現在のログへ戻る

 

以下がantipodesの2000年の過去ログです。

 


Friday, January 07, 2000 at 22:51:38 (JST)
Nabbie's Love
「ナビィの恋」(満員盛況)はオキナワの明るい部分だけを抽出したような映画でした。しかも、記号をふんだんにちりばめることで、見た人の解釈が無限に広がるという点では、誰が見ても楽しめるのではないでしょうか。それがオキナワの正しい姿かどうかは別にして。もちろん、他者を想像することは他者を単純化することですから、「正しい姿」などどこにもないとも言えますが。私自身は、まったりとした時の流れる琉球弧の島々が、どうして食や性や音楽や踊りなどを自然と引き寄せてしまうのか、などとぼんやりと考えていました。恋愛の同時進行のなかで繰り広げられる、ブラジル移民とヤマトンチュ、道化師と仮面、アイルランドとアメリカ、子どもたちと老い、花と動物、生の誕生と墓、ウチナーグチに侵入するポリフォニックな英語とヤマトゥグチ、登場する人々の象徴的な名前、閉域と水平線への通路・・そして笑い。極端にうまいと思わせるような演技(特に子ども)に寒気を覚える私は、恵達らの訥々とした台詞回しにさえリアリティを感じとることができました。もちろん、南の島の風景を巧みに盛り込むことも監督は忘れていません。しかしそれでも、あの唄うような沖縄方言とそれと微妙に調和する三線の調べを十分に享受できなかったことは若干不満でした。もしかしたらそれによって、サミットをひかえたオキナワの時空間(クロノトポス)が少しだけヤマトへと引き寄せられるように仕組まれれていた、などと考えるのはやめることにしましょう。

Sunday, January 09, 2000 at 21:06:19 (JST)
healing
2000年が明けてすぐに、辻堂でマスターにお会いすることができた。僕にとって最高のhealing. ただ、笑っている間に「Buena Vista Social Club」についてお聞きする機会を逸してしまったことが心残り。Gould とか rage against the machine のような音楽ばかり聴いていると、脱力しながらも熱くなるような音を身体が欲してしまう。サントラを聴いて公開を待つことにしよう。いずれマスターのクールで熱い文章にお目にかかれるだろう。その間こっちは Gould を Bill Evans でバランス取ってたりして。しかし、W杯の Ricky Martin を素通りして、「ア・チ・チ」の方が本家を凌駕してるなんて言われるようでは、このような目に見えない反復行為は ambiguous に終わってしまうのだろうか。私は結局、年末はおとなしく Mai Kuraki と Chopin ばかり聴いていた気がする。その前の年の同じ頃は Hikki と Beck を聴いていたはずなのに。今年はまずは、新譜の出そうな Enigma でも買いますか。そう言えば去年「Sutra meets Samba(お経+サンバ)」という横尾忠則がジャケットを描いている摩訶不思議なCDを買い、今でもたまに聴いている。実にクールで熱い・・。表題の下にこっそり「ヒーリング/ワールドミュージック」と書いてある。Creole って何だ?!

Saturday, January 15, 2000 at 22:00:19 (JST)
nariyuki <imura@gc4.so-net.ne.jp>
「healingさんの話に共感したが、知ってる人か」とシアトル在住の女性に聞かれた。「よく知ってる人かも」と答えておきましたが。今日、慶応ラグビー部が大学日本一になった試合をTVで見た。かつて「お受験」で入った中学を追い出され、超スポーツ校に転がり込んでしまった私は、以来学生ラグビーに親しむようになっていた。前回慶応が日本一にまで昇りつめた際は、5試合以上は現地に見に行ったはず。確か、覇気のない「君が代」の斉唱よりも、共同体の一体感を促す「若き血」の大合唱の方がコワイと思ったような。スポーツの魔力だ。それにしてもラグビーは、人の助けを借りる時は前進できなくて、「自分で行きます」と決めた時だけゴールに近づける変に禁欲的なスポーツだ。しかも「手」が使える分だけ、誰にでもわかりやすいバリエーションが無限に提出される(その分ルールがややこしかったりする)。そうか、ピーターアーツ(足蹴得意)よりもメキシカンボクサーの方が魅力的だと思ってしまう私には、この「手」のもつ前近代に戻りきれない近代的な機能の曖昧さ加減が気に入ってるのかもしれぬ。学生ラグビーはアメフトは言うまでもなく、本場N・Zのラグビーとも根本的に何かが違う(ような気がする)。「マトリックス」のキアヌ・リーブスのカンフーに思わず失笑してしまうように、アジア人やメキシカンなどの「身体という地図のクレオール」はそう簡単には越境できないのだろう。

