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arctic


Monday, July 28, 2003 at 05:58:21 (JST)
阪口浩一 <ekinkoichi@hotmail.com>
明日ロスに向けて旅立つ友人、ロスで生まれ日本、ドイツで育った彼は、数日前、僕が自作の英語詩を朗読すると次のような感想を述べた。 「なぜ、日本人の詩は、どこからかでモノローグがダイアローグへと突然に変化してしまうのか?」「詩とはつまるところモノローグとして語るものでしかないのではないのか」と。  先ほどここ数ヶ月恒例の強行日程の旅で、富士山周辺部から戻ってきた。土曜から日曜に変わる深夜に東京を発ち、日付が月曜へと変わる時刻に戻ってきたから性格に言うなら、一泊とてしていない。 「笑う、富士山」と名づけられた一月にも及ぶギャザリング。ひとつのイベントを開催し、それで終わるといった催し物ではなく、その期間内にネーミングに端的に表された趣旨に表明してくれた数多くの富士山およびその周辺部で行われるイベントを繋げる、文字通りのギャザリング。  僕は心から願い、思う。その期間内に一瞬でさえ、笑い微笑む富士の表情が見れることを。その場に居合わせる人々のガッツが僕も含めて、熱からんことを。 日の出までしばらくある時間に御殿場口5合目に着いた私達は、そこでその場のリアルさから離れた感の、テクノ音楽の鳴り響く場所に、真言の護摩行の姿を見る。 座るべき場所に腰を下ろした僕に中心部にでんと腰を掛け、ときに真言を唱え、ときに竹刀のごときものを振り回す宮司服をきた男が、僕に箱を開いてその中にある白檀の香を火を囲み集まった人々に手渡すことを命じる。    

Saturday, February 22, 2003 at 22:56:31 (JST)
stupid white men
「ボウリング・フォー・コロンバイン」(マイケル・ムーア監督)が地元にひょっこりやってきたので見に行く。というのも先月、恵比須ガーデンプレイスでウッディ・アレンを見たときに衝撃的な予告を見せられ、思わず「見たい・・」とつぶやいてしまい、かといってまた都会に出るのも「かったりーなー」と悶々としていたからです。ラッキー!(ちなみに、アレンの「スコルピオンの恋まじない」は、大戦前という時代設定における「探偵」役のアレンがチャンドラー的にかっこいいです。)ムーアの映画はひとことでいうと、チャールトン・ヘストンがバカに見えて、マリリン・マンソンが知的に見えるというヘンな映画。そこにこそ、アメリカの抱えた病理が存在するのか。しかし、こういう映画は深読みをする寸分の隙間もないほどにメッセージの内容は明らかなので、カード式のパンフレットに厳かに書かれているような「社会学者」のご託宣はまったく無用。「見ろ! そして、その思いを自分の言葉で吐き出せ!」で終わり。見ておいた方がいいと思いますよ。ビートルズで一番かっこいい曲も大音量で聞けるしね。それにしても、館内はが〜らがらでした。カップルで見にくる映画でもないし、家族で見にくる映画でもないからかな。「指輪物語」は大盛況なのに。今回の予告のなかでは「ハル・ベリーの007」がよかったと思いました。たぶん、見に行かないでしょうけどね。

