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以下がantipodesの最近(2002年)の過去ログです。

 


Monday, April 15, 2002 at 13:30:44 (JST)
motels
アメリカを退屈な場所にしてしまったものは何なんでしょうねえ。あちこちのモーテルに泊まっていると、さして変化のない「部屋の印象」よりも、かなり変化のある「受付の人の印象」の方で記憶されることに気づきました。子どもを抱きながら現れる白人の肝っ玉お母ちゃんから、ヨーロッパのどこからかの移民であろう「仕事仕事!」といった感じの不機嫌そうなおばはん、髪を短く刈り上げて落ち着きがなくおしゃべりなチカーノの兄ちゃん、だいたいは背が高くて笑顔を見せないインド人のおっさん、夫婦で経営していてひたすら愛想のいい中国系などなど。なかなか楽しい。不思議なのは国境警察にあれだけ「雇われていた」黒人には一回も出会わなかったことです。韓国人にも会わなかったような。僕の個人的な感想ですけれども、海外で韓国人に会うとそうは感じないのに、なぜか中国人に会うと楽しくなってしまいます。ラテンアメリカやボルネオの奥地で中国人に出会って、思わずなごんでしまった経験が僕には何度かあります。だから久しぶりの海外旅行のために、僕は大韓航空を選ばず、メキシコよりも数多く訪れているマレーシアの航空会社にしました。そして、値段はあまり変わらなかったけれどもヴァリグはまだ早いかなあと思いました。「ブラジルの至福な空気」がまだこの土地の先にあるのだと期待を持ちながら、僕は「国境の南」を少しずつ南下していきたいと思っています。マスターにどれだけあおられようとも・・というのは冗談ですが。

Sunday, April 14, 2002 at 0:34:33 (JST)
cafemaster <cafemaster@cafecreole.net>
そう、私もまた、アメリカを今回ほど退屈だと思ったことはありませんでした。サウスウェストならば少し違った印象だったかもしれませんが、私がブラジル行きの前に立ち寄ったのはカリフォルニアのベイエリア。IT産業と大学の集積地帯で、いまのアメリカの閉鎖性が如実に反映される場所です。とくにサンノゼの国際空港での入国手続きは最悪の印象。サンタクルーズのラジカルであるべき知識人たちも、なぜか911の話題には当惑を隠せず、自分の狭い専門領域に退避しようとしている感じです。本屋に入っても心を揺さぶられる出版が少ない。中華系以外のレストランの出す料理はひたすらまずい・・・。おまけに、アメリカのどこかで私はインフルエンザを拾ってしまい、これがブラジル到着翌日に突如出現。39.5度という、大人になってからは経験したこともない高熱と体中の関節・筋肉の痛みに一週間苦しみました。リオでは蚊が媒介するデング熱が大流行していたので、私はこのいやなインフルエンザをブッシュ熱と名づけ、一週間かけてこの悪夢を追い払い、ブラジルの至福の空気に陶酔しつつ浸ったのでした。ブラジルは、こちらから動きを起こせば、それに応じて周囲が思いもかけない反応をしてくる、スリリングで謎に満ちた土地です。あいかわらず、いや、ますます。

Saturday, April 13, 2002 at 21:03:30 (JST)
vato
マスター素早いお返事ありがとうございます。高揚感に欠けるこのどんよりとした島国から4年以上も出ることができなかった僕は、今回はまあ、アメリカスを自分のなかにもう一度引き寄せることだけを目的として出発しました。結果的には、ステアリングを握ってすぐにあの頃の自分を取り戻すことができたけれども、ただアメリカはあまりにも予定調和で日本に近い! たとえば、「メッカ」の方角と距離を刻々とスクリーンに映し出すマレーシア航空の飛行機よりもはるかに近い。ということで次回は、「奄美自由大学」の講座「チカーノ文化論(vatoになるために)」の卒業試験、「米墨国境を不法入国すること」を実行してきます。あの色彩感覚のないダサイ国境警察の車(あと50年くらいしてメキシコ側の国境警察が活躍するようになれば、彼らの車のボンネットにはケツァルコアトルくらい描かれているはずだ)から逃れて、無事にΑを取れるでしょうか。中村君久しぶりです。また盛り上げていきましょう!