Friday, January 28, 2000 at 23:07:19 (JST)
BOOKOFF <imura@gc4.so-net.ne.jp>
500店舗に向かって邁進しているこの古本屋は、資本主義的というよりも社会主義的効率さにしたがって、大半の文庫本を100円で売り、単行本もまずは半額にされ、時が経つと次々と100円にされる。塾帰りの子供が無心に漫画を立ち読みしている横で、『人工自然論』でも『大河の一滴』でも何の躊躇もなく機械的に半額の値札が貼られてしまう。頑固そうなおやじが「これいい本なんだけど売れないんだよねえ〜」とかそんな悠長な会話が介在する間もなく次々と処理されてゆく。先日、とある街のとにかくでかいBOOKOFFに入ったら、すべての洋書が100円で売られていた。去年出た新刊で「3000円でも買っちゃうかも」というような僕好みの本も100円。関係ないけど、その近くの新刊本屋には「言い訳は聞きません。万引きはすぐに警察と学校(会社?)と家庭に連絡します」と大書してある。やれやれ。近くの昔ながらの古本屋に入ってなごんでいたら、浮浪者のような人がゆっくりと入ってきて「これいくらになる?」と風呂敷からごろっと出したので、こっそり覗いて見るとマスターも書いている号の「GS」が一番上に乗っていた。本の世界は不思議だ。

Friday, February 04, 2000 at 03:00:54 (JST)
The Other Syntax <imura@castaneda.the active side of infinity>
宇宙には本当に始まりがあるのか? / ビッグバンの理論は正しいのか? / これらは質問のように見えるが実はそうではない / 「始まりと発展と終わり」を事実の表現として必要とするようなシンタックスは、存在する唯一のシンタックスなのか? / これこそが本当の質問である / ほかにもシンタックスは数多く存在する / たとえば、強度の「多様性」を事実とするシンタックス / そこでは何も始まらず、何も終わらない / したがって、誕生は無垢で明快な出来事ではなく、強度の特殊なタイプである / 成熟もそうだし、死もそうだ / そのようなシンタックスを使う者なら、方程式に目を通しながらこう悟るだろう / 「宇宙にはけっして始まりもなければ終わりもない」/ そう確信をもって言えるほど、強度の「多様性」がそこから導かれる / しかしまた、絶え間ない強度の「波動」によって、宇宙は過ぎ去り、目の前を通り、そしてこれからも行き過ぎるということも知るだろう / そこでその男は、まさに自信をもってこう結論することになる / 宇宙、それ自身が強度の乗り物なのだ。人は終わりのない変化を旅するために、それに乗り込むことができる / 彼はすべてをそう結論づけるだろうが、そこでもさらに、彼はただ母国語のシンタックスを確認しているに過ぎない、ということにおそらく気づいていないのである

Saturday, February 12, 2000 at 13:06:09 (JST)
Okonkolo <tormenta@mbd.sphere.ne.jp>
Buena Vista Social Club(以下BVSC)を見てきました。 充分楽しめたので不満はそれほどないのですが、 いくつか気になる点がありました。 ・ハバナの映像がアバナ・ビエハに限定されている点。 ・忘れ去られていた音楽家達をライが「発見」した。というナレーションが入る点。 この映画、アメリカで公開された時の英語字幕はどう表現されていたのでしょう。 なお、キューバでは「何でこんなに受けているのだろう?」という反応が多かったです。 なにしろ、昔なつかしの曲を、なつかしい連中が演奏しているだけのことなのですから。 個人的にはBVSCより、AFRO CUBAN ALL STARSのCDのほうが、気に入っています。 とはいえ、地元で公開(名古屋は3月)されたら又見に行きます。 Blue Note Tokyoでのアマディート・ヴァルデスもBVSCでの彼も素晴らしい。 曲が最後まで聞けないのが少々不満ですが。 ところでキューバンアメリカンは、このBVSCという現象をどう思っているのだろう? 昨年の「ラテンアメリカ・スタディーズ」映画祭で上映された「ノーボディ・リスンド」というドキュメンタリー映画はどんな内容だったのでしょうか。 カストロ政権下の政治犯のインタビュー等の内容も含まれている映画のようですが。