Thursday, February 06, 2003 at 23:46:53 (JST)
O espirito do nosso tempo
青がうすくて遠くの方まで澄んで晴れた日に、あえて海からの風と匂いを部屋のなかに招き入れながら、「われわれの時代の精神」を、ひとりで見た。徹夜でビデオを完成させ、ブラジルへと投函したばかりのマスターが、「無事に到着するだろうか?」という心配さえ興奮に変えながら、空港で僕に熱っぽく話してくれたのは、いまから何ヶ月前のことだろう。そのときの羽田の空の色を、僕はいまでもよく覚えている。海が歴史なら、空も歴史なのだろうか。マスターが書き、綴り、語り、そして話してくれたすべてのことどもが、映像のなかに集約されていくのを、瞬間瞬間に感じる。奄美の海が、僕を、向こうの水平線の方へと引きずり込もうとする。「向こう」とは、いったいどこだろう。僕はまた窓の外の、空の色を見る。すると、なぜか見たこともない鳥が、何かに誘われるように、窓際に寄ってきて、せわしげに歩き回るのが見える。音楽/映像。音楽のような映像/映像のような音楽。それを媒介しているのが、マスターの唄うようなポルトガル語。僕の大好きだった日系アメリカ人のおじいさんがいつも着ていたようなTシャツを着て三線を引っ掻いて反近代的に唄うおじいさんがいる。僕の大好きだった日系アメリカ人のおじいさんがいつも話していた口振りと同じ調子で知的に語るおじいさんがいる。どこで? 70歳を過ぎてもプロトタイプなフェアレディZに乗って現れる僕の大好きだった日系アメリカ人のおじいさんを、僕は映像のなかに確かに見ていた。ロングビーチの海辺にいたのだった。O espirito do nosso tempo  われわれとは誰だろう。僕は昔の人ばかりを思い出しているじゃないか。時代? 精神。あっという間に見終わってしまってから、僕は窓を閉め、湘南の海へと向かって、ゆっくりと歩く。映像のなかの奄美の海が、僕を媒介にして、いまここにやってくる。そんな気がする。海は歴史なのだろうか。いつから? 潮騒からポルトガル語が聞こえてきたような気がした。もちろんそれは僕の幻聴だ。でも、もう一度あのビデオを見たとき、僕は、そこに、何を聞くことができるだろう。

Wednesday, February 05, 2003 at 17:21:24 (JST)
Hispanics Now Largest Minority
Census Bureau figures show that Hispanics have edged past blacks as nation's largest minority group, numbering about 37 million, compared with about 36.2 million blacks; numbers based on estimates from July 1, 2001, show 4.7 percent rise in Latinos since April 1, 2000, compared with black gain of 1.5 percent; white, non-Hispanic population, about 196 million, grew by 0.8 percent in period; explosive growth results from higher birth rates and huge wave of immigration, including illegals who are included in count; about one quarter of Latinos in US are noncitizens; chart showing other minorities as well (M) Hispanics have edged past blacks as the nation's largest minority group, new figures released today by the Census Bureau showed. The Hispanic population in the United States is now roughly 37 million, while blacks number about 36.2 million.

Friday, January 31, 2003 at 17:25:03 (JST)
クレオール主義 <imura>
ヴィフレド・ラムの最終日にマスターに会う。12年前の時点ですでにラムを批評していたマスターの文章を質量ともに越えるものが見当たらないのと呼応するように、美術館の入場者は極端に少なく見える。そういえば、桜木町の駅を降りてランドマークのビルに入ると石垣出身の夏川りみの歌声が聞こえてきた。近づくと本人が歌っている姿が見える。それにしてもラムの宣伝だけはやたらに派手である。駅から延々と垂れ幕が下がっている。それでも入らない。なぜか。時間も空間も隔たった場所でしかも少し変わった出自の画家によって描かれた作品のアウラを読みとり、かつ現代に蘇らせて感じとるというのはなかなか至難のわざである。そういうことができる強力な併走者なしに私たちはこの直感的といってもいいくらいの直截的なラムの絵を「感じる」ことは難しいのかもしれない。私も2ヶ月前にマスターの文章を読んで直感力を付け焼き刃で養ってからおもむろに出かけた。『クレオール主義』という名前の本である。うわさによると、クリフォードらを軽快に消化した上で書かれたこの預言的な本が、再び装いも新たに生まれ変わるらしい。といっても、初版からこれだけ時間がたっているのにまだ「預言的」と呼んでもいいような気がするのは私の誤解であろうか。誤解ではないだろう。マスターにかつて軽快に読み込まれたクリフォードが、どんよりとした曇天の空の下でアカデミズムの臭いをぷんぷんさせながら浩瀚な書物としてのっそりと現れるような時代に、この本はもう一度「預言書」として生まれ変わる必要があったのだ。お願いだから貧乏学生に買えないような値段にするために余計なサプリメントはつけないでほしい、と書いておこう。後日、名古屋でお世話になった「踊る社会学者」に高輪で久しぶりにお会いする。「上野くんに会うとイムラ君は人格が変わるね〜」とマスターに言われるが、師弟関係を曲解したような素直じゃない人間関係のなかで恐る恐る生きていると、こういう人(口は悪いがいい奴)との出会いは空間錯誤的な解放感をもたらしてくれる。しかし「不良」に出会って生き生きとしている私の前に座っていたマスターが、その場での一番の不良であることに気づいたのは私だけではあるまい。いつか、奄美かブラジルの地において、「不良言語」でマスターと語り合いたいものである。

