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crossroads


Saturday, February 01, 2003 at 14:37:41 (JST)
阪口浩一
 僕は、ミート打法より打つことが好きだ。僕は、トスバッティング 練習は嫌いだ。僕は、気持ちよく、思いっきり投げるのが好きだ。でも、キャッチ・ボールは嫌いだ。僕は、逆らわない、自然な流し打ちより、引っ張った、ボンズのファーストフライが好きだ。

Saturday, February 01, 2003 at 13:47:08 (JST)
不在の空間
特定の場所や時間を切り取ってみる。 そしてほんの少しだけ、斜めに身体を傾けてみる。すると、その場に偶発的な要素が沸き立つようにして音を立てていることに気がつく。気象、風の運んでくる湿度や匂い、それに伴う光の角度の変化や、街の人の流れ、その場所に堆積している過去の記憶の痕跡。視線やそれが織りなす空間だってさまざまだ。子供の目線。それを伴う親の目線。ふいに見かける動物はありもしない所を歩いていたりして、街に独特の線をひっぱっている、、。//先日は浦和(裏羽)で吉増さん(この詩人にはものすごい親しみと、怖れの感情を同時に覚えるのですが)と、銅板のコラボレーションを続けている彫刻家の若林奮氏のイベントがあると知り、駆けつけてみた。会場にはこの二人を一目見ようと、入りきれないほどの人たちが押しかけた。が、学芸員の説明から、若林氏は事情があって来られず、そもそもこのイベント自体二人が会場に来て対談をするという形では企画されていなかったことが告げられ、会場には展示室(別室)で点々と銅板を刻む吉増さんが、なんとスクリーンで映し出されるという光景が展開していた。こうして両者による「不在の空間」を出現させることによって、そこに「人や人でないものたち」を呼び込むという異例の目論見が成されたのだ。加えて会場には詩人の吉田文憲氏が「草木言語論への道ー離れながら繋がっているもののためにー」と題して宮沢賢治のいくつかの文章を引用し、草や樹がざわめきたつようにしてものをいう、喚起的な世界を提示し、それを若林作品に繋げて論じていた。「私は彫刻に”振動”という言葉を考えます。・・私はこの振動の一端しか知らないのです。」(『彫刻空間』前田英樹氏との対論より)と話すこの彫刻家もまた、「先端」の「振動」によって空間を微細に感知しているのだ。 //隔たっていることで浮かび上がる「不在」の空間に、その先端の震えを通して「何か」を呼び込むこと、、、。不在、欠落、喪失、、、。そうしたものがさらに僕らの感覚を研ぎすませ、なにか途方もない世界に触れるためのひとつの重大なきっかけになってくれることを、僕はこの詩人から教えてもらった。詩人はいつもどこかの場所の風を伴ってやってくる。その日の浦和(裏羽、、)の空気と共に、奄美の、札幌の、それからみたこともない様々な場所の光や風を。そんな風に煽られるようにして僕もまた、「もうひとつの空間」をつくりだしてみたいような誘惑に駆られている。

Saturday, February 01, 2003 at 00:18:42 (JST)
へんな夢をみました
 札幌でお世話になった院生の影山君と、あるとき何かの勢いで「ブラジルに行こう」という話しになって、だんだんそれが本当のことになってきつつあるようです。先日はmangroveclubでのLimさん(お会いすることはかなわなかったけれど)の、”交感/模倣の能力を身につけた「無気味な」マスター”についての書き込みを読んで、それからひる寝をしたところ、奇妙な夢を見てしまいました。以下は夢の内容です。//ブラジル人のほとんどの人(とくに女性?)はその埋もれていた過去の記憶(自分を超えた過去?)を突然取り戻してしまう傾向がある。だから、言葉を発することに対してとても注意深い。なぜなら、言葉は発したとたんにその人を規定してしまうという意味で、演劇的な人格をひきうけてしまう怖れがあり、過去の”何か”を呼び出してしまう危険があるからだ。(この辺の直感力は途徹もないものであり、同時に一般の人たちがおしなべて持っている傾向なのだ。)彼らの憑依能力と今福先生の模倣能力が、合わせて想起される、、。//僕の中にマスターが入ってきて、こんなとんでもない夢を見させているとしか思えない夢でした。沖永良部での体験と、札幌で出会ってしまった吉増さんの地霊も不思議に伴ったまま、ブラジルでマスターとお会いすることで、どんな「心の地模様」が出来上がってくるのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながらもまた、ひる寝をしてしまうこの頃です。

Tuesday, January 28, 2003 at 11:13:46 (JST)
阪口浩一
 小話をひとつとはいわず、ふたつ、ひぃー、ふーぅ、みー、し……。私の亡くなった父は、沢庵の三切れと四切れだけは嫌がった。「三は身ー切る。四は死ーやんけー。」と。ご、五、後、む、六、無……。でも、これって何か暗くない?戦国時代みたいじゃん。喉すれからし、絞るようにして出す、祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きありか。何か背中をぐいっとひっぱるみたいでさー、死にたいのがっているみたい。

ケニアの港町、モンバサでの出会い。私は深夜から早朝にかけて優しく溶かし包んでくれるオールド・タウンの静寂を好み、足音を気遣いながらよく散歩した。石畳の気を損なわないように、暮らしからすこしだけ外れた歩き族は僕だけとは限らず、スーダン難民の同世代にもあったし、普段は盛り場でしかあうことのない、ソマリア女性とも柔らかく踊った。
でも、昼間の街はがらっと変わるダウンタウンの居酒屋で出稼ぎマサイの四人組に出会い、金魚の糞よろしく、彼らの後をついて周った。さすがに彼らの射抜きははやく、私が女性に気が多いことなど、瞬時にして見破られた。かれらは、アフロ特有のあの腹を抱えて笑いながら四つ足動物の真似をやって僕をからかっている。僕がスレンダーのソマリア女性を一瞬、見やった時だ。ばれないようにしてたのに……。
「こーいち、お前は「面食い」だな。キリンみたいな首の長いのが好きなんだなと」「そりゃ大変だぞ。そんなのを嫁にもったら。餌を探して何処へいくとも知れず、それじゃ、おちおち狩にもいけねえ」「牛みたいな女をもらえ。重心がしっかりと下がっている」
 その他にも彼らからは、「道」の歩き方、暴力的な気配を感じたときすれ違い方など、大事なことを教わった。今日現在まで、あまり身になっているとは思わないけれど、相変わらず、東京で、インパラやシマウマ、キリンちゃんにバンビちゃんを追い回している。書きながら、まなざしの斜め上の空に、彼らの腹を抱えて笑う姿を写し、思い返しているこのとき、敏感な彼らのことだから、きっと何かの気配を感じ腹を抱えて爆笑していることだろう。例えば、道に迷ったインパラを優しくからかっていたり、例えば、いつもより激しい牛の交尾を目撃していたり。
ジャンボ、ハバリ?ミズリサナ、さわ、さわ、スワヒリ(クワヒリ)語の挨拶のことば。エンドのさわ、さわは密林のコンゴを超えて西アフリカの部族でも共通だ。くっきりとした、子音と母・音。海岸沿いの穀類を砕いた餅状の食べ物は、ふう、ふう、そしてけんけん。カリブではなんと言うのだろうか?
アラブの種子がアフロの胞子と交じりあう、イスラームの調べ。私が心地よく感じるアザ―ンの調べはとうの「アラビア」では、決してなく、スワヒリやサハラを越えたブラックアフリカなどの渚に集う辺境だ。
それじゃ、ものぐさな僕だけれど、マサイのことを書いてしまったので、せめてでも、さわ、さーわの音感を身に纏い、少しでも「翻訳」の努力をして今日一日を過ごそう。いまいる「日本」のこの場所で。ちゃんと場所の時間軸に合わせろって。ありがとう、ファック、アドバイス、ブロー、まど、昨日の反省がしっかりと痛く残っているんだ。だから、解っているって、その方が、上手く行くってことだろう? なんにも、解ってないって? うるせえよ、おまえ、Mo better blues Yo,BROW.……〜ね、〜ne.

