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以下がcrossroadsの1999年の過去ログです。

 


Saturday, January 02, 1999 at 01:02:19 (JST)
Ryuta Imafuku <cafemaster@cafecreole.net>
無数の人々が行き交う十字路。立ち止まり、見渡し、声を掛け合い、しばし佇み、見知らぬ人々と即興的な対話を楽しんでは去ってゆく言葉と想念の交差点。控えめに、このサイトへの自らの通過だけを署名として残していくこともできる。宣伝や物売りや屋台や辻音楽師も、それがこのヴァーチャルな十字路の喧噪と混沌とを創造的に増幅するかぎり、大歓迎。もっとも気軽に書き込める当カフェのゲストブックとして利用されんことを。

Tuesday, January 26, 1999 at 08:36:40 (JST)
天野由香 <yak.amano@originet.com.br>
ほんとうは、気軽に描き込みたいけど、 今の天野由香には、書き込むことで精一杯。 htmlなんて、面倒なことをすぐ忘れてしまう私の脳みそ。 次は、描き込めるように、説明書を読んでみよう。 と、思ったら、まだ何も無かった。 自分のホームページのソースを見れば良いのですね。 がむしゃらに、掻き込んでも、欠き込んでしまうだけだからね。 ウィンドウズの漢字変換ありがとう。 おかげさまで、こんな変なことを書き込んでしまいました。

Tuesday, February 02, 1999 at 09:45:38 (JST)
天野由香 <yak.amano@originet.com.br>
こんにちは。 少なくともだれかが読んでくれることを期待して書きます。 1999年も、もう2月。 やっと目が覚めたような、まだ眠いような、そんな毎日を過ごしながら、 今日の初耳をお伝えしよう。 最近NHKの忠臣蔵をよく見ているので、なんとなく そんな口調になってしまうのでござる。 まあ、初耳というのは、あれじゃ。 そう。 鳥じゃ。 そう。 環境保護団体は、保護すると同時に、現地調査をする機会の与えられなかった future biologists を 、育てているそうじゃ。 世の中には、ほんとうに、おめでたいことが多いのう。 ついでだが、 私も幸せじゃ。 しかし、まだ出来ぬのかのう。 htmlの使い方は。。。 わたしゃ、面倒くさがり屋なのじゃ。 あの、ちらっとみえるデザイン、とってもいいのう。 だれが作ったのかのう。 不思議じゃ。

Tuesday, February 09, 1999 at 13:39:55 (JST)
Hisayo <jn8h-tjt@asahi-net.or.jp>
楽しい仕掛がいっぱいのrenewalですね。 ところで今日は私の誕生日なんです。前は馬鹿にしていたけど最近は祝ってもらうのも楽しいと思うようになりました。なにしろ生まれたんですからね。というわけで、ご一同、一緒に歌いましょう。

Friday, February 12, 1999 at 19:07:17 (JST)
天野由香 <yukyuk@fujitsu.com.br>
Dear Hisayo san ポルトガル語では、ハッピーバースディも、ちゃんと歌詞があります。 Pa-rabe-ns pra- vo-ce- Nesta da-ta que-ri-da- Muitas fe-li-ci-da-de-s Muitos a-no-s de- vi-da- (Congratulations to you On this dear day Many Happiness Many years of life) この後に、ろうそく消しの歌もあります。 なんとパーティ好きなブラジル共和国。 私の誕生日は、4月23日で、24歳になります。 ウサギ年です。 ぴょん。

Saturday, February 13, 1999 at 16:23:40 (JST)
toshi <imura@gc4.so-net.ne.jp>
ボーダーの香具師

Saturday, February 13, 1999 at 21:28:57 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
カフェ・クレオールを開けてみたら、クレオール・ネット開設!びっくりしたな。新企画、楽しみにしています。
管さんの「コヨーテ歩き読み」を見ました。早速、『新・本とつきあう方法』を買いに走りました。久しぶりに中公新書をながめ、生田滋著『大航海時代とモルッカ諸島』と山田廸男著『船にみる日本人移民史』も買っちゃいました。
今日は休みだったので、『新・本とつきあう法』をあっというまに読み終わりました。津野さんのように本の不要な箇所をビリビリ破るという大胆な読書法を私はやれずに、本と紙屑の山に埋もれて一生を終わるのでしょうね。
一番興味を持った箇所は「電子本とのつきあい」と「インターネットでの読書」でした。私の場合はメール(メーリングリストも)と気に入ったホームページへの書き込み、そして、文字がほとんどの私のホームページ(最近、やっと写真を入れました)程度の利用ですが、ほんとうにおもしろい変化がありますね。
今福さんの「ちくま」での「シェイクスピアと“Americas”」の連載も「クレオールネット」に移行するとのことで、楽しみにしています。
新サイトになったことですし、管さんの「歩き読み」に影響され、今までの購入書籍の記録は止め、読んだ本のメモを時々書き込んでいくことにします。できたら、印象深い映画についても書いてみたいと思っています。