Thursday, January 23, 2003 at 11:12:22 (JST)
阪口浩一
 近頃の東京を散歩するなかでわたしの視界によく入ってくる、入ってきやがる白くて高い塔。雨のように天から自然発生的に彩られた金貸し屋や駅前コロニヤル教室の原色の看板群にあって、馴染むことなく違和を発信している窓の無い白い塔。聞けばそれは、ゴミ焼却所とのことだ。昨日の夕刻、北池袋の地下に下りる手前で見上げた時、早急なイメージ、あまりにも甘いロマンチシズムとして、「ミナレット」ということばが口開く手前までやってきた。そこに自分に心地よいアザ―ンが一時聞こえるまでのあいだ、突っ立っていた。その塔がミナレットだというのは、わたしの夢想にすぎないとしても、わたしは日本各地の建造物で確かに、その塔を見たことがある。例えば、京都の駅前のタワーの深夜、遠景で。例えば、ある朝方。六本木通りから見上げた東京タワー。そこは信仰の場所ではないけれど。なぜ、それらの頂上には小さな張りが肉体的痛みを喚起する、針がついているのか?  ヒップ・ポップ。初めてその音に襲われたのは、87年ごろのニューヨーク。ストリートにはたくさんのバイクメッセンジャーたちが走り、僕は恋に落ちた。スパイク・リー「Do the Right thing」、パブリック・エナミ―(公共の敵、もしくは公然の敵)のラップ、ビート、ことば、マルコムXのりヴァイバル。それらの詩はことばを書き出すやいなや、やって来る。   Our freedm speach is freedm is freedm is death. You've gotta fight the power,that'be.

Wednesday, January 15, 2003 at 00:25:26 (JST)
「私」の探究 <imura>
昨年末に、『山口昌男著作集』の第2巻(始源)が刊行されたと思ったら、待望の「21世紀 文学の創造」シリーズのマスターが編集した巻(「私」の探究)も立て続けに刊行された。マスターからのありがたいお歳暮と勝手に解釈してとにかく買う。「山口著作集」の過激さは相変わらずで、読んでいて著者の後ろ姿しか見えなくなるときがある(おいていかれているわけですな)けれども、くらくらするほどの豊穣な知識(無造作にばらまかれているという印象あり)と斬新な発想のオンパレードのなかに身をおいていると、「これが知的快感かあ〜」などととひとりごちてしまう。ブルドーザーのように知を開拓していった筆者のあとから、ちんたらしたフォークリフトのように読み進めているが、全巻刊行後にまた最初からゆっくりと読み返そうと思う。楽しみだ。後者の「「私」の探究」の方は、もったいないのである決めた場所でだけ読んでいる。それぞれの筆者のいままでにない新しい面が引き出されているようで、「ほお」と公衆の面前で軽く声をあげてしまうことが多い。こんな文章も書けるのか。「私」と対峙し探究するというテーマは、「作家」にとって致命的な部分を披瀝してしまう怖れがあるのではないか、と私は思う。自分のことを語るのが快いと感じているような作家に大した奴はいないしね。それを思うと、それぞれの筆者にここまで書かせてしまった編者の力量に感嘆し感謝せねばなるまい。文章が湧いてくる泉というか沼というか森林のような場所、文を書き連ねていくときのエネルギーの源としての秘密の花園、そんなことを考えながら少しずつ読み進めている。