Saturday, May 27, 2000 at 11:19:28 (JST)
imura toshiyoshi <imura@gc4.so-net.ne.jp>
3月の中旬にLAのカレン・テイ・ヤマシタさんを経由してブラジルに到着したマスターの消息は、「新潮」(5月号)などからいくらかうかがい知ることができるが、いただいたメールの文面からも熱気に包まれた暮らしを身近に実感することができる。しかしサンパウロからの一瞬の信号が、マスターの生まれ育った土地の近くにいる僕の身体や精神を駆り立てるというのも、考えてみれば不思議なことだ。そのせいか(?)最近になって、レヴィ・ストロースと永井荷風とシュタイナーを再び読み直したりしている。そして先日ついに(?)「ブラジル宣言」と「赤道地帯」を引っぱりだした僕は、赤い鳥居の続くリベルダージを歩いている自分の姿を、湘南の海に映る夕陽を見ながら夢想するのだった。

Sunday, June 11, 2000 at 17:08:52 (JST)
畑山王座奪取 <imura@gc4.so-net.ne.jp>
「一つのことをやり続ければ、誰でもその分野のプロになることができます」。中学校の先生は僕にそう言った。実に有難い教えだ。しかし当然のように僕の好奇心はその後も一所に立ち止まることがなかなかできず、僕は未だに相変わらず何のプロでもなければ専門家になることもできないでいる。一度に数十冊の本を不完全な理解とともに読み、その間も身体は落ち着かずどこかに行きたいとうずうずし、「死ぬまで同じ女性と暮らすことなど考えられない」などと愚かにも広言している。ある意味、大量に流動する言葉や旅や人は、僕を形作っているほとんどすべてだと言えるのだが、と同時に、言葉や旅や人という媒介によっては伝わらないものにも常に気付いていた。宗教でも芸術でも何でもよかった。霊能力のある人を探し出して話を聴いたりしたこともある。言葉で伝わることなどたかが知れているし、旅を通して人間が変わるなどというのは妄言だ。他人は自分ではないからいつでも最後には厄介である。言葉を越える言葉! 旅を越える旅! 人を越える人! しかし最近僕は、言葉や旅や人はいつだってそれら自身を越えているのではないのだろうか、と実感をもって考えるようになった。「悲しき熱帯」をゆっくりと読み返しているせいかも知れない。それとも、空海の「吽字義」のせいか? 本や旅や人との出会いが偶然ではなく、必然だと思えるようになってきたのも不思議だ。

Friday, June 23, 2000 at 09:38:15 (JST)
The Southwest <imura@gc4.so-net.ne.jp>
アメリカのサウスウエストを旅し続けている高橋純さんの『アメリカ南西部物語』(海象社)を、たまたま(?)立ち寄った名古屋の美術館で手にした。著者の高橋さんが本当に楽しんで書いていることがわかるこの本は、自分の身体がもっとも行きたがっている場所にしか行かないようにしている僕を、再び「聖地」に帰るようそそのかしている。この2年間くらいはサウスウエストから遠ざかっていたのだが、思えば20代に10数回は訪れたこの場所は、僕にとっても帰るべき特別の場所だったのだ。そのことを思い出した。あの頃の一年で読む本の冊数を、今は一週間で読むような頭でっかちの生活をしていても、ロック・アートを探し続けてひたすらステアリングを握り続けた日々から得た「言葉が介在しない豊潤な世界」は、僕のロゴスを今も支配し続けているようだ。高橋さんが撮った写真を傍らにおいておけば、時空間に閉じ込められているように見える文字を相手にしながらも、「ここではないどこか」へと一瞬にして行けるような気がするのはなぜだろう。