Saturday, April 13, 2002 at 00:32:03 (JST)
カンディンスキー
 近代美術館にて「カンディンスキー展」を観た。抽象的で難解なイメージの強かった画家であったが、1900年から1920年頃までの作品約70点を年代を順に追って観ると、その作品の変化の過程がよく分かった。始めは風景や町並みといった具象的なモチーフが描かれていたものの、徐々にそれを構成している”面”や”色彩”、”輪郭”などといった要素がその本来ある場所を離れ、飛散して、様々なパターンをなして衝突を始める。そこには「ノアの大洪水」「最後の審判」といった宗教的なモチーフが描かれているというが、すでにそれぞれの具体的な意味は失われ、その光景は正面から観たものなのか、上から俯瞰したものなのかも分からない。さらにそれぞれの作品にある決まった構成やパターンを見い出すのは難しく、淡い色彩やリズムは宙に浮いたまま混沌としていた、、、。「抽象」という形式を遂に発見することによって、この画家が、あくまでも個別でしかない知覚をいかにより多様な次元で統合しようと格闘したかに気付かされた。と同時に、浮遊感がありながらもどこか重厚な印象を残すこれらの作品群に、第一次大戦をはさんでミュンヘンとモスクワという二つの都市を、現実に、そしておそらく想像の中でも往復していたであろう画家の”世界”を観た思いがする。

Thursday, April 11, 2002 at 16:10:34 (JST)
cafemaster <cafemaster@cafecreole.net>
Olale, vato, por fin volviste a aparecer aqui! しばらく音沙汰がないのでちょっと心配していたら、サウスウェストを放浪していたというわけですね。もう日本ですか? こちらもブラジルから帰って3週間。春の陽光の下でも、なにか空虚な日々。サウダージだけが強く・・・。5月17日〜19日の「奄美自由大学」だけが、いまのところ毎日をやり過ごす希望です。

Thursday, April 11, 2002 at 15:45:42 (JST)
Algodones
高低差の激しいアリゾナを北から南へと縦断したあと(気圧の変化で耳が痛くなるほど)、今まで訪れたことのなかったメキシコとの国境地帯をいくつか見てきた。Calexicoの東側 Algodonesという小さなポイントでは、高台から何人かの少年たちがずっと向こう側の国を見ていたが、僕が帰ろうとしたちょうどそのときに、そのうちの一人が金網を越えてアメリカへと走って越境した。彼はその後どうなったのだろう。国境警察は僕に対しても―おそらく白人ではないという理由で―うんざりするくらいあちらこちらで尋問してきた。しかもその多くはなぜか黒人だった。しかし、LAXのハーツで何度も「メキシコ側に渡ってはいけない」と言われていたのに、思わず契約違反を犯してしまったのは、僕のせいだけではないと思う。アメリカからメキシコへと越えるのはあっけないくらい簡単だからだ。多くの場合、目立った目印は何もないと言っていい。反対方向のベクトルの面倒くささについて考えると、急いでいるときなどは「ああ、メキシコに入ってしまった!」と後悔することになる。メキシコには、今度来たときにゆっくりと滞在することにしよう。最後にマスター、あの地図はもう現役引退させることにします。ぼろぼろになってパズルのようになってしまいました。