Thursday, November 07, 2002 at 12:06:25 (JST)
mangrove condition <imura>
ラムを見てから、寒風のなか、肉まんをほおばりつつ、日本新聞博物館へと足を運びました。パスポートをもらえるところの近くで、横浜港郵便局の向かいにあります。入り口には「海外邦字紙と日系人社会」と書かれた看板がひっそりと立て掛けられていました。なかに入ってみると、世界各国の邦字紙が50紙ほど並べられていて、最後に「神戸と移民」というビデオが、誰もいない空間に向かって延々と流されていました。ひとりでその前に座ってじっと見ていると、神戸からブラジルへと移住する「移民さん」の斡旋所の様子の映像が出てきたりして、なかなかおもしろかったです。片道45日の船旅を前にして感傷的になっているこれらの人々もまた、「日本人」が築いてきた「海の歴史」の一つでしょう。見終わって同じ階にある売店に入り、発売されたばかりの『アメリカ大陸日系人百科事典』(明石書店:ゲーリー・幸夫・沖広も執筆陣に加わっています)を閉店時間まで立ち読みしました。7000円は今の僕にはちょっと高すぎます。なんだかんだで疲れたので、館内にある喫茶店に入りボーッとしていると、僕の頭のなかには「森の歴史(言語)」とか、「海の歴史(言語)」などの言葉が次々と浮かんできました。ふと見ると、窓の外はもうすっかり陽が落ちてしまい、風が強く吹いているのがわかります。がらんとした博物館のビルを出て、社会見学として赤レンガ倉庫の雑踏に立ち寄り、それから、太平洋を数百回往復した氷川丸を遠目に見ながら、足早に駅へと向かいました。

Wednesday, November 06, 2002 at 12:54:27 (JST)
Wifred LAM
横浜で開催されている「ヴィフレド・ラム展」を見た。日本における初めてのこの個展で、戦争に翻弄されながらスペインからフランスへと移り住み、キューバへと帰還し、再びヨーロッパへと渡ったラムの絵画の変遷を一望することができる。キュビズムやシュルレアリスムの直接の影響のもとにあった時代から、レリスやブルトンやレヴィ=ストロースやセゼールらとの出会いを経て、徐々にラム独自のイメージを取り入れていく過程は非常に見ごたえがあると言える。もちろんその過程のなかに、リディア・カブレラやカルペンティエールが強調したような「魔術的画家」という側面の発露や、ピカソが鼓舞したような「アフリカの血」を受け継いでいることの効果というものを見い出そうとすることは間違いではない。しかし、実際にラムの絵画の前に立つことによって私たちは、中国やスペインやアフリカの血を受け継いだ彼が、黒人性と仮に名付けられるようなところからさらに逸脱してしまうようなところに立とうとしていることをも知ることができる。ヨーロッパの知識人が驚嘆し、フェルナンド・オルティスが強調せざるを得なかった黒人性を、彼は模索しつつ自ら選びとろうとしたのだが、結果的には、そこからも「逃亡」しようとしていることが後期の作品から感受することができるのだ。そのことを、スペインのカトリックや中国の道教の影響という人種的な問題へと還元させようとすることはたやすい。ただ、幼い頃から詩人か画家になることしか考えていなかったラムにとって、絵画の上にこそ歴史は具現されるものとして受けとめる能力を携えていたはずだ。「歴史とは、詩語が具現される場所」とパスは書いたが、同じように「歴史とは、絵画が具現される場所」と言えるだろうし、私たちは「言語の無能」(パス)を越えて、絵画そのもののなかに歴史を聴き取る術を身につけなければならないだろう。

Wednesday, October 23, 2002 at 22:17:02 (JST)
山口昌男著作集 <imura>
『山口昌男著作集(全5巻)』がついに発売される。今回の著作集のために著者が描いたエッチングとともに始まるこの壮大な知の宇宙は、広大で多岐にわたる山口世界のなかで途方に暮れている私のような遅れてきた読者や、これから初めて手にするだろう新しい未知の読者にとって、またとない嬉しいプレゼントとなった。しかも、マスターの目を通して選ばれたそれぞれの論文には、マスター自身の簡潔なイントロが付されており、それらは、読者の目の前に立ちふさがる濃い霧をかきわけるような、読みの無限の可能性を示す道標の役割を果している。たとえば、冒頭の「本の神話学」の前に掲げられたイントロは次のように始まっている。「本が、学問のための「資料」にすぎなくなったとき、知とはほとんど、先行著作の蓄積を理論的に整除し構造化する頭脳の精緻な働きの問題へと還元される。とりわけ近代の制度的な学問は、知のメカニズムをそうした閉域に閉じ込めることで、形式的な正しさと権威とを保持しようとしてきた。だが、そこで抑圧されたのが、書物との情動的・身体的な関係であった。知性がはたらく現場における書物の存在とは、たんなる資料情報の蓄積体ではない」。マスターが、山口昌男というマエストロの著作のなかに無限の鉱脈を見てとり、いつの時代にも胎動してやまない「身体としての本」として、著者の文章に接してきたことがわかる。さらにこのことは、著作集全体の構想を示唆するような「詞華集(アンソロジー)の精神のもとに」と題された「解説」のなかに、より詳細かつ明確に提示されている。固定されようとする概念を流動化させるアステカの異化作用の手法「ディフラシスモ」から始まるこの文章には、ブレーズ・サンドラール、レオポルド・セダール・サンゴール、そしてベンヤミンらと山口昌男が遭遇することによって可能となった、世界中の声を聴き取るための方法論が解読されている。もちろん、著者と編者の交感によるディフラシスモによって生成される「詩」が、世界中の隅々に響き渡る多様な声を聴き取るための有効な導き手になっていることは言うまでもない。その声をどのように聞き分け、また自分の声をどのようにそこに交響させていくことができるのか、それはこの著作集を手にした新しい読者に託された重要な仕事となるだろう。