Tuesday, August 15, 2000 at 18:21:51 (JST)
私は松の木よりも日本人的である <imura@gc4.so-net.ne.jp>
「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」を、マスターの「世界」の文章を読むことで、やっとその気になって見てきました。アルバムは発売された当初に買って、今まで断続的に何度も聞いていたので、音が流れたらすぐに入り込むことができました。それにしても、半年以上ものあいだ見なかったのは、こちらの事情もありましたが、まず渋谷での混雑具合が伝わってきて「何か違うなあ」と思い始めたことです(錦糸町でやればこんなに混雑しなかったはずだ)。そうこうしている内に、いつの間にやら「キューバブーム」という浅薄な資本主義的洗脳にやられた人々の一群が増殖し、これで決定的に嫌になりました。あの映画を見たりキューバに行ったりすれば、誰にでも楽しいことが待っているとでも思っているのでしょうか。そんなことばかり言うので、 僕はなぜかよく右翼と間違われますが、僕のイメージしている「日本」は、同じ島国キューバの接続的なアイデンティティを夢想しながらのことです(かなり苦しいが)。複雑な歴史を通ってきたに違いない自らの多様性に富んだ血に気づくために、キューバのクレオール性と苦難の歴史がかいま見える「BVSC」を見ること・・・。さて、読んでから見るか、見てから読むか。

Wednesday, August 16, 2000 at 03:58:21 (JST)
Sertanista <cafemaster@cafecreole.net>
「松の木」では日本人の表象として苦しすぎるね。やはりPalma real(大王椰子)が無限に林立して風に轟音を立てるピナール・デル・リオあたりの丘陵の荘厳ともいえる風景のなかに、キューバ人の誇りも苦難もすべて込められている気がする。天女の羽衣がヒラヒラ揺れる程度の貧弱な松の木がぽつんと生える海岸では、ちょっと勝負にならない。ブラジルもまた椰子の国。ペルナンブーコの椰子の荒々しい原生には声を失った。サンパウロにいてさえ、街へ出れば毎日のように屋台のCoco Verdeのジュースを飲む。ココナッツ味のアイスクリームを食べる。ココの水で炊いた米を食べる・・・。ココ椰子からつくられるほとんどすべての産物は日常の身体へと吸収されるのです。マツタケ、松脂、松材、松の実にいたるまで、どれもなんだかやたらお高くとまっているのとは大違い。やはり勝負にならない。ところでこのあいだ、サンパウロ州の奥地、マットグロッソ州との州境にある日系人コミューン「新生農場」を訪ねたとき、ついにあの「ブラジル梅干し」アゼジーニャの原料である植物の花を見た。予想通りそれはハイビスカスの一種だったが、紅色の萼(がく)がきわめて肉厚で、これを塩漬けにするとあのまさに梅干しと錯覚する柔らかい食感が得られるのだろう。それにしても、いったい誰が気づいたのだろうか。梅がない環境で、日本人がウメボシを再創造しようとする情熱と直感。やはり、すくなくとも松の木よりはウメボシの方が日本人的であることはまちがいありません。

Thursday, August 17, 2000 at 22:57:38 (JST)
S.Akatsuka <tormenta@mbd.sphere.ne.jp>
今日、NHK総合を観ていたらキューバのSanteriaの映像を流していました。 確認できた部分では、オグンのパート(アバニレオーってやつです。)がありました。 昨年キューバに着いたその日にHabana Vieja,1日置いてMarianaoの民家で Santeriaを観た時のことを懐かしく思いだしました。もっとも当時は、あまりの凄まじさにあてられて、翌日は抜け殻のようになってしまいましたが。 キューバのカルナバルでのコンパルサ(コンガ)もきっと、凄いんでしょうね。 いつか、観にいきたいとおもいます。