Wednesday, January 15, 2003 at 18:37:51 (JST)
自己ってなんなんだ
どうも義務教育のはじめの段階から、人の話しを聞き流して目の前のものをただ通過させるままにしてやり過ごす、そんなテクニックを身につけてしまったようで、だいたいの日々はらくがきのような絵を描いたり夢想に耽ったりして過ごしてきた。それが「社会に通用しないんだ」と気づいたのはつい最近のことなのだからのんきなもんだ。 //「自己を探究する」という行為を生活の中心に据えて、これはなんだか矛盾したようなことをやっているんじゃないかと、感じないでもなかった。自分の存在は、他の誰かによって認められることで確かなものになるのだし、外の世界に出ていろいろなものに触れて、そこで自分が活かされたらそれで良かったのかもしれない。それでも自分がそんなふうに透明になって、社会に入っていくことができないことを思い知って、愕然とした。重い。ひたすら重い。そして暗い。 //「だれでも、青春の日、人生にはじめてまともにぶつかる瞬間がある。そのとき、ふと浮かび上がってくる異様な映像に戦慄する。それが自分自身の姿であることに驚くのだ。・・・自分自身との対面。考えようによっては、きわめて不幸な、意識の瞬間だが。」 //ある時、島の聖所や風葬の跡に入っていって夢中でシャッターを切った芸術家に対して、マスターは「それは彼の自己発見の瞬間だった」と言っていた。まったく縁もゆかりもないような遠い土地の、特異な習慣に、なぜそんなふうにして打たれるのか。ともかくそれもまた、のっぴきならない「自分自身の姿」であるようだ。 考えてみれば、自己というものはあらゆる次元で存在してしまっているようだ。好むと好まざるとにかかわらず、自分の生まれ育った環境や、あるいは生まれるはるか以前に起きた出来事がどこかで決定的に影響を及ぼしている気もする。だからある時まったくいわれのないような現象や事物を前にして「これは私の姿だ」と直感したとして、やはりそれは的確な感覚なのだと思う。いや、それは狭い範囲での”私”を超えた私の姿というべきか。さらにもう一歩。 //「芸術は呪術である。まず己れを呪縛する。己れにとって、神秘であり、不可解である。自分自身、価値づけられない。」「共通の価値判断が成り立たない、自分一人、自分自身にも価値判断がわからないものに賭け、貫いていかなければいけない。まして他人の目、世間の評価などは、何の意味があるだろう。」「共通の価値判断が成り立たない。自分一人だけにしかはたらかないマジナイ。・・・ところがもしそれがいったん動きだせば、社会を根底からひっくりかえすのだ。」「芸術が理解を拒否していればいるほど、力なのだ。」 //もうそれが芸術と呼ばれようとそうでなかろうと関係ない。なんだかわけのわからないものに対して呼びかけ、突き進んでいく。ときにその、「なんだかわけのわからないもの」そのものになってしまう。そんな力が今必要な気がする。

Monday, January 06, 2003 at 23:27:51 (JST)
愚徹
昨年10月に放送された番組「新日曜美術館 おれの命燃やしきるべし/書家・井上有一64点の”貧”」が、先日再放送された。前衛的な作品を生涯に渡って刻み続けたこの書家の作品を、吉増さんが各地の所蔵美術館を周りながらその創意に迫っていくという構成の、好番組だった。僕が初めてそれを見たのは吉増さんの集中講義でのことだったが、吉増さんの「眼」を通して見たこの書家の作品とその生涯に、多くのことを学ばせられた。まず注目すべきことは、この書家の原体験とでもいうべき、空襲による仮死体験であろう。のちに夥しい死傷者の姿を描写した作品「噫 横川国民学校」となって現れるこの体験のことを、講義の中で吉増さんは「誰も説明したくもないし、説明できないこと」と、小さな声で、しかし臨場感の溢れる様子で言っていた。 加えて番組の中でとりわけ印象的だったのは、井上氏が木炭をもってそれを潰さんばかりの勢いで「ぐてつ、ぐてつ、ぐてつ」と書きなぐっているシーンだった。愚徹=愚に徹する。それはどういう意味なのだろうか。例えば彼のある日記にはこう書かれていた。「・・・スベテヲ否定セヨ、メチャクチャデタラメニ書ケ、何モカモクソクラエ、文字モクソモアルモノカ・・・」。文字どおり全てのものを拒絶する、壮絶なエネルギーだ。----- この、拒絶感を抱えて生きていくということそれ自体が、”愚に徹する”ということなのだろうか。あるいはそれは大勢の死者の中からたまたま自分が生き残ってしまったことへの、世界に対する自己の立場の表明のことなのだろうか-----。やはり最終的には、説明的な言葉は無意味なのかもしれない。 ところで講義が休憩時間に入ると、吉成くんがこちらの方にやってきて熱く「オレの戦後はここにある」と言っていた。そしてそんな言葉にも表されているように、実は井上有一という人の体験と作品は、僕らにもある連続性を持って受け止められることなのだ。さらにその原体験において、やはり井上氏と共通のものを抱えていたであろうダンスの大野一雄氏(”でたらめの限りを尽くして、思いきって、好きなように、、、”)や生け花の中川幸夫氏が、既成の表現形式を徹底的に突き崩そうとした「前衛」という表現の形態を、もはや取らざるを得なかったであろうことも、ここにおいては想像されるだろう。そこでは一つの安定した世界観をもって確立された一つの表現手段そのものが、もはやそれが成立する根拠すらも失ってしまったのだ。さて、僕らはこれらの先人から何を受け継ぎ、どのようにしてそれを生きることができるのだろうか、、、、。

