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以下がantipodesの2001年の過去ログです。

 


Friday, December 07, 2001 at 10:57:36 (JST)
ホセ・マッチョス
2月某日  北の島国へと移動する途上のマスターと、彼を育んだ土壌とも呼べるべき湘南で待ち合わせた。昼前の辻堂駅は陽光で照り返し、そこだけが急に春めいているようだ。地球の反対側は今頃、昼夜構わずに踊り続けるリオのカーニバルの真っ最中だろう。昨日はお茶の水のアテネ・フランセで、ドキュメンタリー映画作家の佐藤真と対談されたという。大学時代に足繁く通ったアテネ・フランセはまるで母校のようで、25年ぶりに訪れたにもかかわらず、当時の面影が十分に残っていたと笑顔を見せる。その場所が何らかのアイデンティティを強制する限り、大学であろうと会社であろうと国家であろうと、マスターにとっては居心地のいいものではないのだろう。それは、ブラジルが、マスターにとって変わらず特権的な記号であることと無縁ではない。「ブラジル」は人を自由にさせる。  横浜でスペイン料理を前にしながら、ブラジルとチカーノの話をする。目の前のマスターと華やかな店の雰囲気が、僕をどこか地中海の架空の国にいるような幻覚に誘い、味覚がそれを加速させる。マスターは、去年ブラジルで聞いたある講演から、バルガス・リョサの英訳はアメリカにおいて、チカーノ文学のように受容されているのではないかという話を切り出される。僕はフリオ・ラモン・リベイロの土着的な作風を念頭におきながら思いつくままに答える。いつものことだが、言葉はマスターの身体と僕の身体を往還しながらも、世界中のあらゆるアウラをこの場所に招き寄せる。リービ英雄、カズオ・イシグロ、泉鏡花、万葉集、中上健次、サイデンステッカー、ダンティカなどが僕たちの前を行き過ぎる。アメリカ人にとって馴染みのないペルー文学が、チカーノ文学の語彙を援用しながら訳されることで、初めて受け入れられる土台ができるということを、その講演者は言いたかったらしい。重要なのは、そのことに対して僕たちは、あらためて意識的になる必要があるということだ。言葉も旅をするということをである。そういう作業を意識的に続けてきたマスターの感性は、詩を生み出す際に、ポルトガル語を母体としつつ、スペイン語で言葉を探しながら、日本語を行き来しているという。  その後、空港に向かうバスのなかで、この夏に行われる琉球大学でのチカーノに関する講議について語られる。沖縄でチカーノについて語るという行為の作用と反作用はきわめて複雑だ。ジミー・サンティアゴ・バカとグレゴリオ・コルテスという二人の「チカーノ」を端緒にして始まるというこの講議は、沖縄の島々がチカーノの歴史とどのように接続していくかを明らかにしていく刺激的な内容になるだろう。そして空港に到着。たとえ羽田であっても、空港こそは特権的な場所の一つだと僕は思う。人々が集い、そして再び飛び立ってゆくこの場所で、マスターは山口昌男との25年にわたる交流について淡々と語られた。山口昌男との関わり合いなら、永遠に話し続けることができるといった口振りだ。誰かと出会うことによってそこに強力な磁場ができるのだとしたら、それこそがあらゆる共同体と匹敵するような力を有しているに違いない。最後に握手をしてマスターと別れた途端に、雑踏のなかから聞こえる無数の日本語が、僕の身体をゆっくりと包んでいくのがわかった。