Thursday, September 14, 2000 at 21:22:53 (JST)
Fukiko Ogura <umoguraf@hotmail.com>
私個人には松の木も梅干しも日本(人)の表象とは思えないです。韓国人=キムチ アルゼンチン=タンゴという図式に反対する人も多いのではないでしょうか。私の場合、日本をrepresentするのはあえていうなら日本企業の慣習かなという気がします。少なくなったとは言え、ラジオ体操、社員旅行の類、まだまだ存在しますよね。私が勤めているのは外資系なのに、社員旅行が来週あるのでうんざりです。こういう時、日本の社会で生きていくのはなんて疲れるのだろうと考えてしまいます。

Thursday, September 28, 2000 at 21:19:38 (JST)
canalina <tanu@sky.roman.holiday>
外資で社員旅行ですか。トヨタイズム学ぶならココから実践しなきゃ駄目よ、ということかしらん。小生もバイト時代、『お前も連れてってやるぞ!嬉しいだろう、ガハハ!』と一方的にやられてしまった。 行けば行ったで適当に楽しくもあり、こうして人は去勢されていくのだろうか、なぞと遠い空を見つめたり…。去勢といえば、子どもの頃観た『マイ・フェア・レディ』は 白人が白人を去勢する、という内容が衝撃的でした。待ってればだれかが良くしてくれるシンデレラ・ストーリー≒去勢したい/されたい願望は人類共通のもの?この2枚看板を抱えた『マイ・フェア・レディ』のリメイクは山のように産出され続けているわけですね。それにしても去勢前のヘプバーンは威勢良くって魅力的。あのべらんめえ調英語(イギリスの下町のコックニー訛りというそうです)は必見!勝手なストーリー展開ですりかえられても困るわ、ぷん。

Sunday, October 15, 2000 at 21:39:18 (JST)
english is spoken here <juliana@imura.alcaraz.c/s>
ブラジルからのマスターとアメリカからのココ・フスコ(キューバ系アメリカ人パフォーマンス・アーティスト)を出迎えるために、成田空港へと半月の間に2回行くことができた。騒々しい黒人ミュージシャンの集団に続いて、半年間分のサンパウロの空気を持ち込んでくれたマスターの家族と、きれいに化粧を施した国際女優(?)工藤夕貴の後に、ニューヨークのあの独特の空気を運んでくれたココのおかげで、僕は居ながらにして海外のどこかに少しだけ滞在できたような気持ちになれた。しかもココは、明治大学の近くで、コヨーテさんをはじめとした「ブラジル宣言」の仲間を、10数年ぶりに同じ場所に引き寄せることに成功したのだった。その後、いつも笑顔を絶やさずに東京中を精力的に動き回った彼女は、最後の夜となった札幌の狸小路の「無国籍料理屋」で、英語とスペイン語と少しの日本語が飛び交う中で僕にそっとこう耳打ちして聞いた。「どうして日本人はみんな英語が話せて、しかもスペイン語を話せる人もたくさんいるの?」。僕は軽く笑ってから少し考えて「マスターもマスターの周りにいる人も、自分が日本人だとは思ってないんじゃないかな」と咄嗟に答えたはずだが、その時すでにココは、隣のイタリア人に話しかけたマスターのキューバ訛りのスペイン語に耳を傾けていたようだった。

Saturday, October 21, 2000 at 11:33:34 (JST)
Takao Asano <brazil_maru@hotmail.com>
2000年10月14日、サンパウロ市モンチ・アズーゥ。ファべーラ(貧民街)などとも呼ばれる簡素な家並が軒を連ねる丘陵の街。この街の協会の小さな劇場で開催された“WADZO”(シャマンチ族の言葉でみずからを発見するといった意味)という民族演劇プロジェクトに映像・編集スタッフとして参加した。これはモンチ・アズーゥに住む12歳から60歳までの男女が、社会学者の協力を受け、ブラジルのインディオの儀礼と伝説に関する調査・研究を行い、その成果をもとにかれら自身の儀礼的パフォーマンスを演じようというものだ。さまざまに混血するかれらも、いくつかの研究書を読みすすめるうちに、祖母や祖父や親戚がかつて語ってくれた数々の物語を誇り高いものとして再発見する。かれらの唯一の記憶と、研究からえた独自の解釈を結びつけ、自分たち自身の「通過儀礼」をひとつの舞台作品として制作したのだ。演劇の内容は、誕生から死に至るまでの通過儀礼や創世神話、異人殺しの伝説などを歌い、語り、踊り、演じるというもの。上演前のかれらの沈黙と静寂、演じる側と観客との一体感もつよく印象に残っているが、かれらの禁欲的な表情と緊張感ある肉体から、ときおり官能的な何かが顔をのぞかせる瞬間は、ぞっとするほど美しかった。ある儀礼の場面では、ひとりの女の子が思わずサンバのようなダンスを始めてしまったのも、素晴らしかった。インディオの精神が、混血の肉体を通して再創造される。上演後、充実した表情の彼や彼女らに、ひかえめに「Parabe’ns」と声をかけながら、「ブラジル発見」から500年の後に、ぼくはついにまったく新しい「ブラジル」に出会ったのだと確信した。