Friday, March 01, 2002 at 10:52:26 (JST)
ナワール
「あの時間」や「あの空間」を自由に取り出すことができるなら、あえて「ここではない場所」を求める必要もない。メキシコに行く必要もないしブラジルに行く必要もない。だから、僕はここでメキシコやサウスウエストについて語っているわけではなく、僕自身の趣味の偏向について語っているに過ぎない。僕のサウスウエストは誰とでも共有できるわけではない。Uさんはいつも「日本なんてなくったって俺は全然構わない」と吐き捨てるように言っていたけれども、それと同じように僕は「メキシコなんてなくたって全然構わない」と言える。ところで僕が住んでいる街に、ワールドカップに際してナイジェリアのチームが来ることになりました。こういう意外な出会いに興奮します。富士吉田ではなく平塚を選んだ理由として代表者は、かつてナカ〜タを育て、そして海がある街だからと言ってました。偶然にもこの7月から、何十年かぶりに海水浴場として平塚海岸は復活します。どこにいてもいろいろと楽しいものです。島田裕巳『カルロス・カスタネダ』は、カスタネダを知らない世代にとっての導入としてはいいかもしれない。ただ構成が地味で面白みに欠け、著者の真面目さがひしひしと伝わってくるところが重い。

Wednesday, February 27, 2002 at 01:31:29 (JST)
時間なき時間
放棄する事で生き続ける愛の可能性・・・。憧れ、切望し、夢見て、しかしついには手に入れることができなかったもの。あるいは「そうではあり得なかったもの」を、時の経過を通して「こうありたかった」とあまりに強く願ったために、「あり得ない」はずの空間を現出させてしまうこと。それは現実から離れた、幻想の世界なのかも知れない。しかし、同時に、そこには「愛」としか言いようのない時の流れがあった。例えば、ブラジルのポップシンガー、カエターノ・ヴェローゾの、ライヴ映像。ディエゴ・リべラの作品を背景にして、ラテン・アメリカを美しく歌った『Un Caballero de Fina Estampa』の醸し出す”時”のことを、どのように形容したらいいのだろう。メキシコを旅した時も、そんな時間/空間を、少しだけ体験する幸せを得た。ある時オアハカで、映像を撮っているという人に会った。普段はロスアンゼルスに住んでいるというその女性は、もともとオアハカ近郊に生まれ、今はオアハカとロスを往復してドキュメンタリーを撮っていると言っていた。そしてたまたま彼女がロスに帰る日と、僕がトランジットでロスに一泊する日が重なって、彼女の家に遊びに行くことになったのだ。家には15歳の弟と18歳の妹がいて、僕は彼らと夕食を共にしながら、学校での話や初めて車を運転した時の話などを聞いていた。彼らの笑い声と、親しいものだけに対する接し方によって、その場はこれ以上ない程の親密な空気に充たされていた。アメリカという未知の土地で生活するメキシコの小さな家族。そこにあったのは、ラテン・アメリカそのもののような、あの”時間”だったような気がする。

Thursday, February 21, 2002 at 01:22:19 (JST)
cafemaster <cafemaster@cafecreole.net>
『広告』最新号での試みにたいしての素早い反応、ありがとう。これまでほぼ一年間、「ブラジルプロジェクト」の推進装置のひとつとして間言語詩を書き続けてきたわけですが、今回、『広告』誌上でのプロジェクトの発展的解散にあたって、具象詩という方法に未来の方向性のひとつを託してみたのです。刺戟を感じてくれれば、なによりです。さて、私はすでにブラジルへの旅の途上。昨日はサンフランシスコ、今日はサンタクルーズ。Karenと1年半ぶりの再会。ここのユニークな書店Literary GuillotineをやっているSean Foxと会い、彼の構想するPacific Rim Culture シリーズでの本の刊行について相談しました。明日はもうサンパウロの夏です。(imura+nakamura両名のMexican Journal競作は面白いので、ずっとつづけて下さい)

Wednesday, February 20, 2002 at 23:27:23 (JST)
revelation
『広告』最新号に掲載されている「ブラジルプロジェクト」は、信頼に値する言語を再び世界へと投げ返す多彩な作業を通して、マスターが現時点において到達したアートとしての前線を浮かび上がらせる結果となっている。しかも、言語を微分化し異化する過程からうまれる具象詩や変奏の思想は、とてつもなく深遠な射程を含みもっていることがわかる。「放擲することで生き続ける愛の可能性」を伝道する「愛の使者」は、これからどのような啓示を私たちに与えてくれるのだろうか?