Friday, January 03, 2003 at 21:19:05 (JST)
沖永良部 - 吉増さん - 札幌
エネルギーに充ちた札幌から帰ってきて、吉増さんの声の響きを耳の奥に残したまま、年が明けた。その余韻のなか、昨日は参拝客のひしめく大宮の街をポラロイド一つ持って歩いてみた。思えばこの”眼の新鮮な驚き”について教えてもらったのも、吉増さんの写真からだった。去年の2月に虎の門のポラロイド・ギャラリーにて開かれた写真展「瞬間のエクリチュール」は、その当時に撮られた彼の足跡や眼の跡をこちらが辿り直してみるという、希有な経験の場だった。映像に加えて、写真の余白やウラにはあの独特な筆跡でびっしりと文字が書き込まれてあって、小さく踊るようなその文字たちを読むためには、身を屈めてその目線までこちらが降りていかなくてはならなかった。そうやって出会う、時にぼやけたような映像と文字の迷宮の向うから、だんだんと詩人の世界が立ち上がってくる興奮を、僕は経験していたのだと、今思う。この写真展のパンフレットで、小沼純一氏はこんなことを書いている。「・・・吉増剛造のポラロイドは、(中略)はっきり撮る、きれいに撮る、という気など、まるでない。かといって、対象を無視するのではない。対象はそこにある。そこにあるけれど、あたかも、「そこ」と「ここ」の距離を、その「あいだ」をこそ捉えようとするかのようだ。・・・」。さらにたまたま見つけた新聞記事で、詩人はこうも言っていた。「写す瞬間、内面にはいろんな感情、言葉が渦巻く。その刹那の総体を伝えたい」。内面の言葉や感情が、対象に触れて溢れてくる時、詩人はシャッターを切る。それは対象をことさら美化するわけでもなく、かといって自己の世界に溺れてしまう訳でもない。その「あいだ」にある”なにか”、、、、。そしてその「あいだ」には、例えばカチーナ・ドールが媒介者のようにして写っている。詩人と世界を媒介する「もう一つの存在」が、こうして浮かび上がってくる、、、。 //沖永良部や札幌での一連の行動は、考えればそんな妖精のような存在に充ちた場だった。(そのせいか札幌の学生たちも、どこかぽかーんとした空気に包まれていた。)そしてああいう「場」を体験してしまった僕にとっても、日常の経験の質それ自体を変えさせる大きなきっかけとなってしまったのだった。しばらくは1人で、(あるいは”2人”で、、)この経験を反復して、学習していくのだと思う。

Wednesday, December 18, 2002 at 00:13:15 (JST)
3.琉大にて
3度目の上映は去年マスターが集中講義をしたという、琉球大学だった。英文学の石川先生の配慮のもと、昼休みの約一時間の教室を使ってそれは実行された。折しも朝から雨が降っていて、古い校舎は水を含み、よりその静けさを増していた。(ここではある学生が少し震えながら、「気温が20℃を割ると寒い。」と言っていた姿が印象的だった。) 待ち合い室では乱雑に物が置かれた大学の部屋の一隅に、まだ社会化されてない空間の自由な雰囲気を感じ、教室に入ってからはある学生が”アメリカによるイラク攻撃反対”の旨のビラを配りにきていた。マスターは講演が終わるとすぐに空港に向かわなくてはならなかったためか、あるいは昼休みという束の間の時を利用して講演が成されたためか、それはどこかで「別れ」の時を含んだ時間となった、、。その時、小さなテレビ画面に映し出された映像が、ふと僕の身体の中に入ってきた感覚を得た。ある一つのイメージから、これまで潜んでいた別のイメージが立ち現れてくる予感や可能性(=二重写しの映像)。それはまるで少しづつ潮がひいて干瀬が現れてくるようにして、「すでに失ってしまったもの」がもう一度現れてくることへの、期待を伴った胸のふくらみとなって意識されてきたのだ。あるいはそれは旅の終りの日にあって、もう一度それらの過ぎ去った体験を激しく欲望しようとする、自分自身の気持ちの投影なのかもしれなかった。こうして旅の終りの自覚と共に、一つの映像作品も強烈な印象を残して意識の渚に放擲されていくのだった。

Wednesday, December 18, 2002 at 00:12:11 (JST)
2.那覇にて
こうして次なる上映の地であった那覇では、日本語字幕は取り払われて、ポルトガルの音と映像の喚起するイメージ、さらにはその展開に、より重点が置かれるようになった。場所は「女性総合センター」という比較的きれいな建物の部屋の一つだった。始め、プロジェクターから映像が出てこないために職員が呼ばれ、何度も試みた末(沖縄の人の、「もう一回やってみましょうねー。」という言い方がなんともやさしく、やわらかい)、10分ほど遅れて後の上映だった。観客は知らず知らずのうちにどんどん膨れ上がって、上映後のマスターの講演は自然と熱気を孕んだものとなった。ホワイトボードに書かれた キーワード”Franja”(房)/”osos”(骨)/”Mar”(海)を足がかりにして、話しは奄美からカリヴ海の英語圏作家、ブラジルの日系移民へと、会場からの質問を受けつつも思ってもみない方向へと展開し続けた。我々の日常を規定しているクロノスの時間から離れて、”違う通路や回路、チャンネルをどれだけ持てるか”という方向性を示唆しながら、午前中に沖永良部の異界を彷徨ったそのままの格好で講演をしたこの日のマスターは、これまで見たことのないエネルギーを放っていた。

Wednesday, December 18, 2002 at 00:10:19 (JST)
1.沖永良部にて
マスターの映像作品「われらの時代の精神」は、ブラジル、韓国、札幌についで、沖永良部島で酒造会社を営んでいる新納(にいろ)さんのお宅で公開された。地元の郷土研究会の方々や島のウタシャを前に鍋を囲みながらの、より家庭的な上映会だった。さて、ポルトガル語の語りに日本語の字幕をつけて公開されたこの作品は、おそらく新納さんの次の一言によってその後の方向性を決定付けたといえるだろう。映像を観終わった後、新納さんはふとこんなことを言った。「今福先生の中には、言葉に対する懐疑のようなものがある」と。東京あたりの学生がそんなことを言ったとしたら僕は聞き流したかもしれなかったこの言葉が、辺境の地で、おそらく何十年と黒糖焼酎を作り続けてきたであろう人のふと漏らした言葉であることを考えると、少し恐ろしい気もした。

