたからだとか、 ギリシャ語ができなかったからだとか、いろいろ悪口も言われたようだが、そんなこ とを言う人間は無視しておけばいい。翻訳の過程で、ばらばらになった言葉が、これ までに持っていなかった力を得て、反乱を起こし、もう文章という行列は作らないぞ と暴れ回る現場を覗き込んだことのある人の目には、いわゆる上手な翻訳などという ものは、大根畑のように退屈だ。(23ページ)

 

 かかとを失くした日本語、ぼろぼろとビスケットか壁土のように崩れては不思議な かたちや色合いの隠れた層を露出させる日本語、舌を出しながら裏返しに着る日本語 、なんといってもいいが、すみれのようにヴァイオレントで鈴蘭のように金属質の花 を異邦に違法に肉体化させるカーネーションのようなマイスター・タワダの「外国語 文学」のヴィジョンは、暗い夜に心細く出漁するわれわれのみちびきの灯火として、 数少ない信頼すべき光の葉叢だと思う。巻末の傑作「二〇四五年」をはじめ、大きな 組版で印刷された短編小説も、どれもおもしろい。批評では、パウル・ツェランをめ ぐる二編に息を飲んだ。「創作」という回路を自分自身もたない文学研究者などには 、絶対に書けない鋭さだ。

(1999.06.05)

 

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