Tuesday, February 19, 2002 at 12:09:49 (JST)
モアブ
ソルトレイクには行ったことがない。ただ、アーチズ国立公園でレインジャーをしていたアビーが愛した「モアブ」(ユタ州の南にある街)に向けて、グランドキャニオンを出発してモニュメントバレーの近くまでなんとかたどりついたことがある。いまくらいの雪深い時期のことで、しかも何の装備もない乗用車だったから、途中で断念せざるをえなかったのだ。ぼくは、どこが車線なのかもうわからなくなってしまった道をあきらめ、やがてゆっくりと停車させ、激しく雪の舞うなか、ユタ州の土をそのとき初めて踏んだ。外に出てみると風の音さえせず、ぼくが向かおうとしている道はやはり雪で閉ざされていた。あれから一度もユタ州の土を踏んでいない。オリンピックは、4年間努力を傾けるのに値するとはとても思われない競技がたくさんあるにもかかわらず、記録やメダルという「夢」が選手たちの何かを突き動かしている。他人の夢を追うことが彼らの夢なのだろう。主観的でしかあり得ない人それぞれの経験を「夢」が結びつけているようだ。ぼくの「夢」はなんだろう・・。とりあえず、「モアブ」に行くことにしようか。

Saturday, February 16, 2002 at 02:03:42 (JST)
断層
 「夢」が、どこに向かおうとしているのかに気付くまで、そう時間はかからなかったように思う。クリスマス前のこと。アラメダ公園の脇をはしるフアレス通りが封鎖され、沿道には大勢の人が群がっていた。家族連れや恋人同士が、一様に期待で膨れあがり、あたりは熱気に包まれていた。粋なワタアメ屋のおじさんはピンク色のワタアメを空に飛ばし、それを目で追っていくうちに、白い雲が、徐々に夕日で赤く染まっていくのが見えた。ラテン・アメリカタワーの下で、皆がずっと待っていた夢が来る。そんな興奮の中で、なにが起こるのか分からないまま2時間が過ぎた。そして、、、大歓声の中から出てきたのは、コカ・コーラのパレードだった。”クリスマス、コカ・コーラ”と歌いながら、大音響で通り過ぎたのだった。そもそも「純粋なメキシコ」などは望むべくもない以上、代わりにそこにあったのは、生活の中に微妙に張りめぐらされて織り込まれた、もう一つの”国境線”だったのかもしれない。それが日々の営みに、たとえば荒野に出現した大きな看板といった形で、突然の断層や亀裂を入れていたようにも、今では思う。   

Saturday, February 16, 2002 at 02:02:00 (JST)
断層
 「夢」が、どこに向かおうとしているのかに気付くまで、そう時間はかからなかったように思う。クリスマス前のこと。アラメダ公園の脇をはしるフアレス通りが封鎖され、沿道には大勢の人が群がっていた。家族連れや恋人同士が、一様に期待で膨れあがり、あたりは熱気に包まれていた。粋なワタアメ屋のおじさんはピンク色のワタアメを空に飛ばし、それを目で追っていくうちに、白い雲が、徐々に夕日で赤く染まっていくのが見えた。ラテン・アメリカタワーの下で、皆がずっと待っていた夢が来る。そんな興奮の中で、なにが起こるのか分からないまま2時間が過ぎた。そして、、、大歓声の中から出てきたのは、コカ・コーラのパレードだった。”クリスマス、コカ・コーラ”と歌いながら、大音響で通り過ぎたのだった。そもそも「純粋なメキシコ」などは望むべくもない以上、代わりにそこにあったのは、生活の中に微妙に張りめぐらされて織り込まれた、もう一つの”国境線”だったのかもしれない。それが日々の営みに、たとえば荒野に出現した大きな看板といった形で、突然の断層や亀裂を入れていたようにも、今では思う。   