Wednesday, December 18, 2002 at 00:08:57 (JST)
「場所」と「表現」について
「今年になって沖縄にはもう5回も来ていて、その他にソウルに行ったりベトナムに行ったりブラジルに行ったりしている。・・・ある一つの原稿を書いているうちに、別の場所に移動してそれを書くことになることもある。そうすると自然にその”場所”が、書いているものの中に入ってくる」。ある朝食事をとりながら、マスターはそんな話しをされた。一つの場所においてさえ、その個別性からすり抜けるようにして他の様々な”場所”やそれについての記憶を誘発してしまうとすれば、様々な場所や風景を経巡るという経験において、それまで巡ってきた(あるいはまだ行ったこともない?)”場所”が「いま、ここ」に反映されるのもまた考えられないことではない。その日の朝食を味わいながら、またホテルの静かなレストランに映る窓の景色や、外の人々の往来に気を配りながら、僕はマスターの話しをそんな風にして聞いていた。同時に、ある「場所」と「表現」の関係について、あるいはそれが誘発する世界について、考えざるを得なかった。

Monday, December 16, 2002 at 22:05:01 (JST)
「学び」の可能性
まっすぐにものを見つめること、、、。東京を中心とした情報の網の目の中で生活していると、知らず知らずのうちに物事を斜めから、あるいは上から俯瞰してみることを覚えてしまっていたようだ。点々と連なる小さな島々の中の一つをマスターたちと巡ったとき、僕はそんな無意識に身につけてしまった世界とのかかわり方を自覚させられ、また深く改変させられることになった。そこでは皆が、地面からぷつぷつと沸き上がってくるような土地の呼吸とその律動にすべての感覚を開き、耳を澄ませ、手で触れて、味わいながら、瞬間瞬間がとても張りのある場になっていたのだ。土地の空気を受け取り、身体の感覚を通して出てくる言葉は、こうして自然に共有されることになった。ここでは身体は純粋に、その場に対する受容体となって化学反応を起こし、その意味ではより物質に近くなり、言葉は「身体の中を小川のようにチョロチョロと流れている」(松井さん)、そんな感覚の地下水脈のようなものを、それぞれに共有され、手渡されるべく造形された「筒」のようなものとしてあったのだ。光が織り成す純粋なイメージ、純粋な音、純粋な味、手触り、匂い、、、。ここには視線の届く限りの空間があり、生と死のサイクルはとてつもなく広々としている。実際島を回って数分としないうちに、「表現」という手段を通して都市空間であれほど固執していた「自分の存在」やらその意義やら、そんなことは吹き飛ばされてしまったのだ。物事をその達成された地点や結果から見て、そこに至ろうとひたすら努力すること。そして他人によるある「評価」をもって自分の力を確認し、安心を得ること。これら全てのことは、この膨大な宇宙を反映したかのような空間にあっては大した価値を持たない。ただ一心に対峙して、ひたすら見つめること。受け取ること。「学び」の輪が、ゆっくりと回り出したようだ。

Monday, December 16, 2002 at 00:01:58 (JST)
道端で
極小の穴から極大の穴まで、無数に穴のある島。マスターとお会いする予定になっていたその日、この島は雨が降ったかと思えば太陽が出てきて雲間から光の柱を幾筋も海へ降りそそがせる、可変的な天候だった。僕は午前中から自転車を借りて島を走り、その道端に、ある既視感のような不思議な懐かしさの感覚を得て、あるいはその曲り角や交差点などに何かが出現してくるような、暗示的な雰囲気を感じたりしていた。ひとしきり島を回って夕方になり、マスター達を迎えるべくホテルのロビーに何度か顔を出してみては引き返そうとしていた、その時だった。窓から虹が見えたのだ。外に出てみると島を跨ぐほどのでかい虹で、完璧なアーチを成して一方の端は海へ落ちていた。「虹の下を通ると、そのものは反対の存在になる」といったのは確かブラジルの作家だったか、ともかくそんな平行世界の出現する期待を抱きながら僕は海の干潟まで、七色のアーチを追いかけて走っていった。それからこの神秘的な光が消えていくのを見送ってからホテルのロビーに帰ると、そこにはマスターの姿の代わりに、写真家の浜田さんと南海日々新聞社の松井さんご夫妻の姿があった。折しも東京では大雪が降り、マスターたちは足留めをくっていたという訳だった。こうして奄美自由大学の「影の立役者」でもある松井さんには、これで初めてお会いしたことになったわけだが、その鋭い洞察と文章から受ける知的なイメージとは違って、柔らかくて繊細な方だという印象を持った。それから夕食をご一緒させて頂き、その日に道ばたに感じた不思議な既視感の話を持ちかけてみると、松井さんはこんなふうに応えて下さった。「道路を作る時はまず端からつくるから、端っこがしっかりしていないと道はすぐダメになってしまう。道ばたには草や花を植えたり溝を作って水を通したりもする」と、、。人の手が入り、道を通る者/物の記憶が自然にそこに宿る。にわかに道ばたという「場」が、人間の生活における象徴的・宇宙的意味合いを帯びてきたような気がした。「房でその織物が分かる」とはマスターの引用していたベンヤミンの言葉だったが、街路を人間の経験と記憶の織物として見る時、ひょっとしたらその房は道の端っこにあるのでは、、、そんな実感が持てた一日だった。

Sunday, December 15, 2002 at 00:14:19 (JST)
奄美の色
 翌日、船で数時間ほど揺られた末、ある島にたどり着いた。晴れた日には沖縄本島の北限の影が良く見えるこの島は、また奄美群島の南限に位置する境界の島だ。夏にはダイビングなどの観光客でにぎわうであろうこの島の中心街に入ると、12月という季節のためか、そこはひっそりとしていた。建物の壁は白く、太陽を反射させ、また夜になると不思議な色のライトで幻想的に照らし出され、一日の時間によって様々にその表情を変えていた。あるいは、打ち捨てられて風化したような小屋や、どこかモダンな、時代から置いていかれたような建物。それらは人々が経てきた経験や記憶の層を、様々に物語っているように見えた。これらの風景に夢中になってシャッターを切りながら、ふと最近読んだ『山口昌男著作集』の中で触れられていた「都市・劇場の日常と脱日常の二重の機能性」という言葉が思い出された。人間の経験が生まれ、その痕跡を記憶としてとどめる都市の様々な相と、想像力において結ばれる劇場という場の連続性----。確かにある街を歩くということは、その場を経てきた人々の姿の跡に自己の姿を投影してみる、劇的な体験であるようだ。そしてこの体験が、琉球とヤマトという力作用のはざまにあって、内部に様々な方位を孕む奄美群島という場によって可能であることもまた事実のようだ。奄美大島の写真家・浜田康作さんのお話しによると、奄美の色は「南国的な原色であるというよりは、すべての色が混ざって撹拌された、灰色である」ということだった。植物相や風景、気象、文化、権力的な影響関係と、それらの混淆。「昔は台風の時などは家族でロウソクを囲んでじっとしていて、その結果人をより内面に向かわせる」という、そんな奄美の色、、、。