Saturday, October 19, 2002 at 14:19:28 (JST)
傍らでともに見る <imura>
渋谷の松濤美術館に、小林秀雄の生誕100年を記念した展覧会を見に行った。小林が生前愛していた骨董や絵画などを各地から集め、その傍らに彼自身の文章の一部を配置するという手の込んだ構成だった。私は十代の多感なあるときを小林秀雄のアフォリズムとともに過ごしたことがあって、今回もたびたび引用されていた「美を求める心」をノートに書き写したことを、信楽などを見ながら久しぶりに思い出した。誰かの文章をそのまま書き写すという経験をしたのは小林秀雄が最初だから、つまり私の文体の志向性はまずは小林秀雄の文章にあったと言えるかもしれない。そのような当時の私が、小林が偏愛した対象にも興味をもつようになったのは当然のことで、よくわからないながらも印象派の絵画に接したりしたものだった。それらをまたここで集中的に見ることができたわけだ。ただ、骨董の世界にじかに接し興味をもてるようになったころには、私のなかでは小林秀雄は過去の人になっていて、むしろ海外の何人かの哲学者が偏愛していた作家や芸術家の作品へと世界を広げようとしていた。それらの哲学者が具体的にはベンヤミンであったのかバシュラールであったのかなどということはここでは問題ではない。セザンヌやドガを見ながら私が考えたのは、小林の書いた文章と小林が愛した対象を通して私は、小林の傍らにどのように立てばいいのかを学んだということだった。つまり、彼の視線の先にあるものをともに見ようとする態度を真似るという身ぶりを学んだのだった。そういう立ち方や真似の仕方をある時点で不幸にも学べなかったものは、これからどのような書き手の文章に出会ったとしても、それらをアイディアを得るためだけの動きのない文字の集合体にしか見ることができないはずだ。受験のための読書や大学における論文作法はそのような身ぶりとは無縁のものであるから、私たちは自分の力でいつの日かマエストロを見つける能力を身につけなければならない。もちろんそれは文章に限らない。モノや音楽や芝居などを通しても十分に受け止めることができる。そういうことを考え始めたのは、同じ日に羽田空港で、マスターからヴィフレド・ラムの絵画の取り込み方を、マスターが作成した映像作品のメイキング過程のなかで聞いているときだった。クレオールをテクニカルタームとしてしか見ていないものにはおそらく届かないであろうこの映像作品によって、マスターはまた新しい表現手段を獲得したようだ。傍らで見ることの可能性を広げてくれるという点において、私はマスターにあらためて感謝しなければならない。マスターの偏愛の対象をマスターの力を借りながらともに見ることによって、私は自分の力で見ることを学んでいる。小林は「先ず、何を措いても見ることです」と書いたが、それはともに見ようという読者への心からの語りかけでもあったに違いない。