Monday, February 11, 2002 at 18:48:37 (JST)
ソダーバーグ
メキシコの「空気の違い」を「光の違い」として捉えたのは『トラフィック』(去年アカデミー賞4部門を受賞)だった。冒頭いきなりティファナの荒野から始まるこの麻薬撲滅キャンペーン映画は、エルパソとフアレスの国境がなんどか映されるなど、米墨国境ファンなら見逃せないシーンが頻出する。主人公のベニチオ・デル・トロ(プエルトリコ生まれ)は、もちろん英語とスペイン語をあやつる。つけくわえれば、メキシコ・シティも重要な舞台のひとつとして、キャサリン・ゼタ=ジョーンズとともに映される。「ドラッグの供給地としてのメキシコ」という映画の位置づけは陳腐なものだが、僕にはそれよりも、黒人と白人を必要以上に対立させて描いている方が気になった。僕たちはいまトラフィックな国境地帯で、どんな夢を見ることができるのだろうか。今から10年前にエルパソの税関で並んでいたら、走って通り過ぎようとした少年が屈強な白人の警官に捕まって、奥の部屋へと連れていかれたのを目撃したことがある。あの少年はアメリカへと走り抜けることで、どんな夢が実現すると想像していたのだろう。

Friday, February 08, 2002 at 02:05:42 (JST)
夢を見る力
「イタリア映画=フェリーニ」というのが、今の僕の連想するところ。教会で、なかば狂乱状態になって祈る人達の映像(「カビリアの夜」)や、ジュリエッタ・マシーナ演ずるジェルソミーナの、綱渡りの曲芸師を見上げるキラキラした眼(「道」)が、忘れられない。そこには人間の夢や憧れ、祈りや願いなどが、美しく盛り込まれていた。一体なんなんだろう、これは。メキシコの空港に初めて降り立ったとき、ゲートをくぐると突然、空気の明らかに違う一群の人たちに出くわして、驚いたことがあった。みんなが、だれかを”待って”いた。ひとりひとりがそれぞれの友人や家族の顔を思い描いて、岡本太郎の言葉を借りて言えば、まさに”ふくらんで”いた。そしてそれが全体をなして、ひとつの大きな空気のボリュームを作っていた、、、。「夢を見る力」に、触れた思いだった。

Monday, February 04, 2002 at 21:12:49 (JST)
モレッティ
ナンニ・モレッティの『息子の部屋』をシネプレックスで見る。一日に2回しか上映しないのに人影はまばら。ハリーなんたらとか、オーシャンズなんたらとか、ワサビなんたらとかには人が群がっているのに。まあ、いいけど。映画のなかで、海に面したイタリアとフランスの国境が出てきて、けだるそうにフランスの三色旗が掲げられていたのが印象的だった。メキシコとアメリカの国境と違って、とてものどかである。スクリーンを覆う光が穏やかなせいかな。ぎらぎらとしたメキシコの「光の痕跡」に触れたくて、うちにあった村上春樹『辺境・近境』の「メキシコ大旅行」を眺める。そのついでに感想文を書いて、bk1に送る。一緒に収録されている「ノモンハンの鉄の墓場」を読んだら、沖縄で出会ったノモンハンに出兵したおじいさんを思い出した。元気かなあ。それにしても、イタリア人の作る「お涙ちょうだいの映画」は唐突で激しすぎるぜ。