Sunday, December 15, 2002 at 00:13:08 (JST)
物乞いのおじさん
どこまでも続く迷路のような市場を初めて歩いた時、かつてひとりの物乞いに強烈なインパクトを受けたことがあった。そのひとは白目を向いて膝を地面に擦るようにして歩き、首はやや傾いて、手首や肘の関節もどこか不自然に曲げられていた。たしか片方の手にはピアニカが握られていた。(このままこの人は生きていけるのだろうか。)そんな彼の姿を見て、当時の僕は戦慄を覚えたものだったが、その後この街を訪れるたびに彼の無事を確認し、またこの街の懐の深さに感心してもいた。そして今回もこのおじさんを見つけることが出来たのだが、しかしどうもいつもと様子が違った。すっきりと散髪されて、どこか身ぎれいになった姿。それから再び夜になって彼を見かけた時、なんと彼はその両足でまっすぐに立ち、ハーモニカでクリスマスソングを吹いていたのだ。(清し、この夜、、、)その姿はどこか神々しくさえあった、、、。いや、だまされてはいけない。あの印象的な醜くて不自由な姿は、おじさんの演技だったのだから。あまりにも完璧な自己演出に、純粋な旅人はすっかりだしぬかれてしまっていたのだった。

Friday, December 13, 2002 at 16:04:42 (JST)
12月5日・那覇
 終日市内を散策しようと思い、朝早くの便で那覇まで飛んだ。空港では強い原色の着物を着けた女性が観光客を出迎え、家族の帰りを待つ人達、あるいは上下を迷彩服で包んだアメリカの兵士が壁に寄りかかりながら恐ろしく暗い眼をして立っている。一年のどの季節に来ても充満している、軟らかい空気と強い日射しの中で、何かと何かが擦り合わされて熱を発散させている、今回ほどそんな印象を強く与えられた時はなかった。それからいつものように空港からバスに乗り、落書きだらけのシートに座ってそれらの文字をぼんやりと眺めていると、おそらく走行中に書かれたためであろう、震えるような筆跡でこう書かれているのを発見した。「世界は愛に飢えている」。さまざまな種類の人間が交錯する列島の波打ち際において、おそらくまだ10代の青少年の衝動によって刻まれたであろう、どこか鋭く暗示的なメッセージ。ビニールで被われたそのシートは日射しを反射させながら、同時に過ぎ去る街の景色を逆さまに写し出して、バスは街に走る。

Friday, December 13, 2002 at 16:01:08 (JST)
われわれの時代の精神
 海辺にかかる幻のカーテンが引かれて/過ぎ去ったものたちや、もう取り返しのつかないような出来事が/再び姿を顕しはじめて/「待つ」ことの胸の膨らみの中で、、、/海へと抜けるトンネルは/新たな生への入口か/珊瑚の棺の骨片は/新たな死への入口か、、、/かで・みにや・かしゃさ・かで・みにや・かしやさ・・・・

Monday, October 21, 2002 at 01:39:24 (JST)
長く嘯く詩人
18日(世田ヶ谷文学館/西脇順三郎展での朗読会)と、20日(多摩美術大学での講演「歌の道をたどり直す」)、続けて吉増剛造さんのお話しを聴きにいった。まず、会場に入ると、吉増氏は銅板に文字を打ち付け、それを撮影するという行為を繰り返していた。周りには自然に人の輪ができて、その場で起こるほがらかな談笑とともに、銅板の上にはインディオの人形、宮古島で拾ったという宝貝、アイヌの棒などが賑やかにざわめいていた。こうして様々な音や声とともに、講演は始まる、、、。「原始人詩人」西脇順三郎のもつ、閑寂、哀感、”宇宙的な心細さ”について。そして西脇氏自身の朗読のテープから、その独特の越後弁の質感と、”動物と人間のあいだのような、長く嘯くような呼吸”を感じとっていく。あるいは斎藤茂吉、折口信夫、寺山修司、与謝野晶子ら、古今の歌人の息づかいから、歌の発生してくる初発の地点、心の動きの根を探り、それぞれの歌に響きあっている、風景とそれに対する視線を導き出す、、、。やわらかく、それでいて鋭い声、体の身ぶり、言葉と言葉のあいだの間など、普段文字だけを追っていた僕にとって、吉増氏のメッセージが豊富な次元で発せられていたことは驚きだった。そして歌に詠まれている風景と、それに接した時の詩人/歌人の、各人の世界に対する新鮮な驚きや感動を、一次的な「声」をもって読み解いていく吉増氏の試みに、聴き手として、詩の発生する現場に立ちあっているような静かな興奮があった。家に帰って、吉増氏が西脇順三郎氏に対して使っていた言葉”長嘯(ちょうしょう)/嘯(うそぶ)く”を調べてみると、意外にも深い意味の内容が書かれていた。嘯く:1、口をつぼめて息を大きく強く出す/2、鳥や獣が鳴き声を上げる。吼える。/3、詩歌を口ずさむ。、、、、そこには、詩や歌を詠むという行為が、人間の声を用いて成される、自然に対しての”動物的な交歓”といった次元にまで及ぶ、古代人のような感覚がほのめかされていたのだった。

Friday, October 18, 2002 at 00:10:49 (JST)
無題
 さきの連休中、そうとは知らずに新宿の街へ出てみると、夥しい人の群れに圧倒された。一様に楽しそうな顔をして歩いているその表情は、日々の緊張に裏付けられた休日の解放感をよく物語っていた。が、時間を秩序立てて構成し、それに従って行動することをやめてしまった代わりに、様々な変動と、未来の予測に対する不可能を引き受けてしまった僕の生活からすると、これら休日の光景は少しばかり奇異に感じられた。//W・ヴェンダースの「東京画」は、彼の尊敬する小津安次郎への哀惜の念に彩られているが、同時にそれは小津の撮った東京と、ヴェンダースの見た現在の東京の変貌が描かれてもいる。ここではヴェンダースの独特なやり方で、都市の持つ不毛性が執拗に描かれる。テレビ映像で氾濫した街。パチンコに没頭する人々や、ひたすらゴルフの練習場で球を打つ人々。時にこれらの人々は、カメラによる外部からの視線に気づきながらも眼をそらし、努めて自分の世界に埋没しようとしていたように感じられた。//人がどの世界や共同体に住むかを選択し、どのような物語りに自己を参加させていくか、、、。ある文化や生活の営みがみずみずしく新鮮であるためにも、強度と柔らかさを持った物語と、それに対する運動や言語の体系が、今ほど必要な時もない。