Wednesday, September 25, 2002 at 00:11:06 (JST)
石と太陽
「岡本太郎とメキシコ」の展覧会に寄せられたマスターの文章「石と太陽」は、南青山の岡本太郎記念館で、同時多発テロの起こる前日に行われた講演がもとになっている。この文章のなかで私が特に印象深かったのは、太郎の感性が捉えた「石」の話だった。最小の単位の祭壇(カピーリャ)としての石は、私たちが墓石として一般に使用しているように、悠久不変に存在し続ける自然と、刹那的な生を生きなければならない人間の結節点としてある。メキシコを直感的に映し出してゆくエイゼンシュテインのスクリーンにも、石でできた遺跡は重要な要素として登場し、メキシコが石と強い結びつきをもっていることが暗示される。つまり、石に囲まれた文化は、ネルーダの詩からもわかるように、死と詩に恵まれた文化である。メキシコは詩と死の国なのだ。石が変わらないように、詩と死は不変である。石のうえで人間は何度も世代を重ねてゆく。いや、人間だけが進化し、変転し続けると考えることは間違っているのかもしれない。ポサダが描いたカラベラのように、人は生の意味を、死という鏡に映して感じとっているとも言えるだろう。その二つに優劣はないはずだ。岡本太郎は言う。「人間、石垣、籠、船と区別なく並べ立てたが、決して奇妙ではない。すべてがこの天地に息づく実存の多面性としてある。同価値であり、同質のエキスプレッションである。これらすべては美しい(岡本太郎「何もないことの眩暈」)。そこにあるすべてのものの美しさに、私たちは気づくべきなのだ。岡本太郎から私がもっとも感化されるのは、このような、世界に対する絶対的な信頼と肯定の意識である。

Wednesday, September 25, 2002 at 00:05:04 (JST)
libro de piedra(石の本)
『マチュピチュの頂き』のァでは、隠喩を駆使して「Tunica triangular, polen de piedra(石の花粉)/Lampara de granito, pan de piedra(石のパン)/Serpiente mineral, rosa de piedra(石のバラ)/Nave enterrda, manantial de piedra(石の泉)/Caballo de la luna, luz de piedra(石の光)/Escadra equinoccial, vapor de piedra(石の蒸気)/ Geometria final, libro de piedra(石の本)」とネルーダは詠った。石を本のように読む感性を詩人は携えていたようだ。そしてさらに「Piedra en la piedra, el hombre, donde estuvo?(石のうえには石だけ、それならば人間は、どこにいたのか?」と私たちに問いを投げかける。このマチュピチュの詩をフランス語に翻訳したのはロジェ・カイヨワだが、彼はネルーダについて次のように書いていた。「目眩のするような遺跡にネルーダがやってきたのは、石の建物を築いた人たちのパルチザン(仲間)としてである」(『都市と詩』)。ネルーダは、石の文化をもつ人々に対して、格別に親近感を抱いていたようだ。

Wednesday, September 25, 2002 at 00:04:02 (JST)
IL POSTINO
1973年の9月11日にクーデターで死亡したアジェンデを思うと、その10日後に息を引き取ったネルーダのことが連想される。死の直前に書かれた詩句のなかの「わたしは私の詩と真実をもって/恐るべき人殺しの人民への憎悪と/人を恐れぬ罪悪をあばき懲らしめてやろう」のような革命への怒りが、彼の身体を傷め、死を早めたことは間違いない。一般には、「イル・ポスティーノ」に描かれているような「愛と革命の詩人」のイメージがあるネルーダだが、大作『マチュピチュの頂き』(Pablo Neruda『Alturas de Macchu Picchu』)においては、アンデスの頂きに長いあいだ見捨てられていた石の都の下に眠るインカの人々を通して、死について思いを馳せ、想像力を巡らせていた。そのイメージの中心にはいつも石があった。「una vida de piedra despues de tantas vidas(いくつもの生のあとの石の生)」。

Friday, September 13, 2002 at 11:50:15 (JST)
阪口浩一
 混ざり逢う事の衝動と欲求はパリのカフェで飲むカフェ・オーレへの憧れ。その甘い誘いは、海を越えてアフリックやカリブへと連れて行く、粒子の粗い夕暮れ光のマヤが靄がかった映画の中へ。旋律はラテン語を起源とする言葉。センティメントとアモール。決して、日本語の言の葉遊びを疑ることのない、その自覚を感じるや否やその「濁り」をさっき飲んだミルク入りコーヒーへと投影する。これからクレオールせざるを得ない状況がこの「日本」で生まれるとしたら幾人がコーヒー不在のスクリーン無き現実に耐ええるのか?そんな時だ人が「人間」面した仮面を脱ぎ捨て、豚や鮫やサルや猫の正体を見せる時は。もはや現実の自然環境が砂漠でしかないこの言語空間の社会にあって、それを「自覚」出来ず、いまだ映画の観客で在り得ているとき、一神教との旅人は思う。此処には信仰もなければ「無神論者」も皆無だ。