Friday, February 01, 2002 at 22:11:22 (JST)
果てしない感じ
まがりくねった道を進んでいく。しだいに道は細くなって、人一人がやっと通れる幅にまでなる。光の当たらないその先は、袋小路かもしれない。あるいはそこは、もと居た場所に意外に近く、結局その人は「全然進んでいなかった」のかもしれない・・・。目的地を設定せずに、そんなふうに歩くようになったのは、いつの頃からだろうか。気がつくと、あまりに多くのものを見落としていたような気もする。それどころか、実際に「見た」と思っていたものさえ、記憶の風化には耐えられず、粉々になって流れてしまう。それでも強烈に残っていて、今でも一瞬頭をかすめるのは、「光の痕跡」のようなものだ。東京の街を歩いていようが、眼は一瞬の反射をきっかけにして、メキシコの市場の喧噪に僕を連れ出す。そういえば、「光の乗り物」に乗って旅をする詩人と、舞踏家・大野一雄氏との対談は、詩人の言葉でこう締めくくられていた。/「でもそれは先生、何か果てしない感じがしますね。」と。今の僕は、その”果てしない”感覚を前に、途方もない眩惑を覚える。

Monday, January 28, 2002 at 15:04:46 (JST)
塚本邦雄あるいは支倉常長
最初の文さえ書きつけることができれば、あとはいくらでも文章を書くことができると思っていた時期がある。言葉を選択するという行為は、ある一点を目指して思考を投げかけるということに等しく、そして、どの一点にも背後には無数の歴史が秘められているからだ。しかし詩は、そのような自動書記装置と化したぼくの思考回路を分解し、思ってもみないような方法で重層化することがある。それは、言葉の隘路をくねくねと抜け、目の前に突然広がる広大無辺の時空。いまのぼくにとっては塚本邦雄の荒唐無稽なことば。/厨房へと続く隘路を抜けると広々とした空間に何人かの男たちが働いており、驚いているぼくに向かって、背の低い太ったメキシカンのおばさんは「食べたいものを指差して!」と怒鳴った。あるいは、アカプルコの夜。「あの人が食べているのと同じものを」と言ったのをきっかけに意気投合し、地元のおっちゃんたちと朝まで騒いだ。誰も支倉常長のことを知らなかった。もちろん、常長がここに来る前にメキシコ人が御宿に漂着し、アカプルコと御宿が姉妹都市であることなど誰も知らなかった。千葉県の低山を日蓮に誘われるようにして歩いていた十代の頃、ぼくは御宿で「メキシコ記念公園」に出会ったことがある。そして・・。連想が言葉を誘うのか、言葉が連想を誘うのか。

Monday, January 28, 2002 at 02:19:58 (JST)
食べる
広大無辺の時空を前に、ぽつんと、ひとりの人間が立ちつくしている。そんなイメージが頭から離れないのも、最近、吉増剛造氏の本を読んでいるからかもしれない。あるいは、ある時、レストランにて。なんとなく居心地の落ち着かない感じで座っていると、ウェイターが注文を取りに来る。そこで、ぎこちない言葉で、食べ物と飲み物をひととおり注文すると、彼は、「perfecto!」と言って返してくれた。強くておおらかな感じのする男性。その肯定的な響きに、僕は初めて、一人の人間として認められた気がしたのだ。そしてその時思い出したのが、岡本太郎のことだった。18歳当時、たったひとりのパリ生活を綴った「思ひ出のパリ」(全集5巻「宇宙を翔ぶ眼」所収)と題された美しいエッセイには、「一人前のモンパルノーになった」という実感が、初めて入ったレストランでの体験として書かれていた。世界と、孤独で向きあう。その入り口に、”食べる”という、(物や人、言語の)交渉の場があったことを、今は忘れないでおきたい。

Saturday, January 26, 2002 at 02:12:42 (JST)
食べる
 言葉を覚えずに行った。言葉が分からないということは、食べることに直接響く。当たり前のことだけれど、(レストランなどで)それと名指すことのできないものは、食べることはできない。だから、街をむやみに歩きまわってお腹がすいたときなどは、意を決して屋台に飛び込んだ。ある時、オアハカ郊外の市場にて。同じ屋台の前をオドオドと何度か通りすぎた後、決心して「こんにちは」と声をかけてみる。おばさんの太い声が返ってくる。「食事?すわって」。それまで外国人としての眼差しを全身に浴びていた僕の緊張が、ふっとやわらぐ。出されたものをたいらげ、大きく息をつくと、やっと、街の空気が身体の中に入ってきた感じがした。「ハラが減る」、という事実の前には、金持ちも外国人もない。これも当然のことだ。ただ、黙って座って、静かに食べるだけだった。