Tuesday, September 24, 2002 at 19:46:05 (JST)
岡本太郎とメキシコ(3)
 岡本太郎という人が、一連の著作や作品を通して追求してきたことは、何だったのだろう。それは自然に存在する物質と、人間との、一次的で根源的なかかわりであり、そこから発生する信仰や共同体の姿をつきとめ、さらにそれを今に問う試みだったといえるかもしれない。すでに、近代的で個的な実存に対する苦悩と孤独に充ちた戦いを、たとえば彼はこんな形で表現していた。「・・・そういう時代にこそ、民衆をひっくるめて、もっと精神的な、無償の革命にたちむかわなければ、社会全体が救われない。いわゆる先進国では飢えよりも、生活条件よりも現時点のこの人間的空しさとどう対決するかという、一そう深刻で、一だんと厄介な問題でがんじがらめにされている。存在にとっての緊急な課題である。」(『宇宙を翔ぶ目』p137)。もはや生活の中で、”自然”やそこに含まれる一次的な”物質”と対決する機会を失い、そのなかで営まれる共同体の結びつきからも無縁になってしまった現代の個的な生存のなかで、それらを目撃し、記録し、思考し、”全人間的な幅を持って”新たに生き直すべく作品を創造するという、より自由な身体を獲得しようとした岡本太郎の挑戦が、ここではうかがえる。そしてメキシコという場所が、彼にとってひとつの啓示に充ちた場所であったことは、もはや疑い得ない。彼の残したテクストと、彼に啓示を与えた土地土地は、いまもひらかれたままでそこにある。 

Tuesday, September 24, 2002 at 19:44:21 (JST)
岡本太郎とメキシコ(2)
 2日後、様々な疑問を抱えたまま再び美術館を訪れると、次に僕を出迎えたのは”カフェテリアTARO”で食事前の、井村さんと高野さんだった。そのまま一緒に食事をとり、この日上映を予定していたエイゼンシュテイン「メキシコ万歳」とブニュエルの「昇天峠」をみる。ここで、僕はエイゼンシュテインによるメキシコのあるカットがとても気になってしまった。画面を両端に分割する2つの「石」の遺跡と、そのあいだから覗いている空の画。そこには、時間をたっぷりと吸い込んで今に存在する「石」の不動性と、常に刻々と変化しながら流れる空の流動性とのコントラストがあった。映画の中で、”プロローグ”として挿入される言葉は、印象的にこう語られていた。「もしかすると、それは今日かもしれない。もしかすると、それは20年前かもしれないし、もしかすると、千年前かもしれない、、。」僕が気になったのは、岡本太郎もこれとほとんど同じ構図で遺跡という「石」を撮っていたからだった。例えばウシュマルの遺跡を撮った写真では、背景の空には鳥が舞っているのが見える。それは、圧倒的な存在感をもって「石」が蓄えてきた、”過去”の時間と、刹那的ともいえる”今”との、決定的な対決を際立たせていた。以下は岡本太郎による言葉。「死と生の交歓。永遠と瞬間の交錯。それを無限に内蔵して沈黙する大地の上に、現代メキシコはおおらかにほほ笑んでいる。」//「石」というマテリアルに対して、岡本太郎が接近するそのやり方は、直感的でいて、同時にそのまま”人類”を見渡す、透明で醒めた視線を持っている。「石というのは、その固さにおいて、永続性において、また冷たさにおいて、全く人間存在と反対なものである。」「石の上に血が流れても、石はそれによって全然条件づけられないわけだ。石はずうっとそのままであり、その上に流れているのが、人間の文化史というか、人間存在の象徴であるような気がするのです。」(泉靖一氏との対談『日本人は爆発しなければならない』より)

Tuesday, September 24, 2002 at 19:40:59 (JST)
岡本太郎とメキシコ(1)
 小田急線の駅を降りて、モノレールの線路の残骸を見ながら河を渡り、くねくねと続く道を登っていくと、やがて緑地の中に大きな建物が出現する。いくつか電車を乗り継いで来て、ぼんやりと歩いてきた僕の頭を突然刺激したのは、岡本太郎の確かこんな意味の言葉だった。「真の創造とは、誰かの模倣であってはならないし、伝統の模倣であってもならない。この世にこれまでなかった、誰も見たことのない、全く独自の新しいものを創り出すことだ。」(会場内にある小さなモニターには、ジェスチャーを交えながらフランス語で語る岡本太郎と質問者の一連のやり取りが何度となく繰り返し流されている。)つづいてモダンな意識を持った、この孤独で戦闘的な芸術家は、映像の中で、ある作品の写真を提示する。太陽をモチーフにしたその作品は、西洋的モダニズムとも、日本的な伝統趣味とも無縁であることを説明しながら、「創造」に関して、彼はなおも持論を展開していく。ふいに、質問者がこんなことを訪ねる。「それは、あなたが子供をつくらないことと関係していますか?」。ここでコミュニケーションの階梯を一気に駆け上がるようにして、岡本太郎は答える。「私は私の父でもあり、私の息子でもあり、全てである。」 //それから彼の撮ったメキシコの写真を見た。特徴的なのは、これら一連の写真が、「そこに何が写っているのか」を、ストレートな形で提示していること。たとえば、混沌としたモノが並ぶ市場と、そこにたむろする人々の群れ。なにか自信に裏付けられたかのような眼。様々なモノを扱ってきた痕跡が刻まれている手。そこには強固な共同体を根にして、個々の身体と、ある場所で生きていく為に必要な「知」が、しっかりとした結びつきを保って生きている人達が写っていた。さらにその後、様々な具体的な記号と溶け合うようにして同時に描かれた、めくるめく色彩のほとばしる絵画を前にして、僕はすっかり考え込んでしまった。岡本太郎の眼を通して、ある特定の土地とその共同体のあり方に”美”を発見したその時点で、既にそこから自分が疎外されている(”そうはあり得ない自分”に気がついた)ことと、同時に、それらを様々な記号を駆使しながら呪術的に再現した岡本太郎による絵画の「謎掛け」のあいだにあって、自分がなにか取り残されたような感じになってしまったのだ。岡本太郎はメキシコになにを見ていたのだろうか。そしてその創作はどのようにしてなされたのだろうか、、、。//すでに閉館の時間は迫っていた。