Thursday, September 12, 2002 at 21:09:54 (JST)
912
 昨日の深夜に筑紫哲也氏の番組で、9月11日に関する映画を放送していた。それぞれの文化を反映した11人の作家(イラン、ボスニア、ブルキナファソ、エジプト、メキシコ、アメリカ、フランス、イギリス、イスラエル、インド、日本)による「9月11日」は、その時世界でなにが進行していて、この瞬間にどのような記憶をそれぞれが喚び起こしたかが、立体的に描かれていて興味深かった。ここではイギリスよりケン・ローチ監督の作品もとりあげられていた。故国チリからロンドンに亡命してきた主人公によるモノローグによって進行するこの作品は、もうひとつの「9月11日」について語っている。それは民衆によって選ばれたアジェンデ政権を弾圧し、ピノチェトによるクーデターを押し進めたアメリカによる、大統領官邸への爆撃と3万人の人民の虐殺の日でもあった。1973年の、9月11日の、同じ火曜日だった。ここで監督は、星条旗の前で報復を訴えるブッシュ大統領の映像を利用して、そこに30年前の911における悲惨な映像を巧みに掛け合わせながら、大統領の演説に出てくる「自由の敵」という言葉を暗示的にダブらせていた。映画は「30年前の犠牲者」としての語り手が、「1年前の犠牲者」に対して、「自由の敵」に対する戦いを呼び掛けて終わる。//人間にとって一つの体験とは、ある出来事を時間的、空間的な「点」で受けとめ、それを執拗に掘り下げるようなテレビ報道のようには出来ていない。一つの出来事は常に他のどこかの場所に対して影響関係を持ち、またそれによって別の時間を記憶として呼び覚まし続ける。これが、「点」でも「平面」でもなくて、あくまでも三次元的な「立体」で生きる人間としての、自然なあり方だ。想像力の自由な幅を持つこれらの作品は、少なくとも自分自身の眼でものを見て考えることを教えてくれている。

Wednesday, September 11, 2002 at 22:54:43 (JST)
911
ケン・ローチを見たあと、受付でチカーノ画家ホセ・ラミーレス(not マルティン・ラミーレス)のカードを購入し、池袋の西武で買ったサンドイッチをほおばりながら、そこからもう遠くに輝いて見える丸ビルの方へ向かって歩いた。前日にオープンしたばかりの、皇居を見下ろすことのできるこの高層ビルは、驚くほど多くの人でうめつくされ、誰もが驚くような高価なものを買っていた。いまから15年以上も前に、内幸町で深夜まで働いていた時代が私にはあって、その頃の空気を若干残していた中央郵便局周辺も、これで歴史のどこかへと永久にさまよいこんでしまったのだ、とそのときふと思った。それと、その日だけではないが、高いビルを見ると「もしもこれが崩壊したら」と考えるときがあって、それはおそらくいまから一年前のあの事件と関係していることは間違いない。歴史の蓄積を遡れるような多様な通路をもつ場所に、それを無視するように、高ければ高いほどいいと思っているような無機質なビルが建つよりも、誰もが知っているような高層ビルが一瞬にして喪失してしまった方が、はるかに感動的ではないだろうか。そうやって、それぞれに「知っていた」ビルは初めて人々に均等に共有されるのだ。それがメディアの究極の役割でもある。現実とはそれぞれの人にはきわめてシンプルなものだが、多くの人々が集まると複雑になるものなのだ。だから、大衆向けのメディアは私たちを薄っぺらにして連帯させる。そういうメディアを通して、暴力に関する情報や映像が日常的に入り込んでくる私たちの生活のなかで、ビルの喪失を想像することくらいは朝飯前だろう。想像のなかでなら、いくらでも高層ビルを破壊することくらいできる。リアリティなど、もう目の前の「ここ」以外にはどこにもないのだ。あるとしたら、目の前の現実から飛翔することのできる強靱な想像力の世界。数日前から何度も見せつけられている、いわゆるグラウンドゼロは、他者に執拗に与えてきた一方的な暴力をなぜか想像することさえできない愚劣なアメリカ人のかりそめの墓場だ。跡地をどうするか? くだらない議論だ。また同じようなビルを建てればよいではないか。飽きずに何度も戦争を繰り返し行ってきた人類の歴史において、人々はその跡地に何度も住居を建てて、生き延びてきたのだ。