Thursday, January 24, 2002 at 22:00:17 (JST)
歩く
アメリカに入国するのに観光ビザが必要な代わりに、5ヶ月間滞在することができた頃は、新品のスニーカーがすぐに履けなくなるくらいよく歩いた。マドンナが映画のなかで歩いていたマンハッタン南端の公園から、ジョン・レノンが不覚にも撃たれてしまったマンションまで、荷物を背負いながらも平気で歩くことができた。今ではもうできないだろうなあ。メキシコ(DF)でもひたすら歩いたが、すぐにおんぼろのタクシーの運ちゃんが徐行しながら寄り添うようにやってきて「乗れ乗れ」とうるさく言うので、何回かに一回はそれにしたがったりした。そうすると、自分の家に連れていかれたり、一緒に食事をしてはお金を払わされたりしたが。いつの頃からだろう、こんなにも歩かなくなったのは。土地土地から受ける直接的なあの感覚を、もう一度取り戻すことができるだろうか。

Monday, January 21, 2002 at 23:46:37 (JST)
音の波
 出発前、ある友人に”音をとってきて”と言われた。そこで、小型のテープレコーダーを目立たないようにして持ち歩くことにした。そうやって歩いているうちに、身体が、周囲のさまざまな音に対して敏感になった。広場まで歩いてみる。はじめは車の騒音。エンジン音。クラクション。それから徐々に人の声が交じる。何やらボソボソと話し合う人。歯切れのよい物売りの声。子供の声。口笛は、誰かに送る合図。手回しオルガンの奏でる、どこか調子のはずれた音や、アコーディオンの和音。遠くで鳴る、草笛、、、。

Monday, January 21, 2002 at 00:10:45 (JST)
街で
 街を歩く。が、さまざまな建物やその色彩を楽しんでいると、すぐに足を取られる。石でできた道にはところどころに溝や小穴があり、地元の人でも時々転びそうになっていた。「気をつけて」。もう二年ぐらい履いている僕の靴はすっかり変形し、身体はいつでもそれに対応できるようにと、構えるようになった。徐々に、この、ただ「歩く」だけのことに夢中になった。そうやって、身体を街になじませていった気がする。

Friday, January 18, 2002 at 01:34:13 (JST)
荒野
 荒野の強い日射しの下では、異質なものがパッと出てくるイメージが面白いと思った。バスの車窓から外を見ていたとき、「全力で走るニワトリ/その傍らで固く手をとって、愛しあう男女/キャッチボールをする親子」が、連続して目の前を過ぎ去った。お互いに、何の関わりもない。それでも全く平気な感じだ。僕の方はといえば、それらのあまりの脈絡のなさに、思わず吹き出してしまった。

Wednesday, January 16, 2002 at 11:33:03 (JST)
Bagdad Cafe
「ゼロ・シチュエーション」から『バグダッド・カフェ』は生まれたと、監督のパーシー・アドロンは語った。給水塔ばかりが目立つモハベ沙漠に、正装したジャスミン(マリアンネ・ゼーゲブレヒト)をただ歩かせるだけで、人間の織り成す物語は次々と綴られてゆくのだ。ミュンヘンからディズニーランドを訪れた女性と、もとボクサーでパイロットだった『シェーン』の殺し屋は、サウスウエストでこそ恋に落ちることができたと言えるかもしれない。しかもここでは、ギアナ出身のイギリス黒人女性は、三つ編みをしたインディアンのシェリフと同じくらい荒野にマッチしているように見える。剥き出しになった土地におかれたこれらの多様な身体は、豊穣な物語を自然と引き寄せ、地球上のさまざまな出自の人々を結びつけているのだ。「土からぼこぼこと、裸の身体が無数に出てきたら」と夢想することは、僕にはとても自然なことのように思える。