Wednesday, November 01, 2000 at 14:18:57 (JST)
コロンブスの犬 <imura@gc4.so-net.ne.jp>
ブラジルの何が未知の身ぶりや思考を可視化させるのだろう。混血性? 混血とは純血の対比語でしかない。混血性の称揚は純潔性のそれへと転化するおそれを孕んでいる。だから国家の名前だけで人間を単純に序列化することはできない。それではいったい何があるトポスを特権化させるのか。ニーチェは「最も繊細な思想にも衝動のかぎ編み細工が対応している」と言ったが、その衝動を駆動しているのは「言葉」だという。つまりこういうことだ。言葉の単純さは、衝動を加速させ効率性を志向し、時間が醸成するイニシエーションからエロティシズムを剥ぎ取り、偏狭な思想を生み出す可能性がある、ということ。したがって、溶液のような状態にある「言葉」を自在に旅する過程においてはじめて、人は蠱惑的なブラジルやメキシコを自分の中に再創造することができる。言葉の解放は身体を自由にする第一の条件なのだ。しかし僕自身は長い間、手持ちの「言葉」という道具を使って、己の身体を馴致し精神の赴くがままに支配する方法について思いを巡らしていた。自らの宿痾がそうさせたのか、それとも意志と宿命が判然としないいくつもの人生を親族の中に見たせいか。数年前クスコで「君の身体の内のインディオは君にとってマニピュレートできるものなのか」と何人かに思わず尋ねたのは理由なきことではなかった。地元のミュージシャンは、わかりやすいスペイン語でこんなふうに答えてくれたと記憶している。「それは言葉の遊びじゃないかな。ぼくはぼくの中のインディオというものをなんとなく思い浮かべることはできるけど、ぼくはもうあのインディオ自身ではないんだからね」。そして「No hay tiempo como el presente.」と静かに言って微笑んだのだった。そういえばココも、Culture ClashのメンバーであるMontoyaとその偉大な父についての面倒な質問に答えてくれたあとに、僕のボールペンを手にとりノートの端にこう書き記した。「Live in the present!」。言葉の旅が、思考や音楽やパフォーマンスの旅を促し「いま」を豊かにしている。この時期に「未知の種子を求める認識の小旅行をはじめるためには、理解不能な言語へといきなりダイブすることが必要だ」と10年以上も前に書きつけていた人に会えたのは、僕にとっては実に幸せなことだった。

Wednesday, November 22, 2000 at 01:44:28 (JST)
Ryuta Imafuku <cafemaster@cafecreole.net>
政争から一夜明けて、ある政治学者の友人からメールが来た。それにたいする返事をここに転載しよう。一夜の、久しぶりに熱っぽく浮遊した自らの頭脳の記録として・・・。

昨夜はなんだか興奮して眠れませんでしたね。最初は確かにひとなみの失望感がありましたが、いろいろ考えるうちに、加藤紘一があそこまで「完敗」する姿からは、何か重大な教訓を引きだせるのではないか、と思い至りました。それほど完膚無きまでの負けですからね。意図的であるかどうかは別として、加藤・山崎は、もっとも過酷で無残な負けを選択した(せざるをえなかった)。そこに、自民党という組織のすべてのからくりがあるようにも思います。メディアも評論家も街の声も、おそらく「自民党内部抗争、失望、茶番」で一色になるだろうと予想し、元来のひねくれ者である私は、ここはひとつ加藤紘一を弁護しはげまそうと考えて、眠れぬ頭で氏のホームページに以下の手紙を送りました。御笑覧まで。