Friday, September 13, 2002 at 22:59:50 (JST)
阪口浩一
 座るか?ここに、座れば。寒いとこからきたんだなあ。何飲むか?酒はないよ。はい、ミルクティ。元気か?無理すんなよ。

Wednesday, September 11, 2002 at 23:35:26 (JST)
無題
初めて舞踏の稽古場に通いだしたのはもう7年も前のことになる。その時はわけも分からずに身体をこわばらせ、白目をむき出しにして集団的な狂乱状態に身をまかせていた。そうやってやっと解放されるなにかがあって、それがないと日々が不安で頭がいっぱいになってしまって仕方がなかったのかもしれない。それでも身体的、精神的なこわばりがピークに達した時、僕はなぜか沖縄に来ていた。たった3日間だけしかいなかったけれど、読谷のチビチリガマにいって恐ろしい拒絶感を前に、逃げるようにしてその場から帰ったり、おかまの舞踊家に出会ってそのまま家に遊びにいって誘われたりしながらも、その場所でどこか自分のからだが柔らかく溶け出しているのを感じた。「この島々の文化の中には本土で感じられる、緊張と硬化でこねあげられた固さがないことに気づいた。」と、最近読んだ本の中で島尾敏雄は書いていた(『島にて』)。今から思えば、僕はあの時初めてボーダーを越えたのかもしれなかった。日常の中で、それまで自覚しないままに形作っていた自己とその周りのイメージは少しづつその輪郭をぼかし、伸び、縮みし始めた。そして僕の身体の動きは思考の回路と共に、徐々に流れるようになってきた。//サルガドの写真やケン・ローチの映画に触れて、その言葉や身体に徴候のようにして現れる「ボーダー」に自覚的になったけれど、それは自分の中のボーダーを常に問いかける訓練を身に付けることでもあったのだと、気がつきました。

Tuesday, September 10, 2002 at 23:38:12 (JST)
ブレッド&ローズ
 Borderが、「壁」という実体を持ったマテリアルなものであると同時に、人々の感情や行動を無意識のうちに規定する、非実体的でイマジナルなものでもあるということ・・・。実際にメキシコからアメリカに国境越えをする緊迫したシーンから展開するこの映画は、移民労働者として生きる人々にとって、様々なかたちでBorderが存在することをほのめかし続けていた。例えば映画の中で、待遇の改善を求めてデモをする労働者とそれを取り締まる警察官が出てくるが、両者には肌の色による違いはあまり見られず、代わりにそこで両者を分けていたのは、「職業的な立場の違い」というBorderであった気がする。(忠実に取り締まりの職務をこなす彼らもまた、”もともとは同じ移民だった”という印象が拭えなかったが、、、。)一方で、ラティーノ、ロシア系、黒人などからなる労働者の間にも、それぞれの生い立ちや現在直面している環境の違いによって、必ずしも一つの共同体としてのまとまりを得なかったことを、映画は語っていた。ここでは一人の人間をとってみても、その人を「他の人」と分ける要素は決して一枚岩ではなく、そのラインは断層や亀裂を含みながら、様々に入り組んだ引かれ方をしていたのだ。ぎりぎりの現実を生きていく為に選択せざるを得なかったそれぞれの行動の中にあって、激しい愛情やその裏切りといった、赤裸々でむき出しの感情の噴出が、印象深く画面に写し出されていた。そして英語とスペイン語を切り替えながら喋るこれら登場人物たちの、顔や身体に現れる表情は、常に揺れながら、その姿に優雅さと野卑を入り混じらせ、愛情と憎しみの感情を共に育て、恐れと希望の感情を同時に抱かせていた。こうした中で、全編を通っている主人公マヤの、エネルギーに満ちた越境への「意志」が、時に痛快な笑いを生みながらも、観る者を力づけていた・・・。ケン・ローチ監督の「ブレッド&ローズ」は、実際の配役も含めて、まるでドキュメンタリーを見ているようなリアルさで語りかけ、それは同時に今まで僕の中で形成してきた”Border”のあり方を考えさせる、大切な機会になった。

Thursday, September 05, 2002 at 23:48:30 (JST)
サルガドに出会った日
サルガドの写真に、まとまった形で最初に出会ったのは、メキシコの本屋ででした。「An Uncertain Grace」と題されたその写真集には、アフリカの難民を撮った作品が載っていて、死に直面した人達が写っているその痛々しい光景を、はじめはきちんと正視できなかったほどでした。その後友人に図書館で借りてもらってみた「人間の大地 労働」と、今回の展覧会「EXODUS」を通して、あることに気づくことができました。まず、それらのイメージは人々のぎりぎりの生活を写しているとはいえ、これらの人達が、決して文明国が消費する意味での”救済されるべきかわいそうな人々”として写ってはいないことでした。その代わり、過酷な状況から浮かび上がる人々の顔には、ある充実感のようなものがただよっていて、それらの顔は赤裸々な、むきだしのナマの姿をした感情の現れであるように思えました。考えたら、僕の生活している周りでは常に”新しい”イメージやモノの提供と、その時事刻々の更新があたかも世界を前進させているように装っているけれど、サルガドの撮った人々はそんな世界にストップをかけているようにも見えたのでした。例えばアメリカ - メキシコの国境線沿いで密入国の機会をうかがって地面に横たわる身体の強度に、それが常に”今”に対して何らかの信号を発してくるのを感じたのです。あの日、渋谷の街がいつもと少し違った雰囲気に包まれるのを感じながら、その街を大きな身体で歩くサルガドの後ろ姿に、彼の訪れた土地やそこで撮ってきた人達を想像してみるのでした。

Friday, August 30, 2002 at 23:55:23 (JST)
上田で踊ってきました
東京を中心とした舞台活動に違和感を覚え続けていた僕にとって、「上田」という場所の名前は、はじめからどこか解放感をもって響いていました。四方ぐるりを山に囲まれて孤立した、盆地という小宇宙の中に、打ち捨てられたようにして立っている木造の廃校。およそ100年前に建てられた校舎に集まった雑多な人達(美術家、写真家、ダンサーなど)の声に、ひっそりと静まりかえっていた校舎はその息を吹き返し、地元の子供たちやおばさんたちを巻き込んで徐々に大きく膨らんで展開していく、、、。それは眼に見える部分だけを比較して評価の基準を設け、良し/悪しの判断が付けられる狭い意味での”表現”の場としてではなくて、様々な人びとがそこに集いあい、交差し、流れる運動体として、常に開かれているような場であったと思います。一方で、床の木目にはその場所を通過してきた人達の手の跡、声の跡が静寂とともに染み着いているのが見て取れ、色々な人びとや時間の接点に立ってその場所で踊ることへの、ある種の贅沢を感じました。そして僕が踊っているあいだにも、落ち着きのない子供たちはその場を離れたり眠ったり喋ったりトイレに行きたくなったりとその欲望をストレートに出し、外では蝉時雨や虫の音が聴こえ、風が吹き込み、しかし同時にそれらがお互いを邪魔することなくひとつの時間として流れているような、そんなパフォーマンスができたような気がします。

