管 啓次郎 コ ヨ ー テ・歩・き・読・み・ 
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コヨーテ歩き読み11
林巧『マカオ発楽園行き』
(講談社文庫、1999)

 

 中国世界というか漢字文化圏がもつ魅力は、その辺境の列島に仮住まいする日本語 使用 者にとっては独特なものがある。広大で、底無しの分厚さをもつその圏の全体を論じ るな どとは馬鹿げた話で、第一、中国は一つや二つや三つや四つではない。その圧倒的な 広さ を体験するには、どうしてもいくつかのポイントを決めて、それぞれを何度も訪れる こと が必要だろう。無為と反復。無為と反復。土地の素顔をかいま見るためには、欠かせ ない 二つの要素だ。

 香港、マカオ、台北には、たしかに大昔にぼくも行ったことがある。それぞれに強 烈で 、楽しく、驚きにみちた旅だった。でもあまりに短い滞在、うわっつらなそぞろ歩き では 、まるで水族館でピラルクもチョウザメもジュゴンも海亀も見ましたよといった程度 のあ さはかさにしか、到達することはできなかった。そのときのぼくにはそれでよかった が、 いまは猛烈な焦り、とりかえしのつかない気持ちにかられる。くるぶしにいまにも羽 が生 えてきそうなこんな感覚があるから紀行文を読むんだという単純な摂理を、ひさしぶ りに 思いだした。上手な旅人は、たしかにいるものだ。これらの地点への林巧の旅、とい うか くりかえされる滞在は、まっすぐに深海にダイヴしてゆくいさぎよさをもっていて、 その 歩みの結晶したこの文庫本は、予期せぬ気持ちのいい夏の夕方の通り雨のようだ。

 文章がすばらしい。第一章「萬華 [ワンホア] のストリッパー」から、ぐんぐんそ の視 線や聴覚の冒険にひきこまれる。単に物珍しい話や、浮気な自慢話がつらねられてい るの だったら、一晩の余興にしかならないだろう。この本は、もっと長くつきあうことを 予感 させられる本に数えていい。未来において、ぼくはこの本が語るいくつかの場所に、 たぶ ん(神仏と金銭のご加護が得られるなら)ゆくことになるだろう。ゆかないなら、そ れは それでで数年後のある日、またこの本を再読するだろう。最初に読みながらそんな予 感に かられるのは、そういつもあることじゃない。

 文章のサンプルとして、中国系マレーシア人の古琴作りのことを書いた「クアラル ンプ ールのしあわせなドライブ」から、次の一節をあげておこう。

 

 厚く漆が塗られて黒光りする胴を持つだけの琴は、抱えてみれば赤ん坊よりは長く て、 大きく、重いという程度のものである。それだけの楽器なのだが、得もいわれぬ色気 に満 ちているように、ぼくには感じられる。それはやはりこのシンプルな楽器が、詩その もの と、ほぼおなじだけの歴史を経て、今も現にここに変わらずにある、ということから 発散 される、根源的な色気ではなかろうか。  歌や詩は、その存在そのものが、ひとにとって色っぽいものであるように、おなじ く琴 もただそこにあるだけで、たっぷりと色っぽい。ただ楽器の形式のみではなく、実物 とし て何百年とさまざまな文人たちに弾かれつづけてきた琴も数多く、そんな銘器は漆の ひび 割れもが、美しい花のかたちにみたてて、愛されている。(129ページ)

 

 端正で抑制のきいた、いい文だ。歌と詩と楽が、結局は文章の根元という流動的な ひろ がりを、たゆたいからみあいながらかたちづくっていることを思わされる。琴はもと より 楽器として、実物として琴であり、同時に「琴」というこの一字が文の表面にふと置 かれ ればそれだけで、音楽も歴史も無窮の底から浮上してくるのが、わかる。この感覚が 「中 国」でなくてなんだろうか。ぼくらにとって中国とは、表象を超えて音も味も五感の すべ てを引き連れた、文字の途方もない集合体だった。たとえばこのひとつの漢字「琴」 に、 ひらがなたちが群れ集い、むらむらとした動きを組織してゆく。すると「それだけ」 の「 もの」に、ある根源的な「色」があり「愛」があり、それらなくして文章が美の感興 を誘 うことも、不在の対象と自分を隔てる距離を一気に解消するという魔法を使うことも ない ということが、おのずから納得されてくる。

 それで、この本を読めば香港や台北はもちろん、いい思い出のないマカオにも、美 しい 阿真の住む荻窪にも、またすぐにでも出かけてゆきたくなるわけだ。ぼくにとって未 知の 著者だった林巧は、おばけの研究家、みずから胡弓を弾き、『世界の涯ての弓』とい う長 編小説の作者でもあるそうだ。次の休みには、その長編を読んでみることにしよう。

(1999.06.14)

 

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