Sunday, February 14, 1999 at 19:19:36 (JST)
FUJIMORI <fwip3265@mb.infoweb.ne.jp>
ときどきお邪魔してるFUJIです。仕事では現在自治体で保健福祉のプラン作りを担当し、プライベートではキューバンサルサダンスにはまってます。これまでのat homelessでは、「Pax polyglossiana.(中略)多言語併用による、絶え間ない調整と交渉による平和。創造的葛藤と衝突をはらみつつ、対話と新たな語彙の開発にいそしむ実践的平和。」という菅さんの書き込みが、自分の仕事とも重なって(重ねてみたくて)印象的でした。(たまには自己紹介を、ということで)

Sunday, February 14, 1999 at 23:08:04 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
野田正彰著『戦争と罪責』(岩波書店)、渡辺和行著『ホロコーストのフランス〜歴史と記憶〜』(人文書院)、そしてP・ヴィダル=ナケ著(石田靖夫訳)『記憶の暗殺者たち』(人文書院)と読みついできたが、『記憶の暗殺者たち』を読み終わった。その硬質な文章と歴史家の想像力に深い感銘を受けた。
この本は「ホロコースト、アウシュヴィッツのガス室はなかった」とする歴史修正主義への批判の書としてつとに著名であるが、私の感銘を受けたのは少し違ったものであった。ヴィダル=ナケ氏はギリシャ史学が専門だが、この本のなかに「スパルタの奴隷の壊滅」という一文がある。それはギリシャ古代のスパルタでの奴隷の虐殺にふれた文章である。
ギリシャ古代の歴史家・ツキディデスの文章を紹介した後、ヴィダル=ナケ氏は「部分的にコード化されている言語で書かれた、実に、奇怪なテクストである。スパルタの奴隷の<姿が消え>、彼らは<除去される>(<滅ぼされる>とも翻訳ができるかもしれない)わけだが、殺人のこと、死のことを指し示す言葉は発されていないし、犯罪に使われた武器もわからないままである。」と問題の核心を示し、その謎に迫る。
詳しくはこの本を読んでもらうしかないが、そのなかで印象に残った文章は次の箇所であった。「ツキディデスのテクストには、私の知るかぎり、これまで注釈者たちの注意を引いてこなかった些細な言葉が一つあって、それが<一人一人>という言葉であった。スパルタ人が、奴隷のなかで他に抜きんでた者だけを消そうと決意したとき、彼らの決意は、彼らみずから犠牲者の参加を限定しただけでなく、その輪郭もまた限定した集団に関係関係するものであったが、一つ一つの死となると、明らかに個人に関わることであった。」
この本の献辞にあるように彼の母は「1944年の6月2日(?)」にアウシュヴィッツで亡くなり、父もまた1944(?)年に虐殺されている。亡くなった日も状況も不明であるとのことである。彼が<一人一人>の最後にこだわり、そこに歴史家としての作業の起点を置いていると言える。それが歴史家の想像力の源泉とも言えるのではないか。その点から考えれば、歴史修正主義は色あせて見える。
ヴィダル=ナケ氏の講演日程は、複数文化研究会の杉村昌昭さんの情報によると、5月にギリシャ史学会が東京で、日仏会館が京都で開催すると決まっており、講演内容もご専門のギリシャ史になるようです。歴史修正主義批判の講演会が関西で持てるかどうかは、微妙なところのようです。いずれにしても、来日講演には飛んで行こうと思っています。