Saturday, August 17, 2002 at 23:44:06 (JST)
沖縄マンダラ
作品の横には、簡潔に、それらが撮られた場所と年代が付されている。ところが、明記されたある「場所」には、特に”そこ”と同定できる何らかの徴が写っているわけではない。さらに、作品を始めから順番に観ていくとき、それが必ずしも撮られた年代順に従って時系列的に並べられているわけではない。そのためか、ある特定の「場所」と「時間」は観る人のなかで様々に置き換えられるようにして、「ここ」と「彼方」は遠い視線の中で溶け合って入り混じり、「現在」は同時に「過去」に流れ込み、「過去」はまた「現在」に生き生きと顔を覗かせる・・・・。そんな光景を前にして、僕は目が眩むような思いで写真の前に立っていました。そして、「視線」について。おばあさんを少し斜めから撮った写真。学生帽を被った少年の背中。浴衣を着た黒人の後ろ姿。サングラスを付けてこちらを見ているアメリカ兵と、その肩越しに身を隠すようにしてカメラをうかがうもう一人のアメリカ兵。これらの人達は、確かにある”陰影”をその表情(身体)に浮かび上がらせているように思えました。強烈な太陽の日射しが人を照らすようにして、東松照明はおそらくシャッターを切ったにちがいない。そして日射しが陰を刻むようにして、カメラを前にした人達の身体にも、ふいに陰が浮かぶ。写真家はそこを追っている。そんな印象を持ちました。今回沖縄に行って感じたことのひとつは、ますますその土地が開発されているという生々しい実感でした(モノレールなんて通してだれが利用するんだろう、、、)が、それでも島の植物や建物や、人びとのからだにくっきりと浮かび上がる”陰影”までは消すことができない、そんな確信も持って帰ったのでした。

Thursday, August 08, 2002 at 15:21:55 (JST)
レダの末裔
那覇で出会った古本の一つに、米須興文「レダの末裔/アイルランド・ポリネシア・沖縄」(ひるぎ社)がある。タイトルだけでも期待が膨らむその本(著者については、マスターの本でもすでに触れられていた)を、早速読んでみた。  詩の生まれる土壌であると同時に工業化、合理化の波にさらされているアイルランド。著者が、西洋化の過程を解きあかしつつも「土着文化喪失者としての同輩」を見い出すタヒチ。そしてこれら「異民族の圧倒的な力による支配のもたらした民族文化の荒廃」の風景を前にして、著者が常に立ち返り、喚び起こすのは”沖縄”の風景だった。被支配者として、戦争(と戦争が使用するレトリック)の犠牲者として、時に回想と詩を交えながら語られる沖縄は、痛々しい。が、その後自らを「コスモポリタン」として、著者が”沖縄”の風景を様々な土地に具体的に読み替えていく身体と想像力の飛躍を獲得したことが、僕にとっては救いのように感じられる。そして様々な風景や記憶を身に纏い、「大小の街や、名前もついていないような土地を、等価に(ときに無差別に)並べ」ながら歩く試みは、僕らに引き継がれているひとつの課題のような気がしてならない。

Wednesday, August 07, 2002 at 00:08:06 (JST)
中村達哉
沖縄本島から、とある小さな島に渡った。本島の人が「神の島」というその呼び方に、「簡単にはそこへ立ち入れない」といった緊張を持ち、しばらくの躊躇の末のことだった。真夏の強い日射しの中を歩いてみると、しかしその島は案外開けていて、道の木陰のいたる所には乳母車に座って休んでいるオバアさんが点々としていた。挨拶をし、自分がどこから来たのかを告げる。すると、「ニホンジンか。」などと返ってくる。どこか楽しい気分になる。そんなふうにして、時には一方的なオバアさんの語りを聴いていると、どんな話しの流れだったか、”○○さんの嫁は名護から、○○さんは大阪へ、愛知県の岡崎へ、ハワイに行ったのもいるはず、、、”と話してくれた。別れ際には、”ここに来たら誰でも自分の子のように親切にしてやるんだ。自分達もまた島を出て別の場所で誰かの世話になるから”とも言っていた。ここまで聞いて、僕の中で勝手につくりあげていた「閉鎖的で神秘的な島」のイメージは吹き飛んでしまった。そしてその代わりに発見したのは、一つの島にその出自を定めているように見えた人びとが、実は無数の別の土地から集まっていて、また様々な別の土地に生きる運命を持っているという事実だった。 東京で10年以上バスの運転をしていたというノロの息子さん。戦争時に住んでいたパラオからフィリピン、台湾へと戦火を逃れてきたという宿のおばさんの話。東京や大阪に行ったらタコヤキやお好み焼きを食べたいといっていた小学生の素朴な憧れ、、、。様々な土地の声によって彩られ、束ねられるようにしてできている島。様々な土地での出来事やその記憶がここに集まり、またここから世界が展開していく。オバアさんたちの話している、理解できない言葉の繁みの向こうに、僕はそんな世界を想像していた。

Tuesday, August 06, 2002 at 01:11:11 (JST)
中村達哉 <miminari@nifty.ne.jp>
   7月末日。那覇の小さな古本屋に立ち寄ると、その時主人は食事中だったらしく、遠慮がちに本を眺める僕にも天麩羅とコーヒーを振る舞ってくれる。この二つの食い合わせにさらに戸惑いながらも思いきって主人に話しかけてみると、彼からは曖昧な反応しか帰ってこない。かといって、そのそっけない態度から「突き放された」という感じは受けず、むしろどこか安心感のようなものがその場を包む。//シマの距離感覚。シマの地形やその特質を知ろうとし、またそこに住む人の声に耳を傾けようとするとき、いつも沈黙の、あるいはどこか言葉を越えた領域に対面させられる。これらの領域に注意を払いながらも、そこから何らかの”声”を、”ざわめき”を引き出すことはできないだろうか。そしてそれらの”声”をからだに入れた時、僕の中の”声”はどのように変わっていくのだろうか。ちょっとおおげさかもしれないけれど、これから少しづつ書いてみたい。