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antipodes


Saturday, September 14, 2002 at 10:06:08 (JST)
阪口浩一
 悟りという状態に止まる限りそこは空っぽの器。そこからの苦し紛れの飛翔、イマージ。器は広がり地球全体を覆うその地点ですでに身体から遊離している。ただそこに居る。それは即物の現実。だが、しかし、人は石ではない、という当たり前の現実に目覚める。ガキの頃の遊び。目を閉じて背を向け、あけて振り返るかくれんぼの歌。だるまさんが転んだ。ひとは止まることが生きている限りできない。石あるき意味もとめる。意味無きところに人の夢も、可能性も育たない。

Saturday, September 14, 2002 at 09:55:10 (JST)
阪口浩一
 アマチュア無線という今の時代にあっては、古ぼけたメディアがある。地層とお同じく様々な層が重なり合う電波層。その中のある層は太陽黒点の活発さと夏の気候が重なり合うことによって、短波から超短波へと向かう周波数の電波を遠くへ飛ばす働きをする。金銭的余裕がなく、その知識を専門誌で膨らますしかなかった少年が、10ワットとというろうそく程度の電力で日本からブラジルまでの世界最長送受信距離更新の記事を読んだのは、いまから何年前のことになるだろうか?

Saturday, September 07, 2002 at 13:42:51 (JST)
muck+muck+ <office@antipodes.tv>
normal is dangerous...

Saturday, August 03, 2002 at 10:29:31 (JST)
石谷敬太 <Keita33678@aol.com>
ケニア・スーダン国境付近の砂漠の中に地図にはのっていない難民キャンプがあります。UNHCRによって東アフリカで最大級のキャンプの一つとして、12年前に周辺9カ国の紛争から逃れてきた8万人を隔離して収容・管理するために地下水を利用して設立されました。収容された難民と現地国連機関との関係は緊張したものであり、現在でも難民の地下組織が国連職員・ケニア警察による腐敗、殺人、誘拐容疑を監視しようとしていますが、隔離されているため、内部ではキャンプはバーチャル刑務所と表現されます。 6年前、難民として6年間生活したエチオピア人が書いた一つの詩があるのですが、これがUNHCRのRefugeeという冊子の中で悲惨ともいえる難民の姿の写真と一緒に「難民の声」として採用され、全世界に伝えられることになったのです。当時ちょうどカンボジアとタイを行き来していた自分はこの詩に出会い、その中に巧みにあるスペースが断固として開かれたまま守りきられていることに気がつきました。その後メキシコでもまたそのスペースの存在を確信した自分は、キャンプに行く機会を見つけ、筆者を探しました。彼の友人の話では彼は「祖国に帰ったが祖国にはいない」ということでした。どうしたのだろうかずっと考えていたのですが、彼は時がきてエリトリア開放戦線に戻ったということが分かりました。 植民地からの独立時に引かれた国境線が残した新たな支配のシステムはいたるところにありますが、この詩にはキャンプからキャンプへ「難民」として輸送されつつも、その支配的権力を利用しながら人生の目的を果たす一人の姿が表されています。そのメッセージが世界の反対側にいる自分に国連を通して伝わったという事実だけをここに記したいと思いました。  In front of my tilting cage, that little hut of plastics, so not to suffer from loneliness, I traveled far and wide, all in my thought. I went back to the remote past, our home and its vicinities, grandma and her stories of my great-grandfather, those mighty warriors, from whom I inherited intolerance and pride. I traveled far and wide, all in my thought. I went far into the future, into my dreams and high hopes. to see what was there, where this changeless passage of time, where this endless kick of my heels, could possibly one day lead. I traveled far and wide, all in my thought. I have also traveled to eternity, to see my soul at the end of this mess. I traveled far and wide, all in my thought. It is woe to think of a day in the realm of thought, dominated By the affluent and the politician. It is woe to think of it. For on that day, There will be no place to take refuge. No journey will there be in one’s own thought. Neither police, nor boundary, nor citizenship and poverty, nor politics and creed, prevented my good journey. I traveled far and wide, all in my thought.

Saturday, April 27, 2002 at 16:04:57 (JST)
DANCE
奄美自由大学からの発信よろしく。「踊り」を表現の中心に据えた中村くんが、奄美で吉増さんらと出会うことによって、どのような成果を得ることになるのかぼくも楽しみにしています。そこで得たものを言葉にするのは難しいかもしれないけれども、ぼくのなかではたとえば、土方巽のあのなんともいえない感覚的な言葉が、中村くんの身体から生まれたら楽しいな、などと勝手に考えています。

Saturday, April 27, 2002 at 01:17:11 (JST)
奄美自由大学に向けて <中村達哉>
今日、マスターが喫茶店の紙をとって、ボールペンで奄美群島を出現させていく時の「素早さ」とイメージの「確かさ」に驚きながら、僕は同時に僕なりの「放擲する愛」について考えていた。僕は今、”踊り”という手段を通して、沖縄の島々で体験した断崖絶壁を、様々な次元で身体に写しとろうと試みているところだった。さらに全てをそこに投げ出すことによって、今度は自分の身体に現れ出てくるものを見定めたいと考えていた。これからの「奄美自由大学」に向けての、一つの実践になるようにして。                                         

Saturday, April 20, 2002 at 18:06:38 (JST)
イムラ <imura@gc4.so-net.ne.jp>
僕が曲がりなりにも論文らしい論文を書いた最初は「島尾敏雄」についてだった。まだ数年前の話だ。そのつたない論文をなんとか書き上げることによって僕は、「明治時代の日本(泉鏡花や夏目漱石など)」や「アメリカのサウスウエスト(チカーノやインディアンなど)」という遠い世界へと踏み出すための脚力を、実感として確認することができたと言える。もちろん奄美大島だって近くはない。崎山多美の生まれた西表島はかなり遠い。沖縄本島にしか赴いたことがなかった当時の僕にとって、それらはいわば想像上の島々でしかなかったのかもしれない。しかしそれゆえに、島尾が島々という存在のあり方を地図上の縮尺を越えてプエルトリコなどに応用していった思考の軌跡を、純粋にその思考というレベルにおいて享受できたのではないかといまは考えている。島尾敏雄について考えていたあの幸福な数カ月のあいだ、僕は確かに、岐阜県に近い愛知県の片田舎から奄美大島や加計呂麻島へと旅をしていたのだ。そういう旅(言葉やモノが媒介する「ここではない場所」への旅)の仕方を島々から学べたのは、僕にとってとても幸せなことだった。/『江戸の見世物』最高!

Friday, April 19, 2002 at 12:04:12 (JST)
川添裕(古谷祐司)
「退屈なアメリカ」を掲示板システムもいやがって、ログが切れてしまったようです。というのは戯れ言で、どうもログ修正で別途書き換えたり、ログが大きくなると不具合が生じるようです。そんなわけで、すいませんがログを分割しました。

「奄美自由大学」は案内を見れば見るほど魅力的で、総合学習ならぬ「総合 身体 = 精神 解放運動」の趣を呈していますが、5月17日の夜に講演を引き受けてしまっていて、身動きができません。横浜の近所の河原ではるか奄美を想いつつ、何かぼくなりの解放実践をしようと想います。