Sunday, March 07, 1999 at 16:12:09 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
最近、読んだ本は次の3冊。鷲田清一著『ひとはなぜ服を着るのか〜ファッションは<社会の生きた皮膚>である〜』(NHKライブラリー)、道浦母都子著『無縁の抒情』(岩波同時代ライブラリー)、道浦母都子著『本のオアシス』(岩波同時代ライブラリー)。
お二人とも、大阪の高槻で続けてきている「連続講座・リゾナンス’90」でお呼びした人だ。鷲田さんはご専門の現象学をベースにして、身体論とファッション論を有機的に結びつけて展開されてきた。この本は「NHK人間大学」で放映されたものをもとにしている。放映の際には、夢中になって見た。
本になって、読んでみるとほんとうにやわらかな視線で、身体とファッションの関係を展開していて、大変魅力的だ。ピアッシングについて、「一つの穴を開けるたびごとに自我がころがり落ちてどんどん軽くなる。」というある証言が引かれている。このような感性に無縁な、いや、敵対的な学校という職場に身を置く私は、このほんで心身ともにリクリーニングされた。
道浦さんの先日の講演は80名の参加者があり、とてもいい講演でした。お話を聞いて思ったのですが、道浦さん自身は鋭い社会的な感覚をお持ちの方なのですが、それと柔らかでソフトな感性とをあわせ持たれているのがすてきでした。この2冊はどちらもその希有な感性を読む者に与えてくれ、おすすめです。

Monday, March 08, 1999 at 06:54:15 (JST)
amano yuka <yukyuk@fujitsu.com.br>
Que saudades.... de um monte de coisas que ja' tive. Existe alguem aqui no cafecreole que entende portugues? Quero ser sua amiga.

Sunday, March 21, 1999 at 21:53:30 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
この2日で、宮崎学著『地獄への道はアホな正義で埋まっとる』(太田出版)、松尾尊~著『中野重治訪問記』(岩波書店)を読み終わった。
前者はオウム事件の主任弁護人である安田好弘弁護士逮捕の背景にある、「住宅金融債権管理機構」(中坊公平社長)と弁護士・警察・検察・裁判所が結びついた翼賛体制(新しいファシズム)を鋭い切っ先で追及したものだ。久しぶりのテンポのいい本で、「正義の人」中坊公平というイメージを転換させられた。一読をお薦めします。
後者は近代政治史の松尾尊~が中野重治との交友の中での「中野重治の発言・思考過程」を再現したものだ。「全集」(旧版しか持っていないが)を紐解きながら、読み返したい本だ。

Wednesday, April 07, 1999 at 23:51:12 (JST)
古谷祐司 <webmaster@rakugo.com, @cafecreole.net>

カフェ・クレオールのカウンターからです。 下記の依頼がありましたので、情報として掲載します。

---------(以下)-----
映画配給会社アップリンクの者です。 実はわたくし共のスペースで行われる以下のイベントの情報を、もしさしつかえ なければ アップさせていただけないかと思いまして、メールを出しました。 図々しいお願いで恐縮ですが、出来ればで結構ですので、 どうぞよろしくお願いいたします。

『すばる文学カフェvol.8』
4/8(木)19:00開場 19:30開演
前売¥1800 当日¥2000
※前売券はチケットぴあ、セゾンにて発売中
※当日券は整理券を17:00より5F入口にて配布
出演:宮内勝典、青野聰
場所:アップリンク・ファクトリー 03-5489-0750

今回で8回目を迎える『すばる文学カフェ』は、文芸誌「すばる」と「アップリ ンク・ファクトリー」共同主催の作家自身による朗読イベント。1人の作家が3回 のホスト役をつとめ、毎回新しいゲストを迎えて行われるイベントは、それぞれ 作家が変わるたびに別のアプローチで展開する、単に“読む”にとらわれない自 由なスタイルで行われている。すでに出版されている作品をはじめ、未発表のも のや連載中の作品が、作家自身の生の声で聞けるちょっと贅沢なイベント。 今回のホスト役は2度目の青野聰氏、ゲストに宮内勝典氏。
--------(以上)---------

Wednesday, April 14, 1999 at 02:00:11 (JST)
Iao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
しばらくご無沙汰しておりました。
この間、メーリングリスト「教育サイバーネット」の開設に力をそそいでいました。
以下、その案内をさせていただきます。
3月末にメーリングリスト「教育サイバーネット(略称・cne)」を設置しました。
現在、登録者は100名を越えました。毎日、にぎやかに教育に関する情報・意見の交換をしております。
このメーリングリストに参加をよろしくお願いをします。
メーリングリスト「教育サイバーネット(略称cne)」
<開設趣旨>このメーリングリスト「教育サイバーネット(Cyber Net of Education)」<略称cne>は、
教育や学校をめぐっての、教員だけでなく、さまざまな職種の学校労働者、そして親あるいは市民、
さらに若い世代の生徒・子どもをつなぐ開かれたものとしたい。具体的には教育・教育運動に関する
情報交換と意見交流をおこなう。
<連絡先>E-mail isao_m@jca.apc.org(isaoとmとの間は「アンダーバー」です)
<会員登録が必要です>次の宛先に、住所(〒)、電話番号(あればFaxも)、氏名を記入の上、
登録希望と明記して、メールを送ってください。メールの送り先 owner-cne@jca.apc.org
<投稿の方法>教育サイバーネットへの投稿は次のメールアドレスへ送ってください。
投稿先 cne@jca.apc.org
   <ホームページ> http://www.jca.apc.org/~isao_m/