Friday, December 07, 2001 at 10:58:43 (JST)
ホセ・マッチョス
3月某日   「山の上ホテル」へと向かう丘を登る。風がなく太陽が一方的にアスファルトを照りつけている。二人の正装したボーイの横を通り過ぎ、燦々とした屋外に比べるとはるかに落ち着いた雰囲気のロビーに足を踏み入れる。するとすぐに、一番奥のソファーに腰掛けているマスターを発見することができた。ここ数年のマスターは、そこがどこであろうと、ブラジルやメキシコにいるかのような笑顔を見せている。去年ブラジルから戻ってきてからは特にそうだ。少しして『広告』の編集長が現れ、独特のノリのなかで交わされる彼らの対話を、僕は傍らで心地よく聞いていた。ブラジルという言葉が頻繁に登場するために自然と熱気をはらんだ空気の中で、アイディアはどこからともなく停滞することなくやってきて、決めるべき盛りだくさんの内容はあっという間に形になったようだ。そして、ちょっと立ち寄っただけという感じでマスターは軽く腰をあげ、僕も立ち上がって一緒にホテルを出た。  ホテルの坂をおりながらも、地下鉄に乗り込んだあとも、マスターは先週訪れた広州の体験を語り続けてくれた。まるでまだ広州にいるかのような口振りで、マスターは僕を広州へと誘ってくれたのだ。島田雅彦や平田オリザらとバーチャルな教育方法について語り合ったという話を織りまぜながらも、地下鉄の喧噪の中でもマスターは、広州について熱く語り続けた。ここ数年、日本から出る機会があまりない僕は、マスターの口吻を通してバーチャルな旅をしているのかもしれないと思った。誰と出会うかに旅のもっとも重要な意味が隠されているとするなら、僕にとってマスターと出会うことは、海外に出かけるのとほぼ同じ比重をもっている。そのことが、マスターの話を聞いていて心地よいと感じる第一の理由だろう。とにかく僕は、マスターの話を聞きながらいつもさまざまなことを考える。今日もそうだ。  言語の多様性と豊穣さを抱え込みながらも、中国が漢字という媒介を通して一つの国家を成立させていることが、逆に漢字が複数の人格を同居させる装置となっているのではないか。「複数のわたし」などというもったいぶった言い方をしなくても、中国においては無数のフェルナンド・ペソアが存在しているのではないか。マスターの話を聞いていて心地よいと感じる第二の理由は、自分の想像力が最高度に発揮されると実感できることであろう。それにしても、国民国家の中心としての標準語を強要する北京から離れている広州は、漢字を通して日本をも組み込んでいくような特権的な視点を獲得している。そのことだけは間違いないようだ。しかし、今回も時間は足りなくて、『サッカー批評』に連載している「サッカー批評・原論」のなかの「ブラジルにおけるサッカーという現実」のことは聞けないまま、マスターはゲートの向こうへと消えていったのだった。

Friday, December 07, 2001 at 11:02:18 (JST)
ホセ・マッチョス
12月某日 いつでも工事をしている横浜駅から満員のバスに乗り込み、学生服の修学旅行生らでごった返している羽田空港を経由してから、最高気温が零度を越えない北の玄関口に着くと、空の色がいつもと同じように寂しかった。がらがらの冷えきったバスの冷たいシートに腰をおろし、曇天と同じような色をした建物が次々と行き過ぎるのを目で追う。僕はその流れてゆく風景に意識を向けながらいつの間にか眠ってしまったようだ。ふと目を覚ますと「西岡」という地名が聞こえたような気がして外を見る。アナウンスが唐突に僕の目的地を告げ足早にバスを降りた。半透明に凍りついた雪の上を何歩も歩かないうちに足を滑らせ手をつき、やっと校門までたどりつくと、去年ココがこの場所で「ルータが私の言葉を日本語にすると、どうしてあんなに長くなるのか」と質問をしたことを思い出しおかしくなった。訳す言葉と訳されるべき言葉の間隙にもうひとつの通路をすぐに見つけてしまうマスターのことだから、どっちが講演者でどっちが通訳かなんてことには無頓着なのだ。そんなことを考えながら図書館横の研究棟を6階まで昇りきり、雪をまぶした山々を遠くに見つけて大きな窓の近くに立つと、同居人から「短い雪国生活の幕開けだ!」というメールがちょうど携帯に届いた。僕の横でたむろっている学生たちは目の前の冬休みの予定について飽くことなく話し続けている。程なくしてマスターが現れ一ヶ月ぶりに再会。チカーノの祭壇のような画期的な装幀の新刊をいただき、しばし歓談。本自体のフェティッシュな思い入れをもつ共同性を築いている僕たちにとって、昨今の新書創刊ブームは、情報の平板さを後押ししているようにしか感じないといったことなどを話す。トリン・ミンハの卒論を書いた院生の福島さんにも約一年ぶりに会う。その後、学長の山口先生にもお会いする。センダックの世界を模したような部屋で先生にしかできない話を披露される。そこでマスターのご家族とも再会。ここに一ヶ月くらいいたらきっと、北の大地に引っ越そうかと思ってしまうかも知れない。しかし明日、凍てつく北海道で荒涼とした砂漠の話をしたら、身体が寒さに慣れる前に、また僕は日常に帰らばければならない。


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