Tuesday, January 15, 2002 at 01:06:02 (JST)
夢想する土地 <YIW01144@nifty.ne.jp>
 ある時から、メキシコという土地のイメージが、自分の中に”住んでいる”ことに気がつく。僕の場合、それは”身体”のイメージでもあった。ディエゴ・リべラに限らず、多くの画家が、メキシコの土地の姿を、人間の裸体のイメージと重ね合わせて描いている。力強くねじ曲がり、苦悶する身体。かと思えば、まるくて重みのある、柔らかい身体。   1月6日/オアハカから、13時のバスでD.Fへ。 車内の窓より、まどろみながら外を見る。乾いた山々に、サボテンの群れ。細長いものや丸いもの。おもいおもいの形があり、それぞれが存在を主張しているように見える。 他にも、ろうそくの鑞を上から垂らしてできたような、奇妙な木。鮮やかな真紅の鳥。ふと、想像してみる。土からぼこぼこと、裸の身体が無数に出てきたら、、、、。 土地というマテリアルなものと、そこから紡ぎ出されるイメージの関係。その間にも、僕の身体はバスのシートに沈んだままでいる・・・  

Monday, January 14, 2002 at 01:22:04 (JST)
Jose Machos
初めてのメキシコについて、人は何を思い出せるだろう。僕にとってそれは「国境の南」からそっとのぞいた、あの眩しいような真っ白な風景。「砂埃に強烈な陽光がきらきらと照り返している町並み」。おそらくは、フアレス。しかしまた、すでにそこにおいて十分なほどに「メキシコ」なアメリカ南西部は、僕にとってのメキシコの「末端」。トニイ・ヒラーマンの作り出すナバホの世界に浸るよりも早く、アビーの洋書を取り寄せるよりもはるかに早く、身体がこの「メキシコ」を欲していることに戸惑っていた日々。その後「動いている」雲に誘われて少しずつ国境から南下しては日本に送還され、また南下しては日本に送還されを繰り返しながら、結局はオアハカまでしか行けなかったことを思い出す。そんな通りすがりの旅人にとっても、メキシコがいまだに「帰る場所」として心の内にあるのはなぜだろう。おそらく、キューバやペルーやブラジルを目指した旅人も、メキシコではなぜか一瞬立ち止まり、そこで十分に彼の地を夢想できたに違いない。そしてもしも、そのまま目的地にたどり着くことを忘れてしまったとしても、彼は悔やむことはなかっただろう/中村君の続報を楽しみにしています。

Sunday, January 13, 2002 at 12:30:57 (JST)
中村達哉 <YIW01144@nifty.ne.jp>
12月18日。ホテル着。長旅の末に、いっときたどり着いた場所。ふと夕刻の空を見上げると、それが、ゆっくりと、「動いている」ことに気がつく。 遠くを見ると、なぜか”憧れ”の気持ちが沸き起こる。メキシコの空、、、  空港からタクシーで向かう時、ぼろぼろの街をまのあたりにした。 ここでは何もかもが、古い。近代的なビルであっても、「現在的」な感じがしない。 街の壁は汚れ、剥がれ、また塗り込められ、様々な層を露にしている。時間の堆積。 その間にも、空は、動いている。その表情は、昨日のそれであっても、明日のそれであっても、全然おかしくない。空の無時間。  あるいは、貧困。ある時街を歩いていて、黒いゴミ袋を蹴飛ばしそうになった。 それがもぞもぞと動いて、はじめてそこに「人がいる」ことに気がついた。 「貧困」が、絶対的に存在している。  そういえば、沖縄でも、そうだった。目が見えず、膝でするようにして歩いていた人。ピアニカを持っているが、吹いてはいない。後で偶然近くをすれちがった時、驚いて、一瞬たじろいだ。それを察したのか、瞬間、彼は警戒し、その場に刺すような緊張がはしった。他者。拒絶感。交わることのない世界が、同時にそこにある。  メキシコ。メキシコ。・・・・

 


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