Sunday, April 18, 1999 at 22:58:10 (JST)
MYUDA <aaf07280@pop02.odn.ne.jp>
実は先日、旧メッセージボードに書き込んでしまったMYUDAです。もしよかったら、読んでみてください。今日も「旅」という「商品」を切り売りしてきた。旅行代理店で働くようになってもう一年近くたったのに今さら気がついたこと....ほんとうにたくさんの人がかわいい飴玉みたいな「旅」を求めているということ。とても面白い。この面白さは若い女の子たちがブランド物の鞄や財布をまるで玩具みたいに持ち歩いてるのを見るたびに感じる面白さに似ている。決して皮肉なんかじゃなく、<私>はそういうのを見るのが好きだ。玩具化された「ブランド」、飼いならされた「旅」。そういうのはただ否定されるだけでは何かもったいないような面白さがあるように思う。「もてあそび」の行為...まだよくわからないけど面白い。それがわかったら退社しよう、今決めました。結局、<私>この仕事好きじゃないんだな.....。

Monday, May 31, 1999 at 14:29:22 (JST)
Hisayo <h-tujita@kinokuniya.co.jp>
こんにちは。最近書き込みが止まっていますね(^^)
私が籍をおいている大手の書店ではいま、お店の片隅でできて、 お客さんに楽しんでもらえるイベントのアイデアを探 しています。かくいう私もその調査隊のメンバーになってい ます。大きくなりすぎた本屋を親密な空間に戻したいと思い、 「コメント付き入門書特集」や「**さんの選書棚」などのコーナー づくりを考えてみましたが、今一つです。どなたかよいアイデア はありませんか? 海外やご贔屓の本屋さんの事例でも結構です。 実現する可能性はおおいにあります。
ほとんどの本は本屋の店頭で買われていきます。だったらそこで仕掛けてやろうじゃないか、 なんて、大それた言い方ですけれど。

Monday, May 31, 1999 at 22:31:41 (JST)
kazuki <kazuki@cafecreole.net>
6月8日(火)、札幌で、『ぼくは始祖鳥になりたい』の宮内勝典さんの講演会が行われます。 詳しくは、こちらをご覧ください。 ちなみに今の季節、札幌周辺は、天気が良ければきっと最高ですよ。 

ところで、書店の片隅でできるイベント。なかなか難しいとは思いますが、なにか良いアイデアが見つかるといいですね。

Wednesday, June 16, 1999 at 17:20:46 (JST)
Monkey Business <aloha@u.washington.edu>
麻布に猿が出没して、警官60人が巡回し、こどもたちには外で遊ぶなと呼びかけているらしい。正気の沙汰じゃないね。日本猿が都会にいたからって、何が悪いんだ? 見かけたって、危険だと思えば近付かなければいいだろう。そのくらいの判断、3才児だってつくのがあたりまえ。野生動物はどこにだってゆく権利がある。やつがやつの判断で八王子あたりからやってきたとして、好きなようにさせてやろうじゃないか。そういうことやってるから、東京湾にくじらもいるかもこないんだよ。トキだって絶滅するんだよ。

Sunday, June 27, 1999 at 20:31:15 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
お久しぶりです。本の読後感です。
今回は武田秀夫著『シネマの魔』(現代書館)です。
映画好きにとっては、たまらなく魅力的な映画批評です。

目次を列挙すると、

クリント・イーストウッドの方へ
シドニー・ルメットの苦渋/エドワード・ヤンの挑発
エドワード・ヤンの方へ
イングマール・ベルイマンの方へ
クシシュトフ・キェシロフスキの方へ

映画批評として秀逸な文章がつまっており、堪能させられた。

この本の特徴はこれらの映画のなかの「少年」方へ視線が向けられていることだ。
武田さんが教員を辞められる寸前のことして書かれている次の文に目がいった。
それはある少年との衝突の場面だ。