**********

加藤紘一様

皆が一斉に加藤さんに失望を表明しています。結局保身、あるいは派閥抗争に過ぎなかった、と切って捨てています。国民とともに政治を変えると言われていた加藤さんへの期待が大きかった分、失望も大きいのでしょう。ですが、手のひらを返すようにして、加藤さんの今回の敗北を自民党の内部抗争に過ぎないと矮小化する無責任な結論だけは避けねばなりません。むしろ自民党の、選挙にかかわる恫喝と懐柔とを錯綜させて畳みかける手法の構造的な力学に、やはり最後には屈せざるをえなかった加藤さんや山崎さんの苦渋と痛みを、われわれも感じ取りたいと思う。それが庶民感覚からかけ離れた永田町の論理なのだと嘆息をついて傍観者の場所に安住するのではなく、むしろその不条理な論理の国政の場における席捲を自らの日常の社会意識に引きつけて解読し、その論理の遍在を自己の問題として問いなおすぐらいのことはしたい。加藤さんの敗北感は、私自身の敗北感に直接つながっているからです。もちろんそれは、むなしさだけの残る敗北感にはちがいありませんし、正面から自民党的構造に挑んだ今回の叛乱を正当化する根拠にはならないでしょう。ですが、党という組織と、自身のグループのなかの同志を抱えた人間であるかぎり、自民党的構造に正面から挑むことは、自分自身の政党人としての存在そのものに挑むことでもあるという事実を、加藤さんはわかっておられたと私は信じたい。だからこそ今回の苦渋にみちた敗北は、自民党主流派にたいする敗北などではまったくなく、むしろ私たちの社会的自己を取り巻く構造に対する挑戦がいまだはねつけられているある「壁」の存在を、私たちにはっきりと露呈させてくれたという意味で、発見をともなった敗北であると考えたい。この敗北が、ひるがえって第二、第三の叛乱への助走となる可能性を、私は加藤さんへの期待とともにいまだ信じたく思います。茶番だと切り捨てるマスメディアも評論家も「世論」なるものも、最終的に自分自身に突き刺さる痛みとともに加藤さんの敗北の涙をしっかりと己が批判精神にむけて刻み込むことができないからこそ、芝居の拙劣さだけを他人事のようにあげつらうことができるのです。加藤さんが、最後の最後で同志に自重を求める悲壮な声を聞きながら、みずからは賛成票を投じに議場へ向かうと言われたこと、それを実行されることをどこかで願いつつも、すでにそのような個人的な筋の通し方では回復できないなにかに、加藤さんが直面されていることもまた事実であると認めざるをえない。国家の「統治」をめぐる微細な権力構造は、国民一人一人の感情と身体におよぼされているのとおなじ浸透力をもって、また政治家の身体と感情をも蝕んでいるからです。少なくとも、加藤さん、山崎さんは、それを誰よりも鋭く厳しく感じ取ったにちがいないということ、これを唯一の、しかし今回の決定的な収穫として、新たなる、左手での(使い慣れた右手の論理を捨てた)一撃が生まれることを、静かに、しかし熱く期待します。今福龍太

**********

論理の混乱はあるかもしれませんが、あえて政治家の因習的な体質への想像力を、われわれ一人一人が引き受けてみるということを私はいいたかったのでしょうか。いまの日本に、貴兄のいう悪しきなまけものポピュリズムの台頭の兆しを私も強く感じます。さらにいえば、懐柔される民衆自体が、政治参加の責任を果たさずに権利だけを要求する姿が醜悪に映ります。「国民」なるものの、彼ら自身の日常へのあぐらのかきかたは、尋常ではありません。政治過程に対する徹底した傍観をつらぬきながら、納税者エゴに立った要求的態度には辟易します。どうするべきか、すぐに道は見えませんが、政治を糾弾する前に、日常の私たちの公共的な身ぶりを点検することが、絶対に必要と思います。あまりにもあたりまえの人の道ですが。ではまた。


現在のログへ戻る