ホーキは折れて激しく飛び、周りの生徒はハッと凍りついたようになりました
が、折れたラワンの棒っ切れを握った少年は、その手をぶるぶる震わせ、私を
にらみながらまた叫びました。
「どけーっー!なんでいつもお前が出てくるんだ。どけー!」
(中略)
どう考えても彼は、私に打ってかかりながら、私を打ちたかったのではないの
だ。立ちはだかる私の背後にわだかまるなにものかを打ちたかったのだ。自分
の生をはばみ、自分の生に常日ごろ圧迫を加えるなにか動かしがたい大きなも
の、それにこそ打擲を加えたかったのだ、ホーキという武器で。ドン・キホー
テのように。なのに、またしてもしたり顔の教師が立ちはだかる。風車のよう
に。お前なんか打ったって仕方ないのに、お前を打つという仕方でしか、その
大きなものを、おれは打つことができない・・・・・。
(中略)
だが、少年よ。私は、打ちかかるお前のまえから身をよけることをしない。な
ぜなら私は、君が打とうとした闇の一部なのだから。

オウム事件や神戸・黒磯と続いた少年をめぐる事件の根底にある大きな地殻変動
とオーバーラップさせながら、映画館の暗闇のなかで、「少年は私の背後に何を
見ていたのか」という視線を持ち、思索を持続された文章だ。

この本を読んだ後、14年前に買ったまま読んでいなかった武田さんの『当世教
師廃業事情(このごろの きょうし ざせつの てんまつ)』(現代書館)を探
し出して読んだ。「うーん、なるほどな・・、」と納得。

Friday, July 02, 1999 at 02:20:29 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
私の好きな写真家のひとりに今森光彦さんがいる。
写真集は『今森光彦の昆虫記』(福音館書店)、『世界昆虫記』(福音館書店)、『里山物語』(新潮社)、『スカラベ』(平凡社)がある。

近著『萌木の国』(世界文化社)は琵琶湖の北岸地方にあるマキノ町の雑木林が舞台である。今森さんのアトリエはそのマキノ町から南50キロ、
大津市近郊の仰木にある。実は以前、友人の本屋さんに連れられてそのアトリエに今森さんを訪ねたことがある。それ以来、今森さんの写真のファンになった。

マキノ町には生命豊かな雑木林がある。ここは昔からスキー場で著名であり、夏は子どもたちの林間学校でにぎわう。私も中学1年生と林間学校で楽しんだ経験が何度かある。

今森さんはその雑木林に子どもの頃から親しみ、その魅力に吸引され、ついに雑木林の一角を購入した。家族、友人総出での下草がりから始まり、雑木林のなかの自然と生き物、
人間の関わりを四季の移り変わりとともに描いていく。そこには熱帯雨林をしのぐ生命の豊かさが息づいていた。

雑木林の自然の豊かさはマキノ町の人々の手(労働)が入っていること、その営みによって成り立っていることがいくつもの挿話のなかに活写されている。
写真がとてもすばらしい。おすすめの本です。

Sunday, July 04, 1999 at 02:12:15 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
本屋でふと手にした清水透編『<南>から見た世界5/ラテンアメリカ』(大月書店)は<ラテンアメリカの現在>を解き明かす本として力作だった。
ラテンアメリカ関係の本では、文化的なことがらや歴史的なことがらについて書かれたものはよく見かけるのだが、<只今現在>の情報とその解明を意図したものは案外少ない。
10人の筆者によるこの本は、ラテンアメリカ社会と人種概念・エリートと民衆・文化の政治性・新自由主義経済の光と影・「民政」化の問題点・アマゾン開発の問題点・日系ペルー人の移動等多角的に現在のラテンアメリカを描ききる。
圧巻は古谷嘉章「歴史のなかのアマゾン/発明される自然・否認される社会」だ。15年に渡るフィールドワークの経験から、アマゾン開発が現在の私たちに投げかけるものを鋭く掘り下げる。
久しぶりに読み応えのある本でした。

Sunday, July 04, 1999 at 07:38:53 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
『南から見た世界5/ラテンアメリカ』の内容について踏みこんで書くべきなのでしたが、要約に自信がなかったので、飛ばし書きにしました。
印象に残っていることは、よく「ラテンアメリカ(ブラジルがとくに)は人種差別がない」と言われ、教科書にも書かれていますますが、どうもちがうようです。ラテンアメリカにおける人種概念はどのように変遷したかが、北米との対比で分析されています。
ラテンアメリカでの軍政からの民主化が「民政」化であり、軍部は後ろに引いたが、権力は継続していること。これについてはボリビアを旅行したときの関心事項でした。ボリビアでは、自動車で移動中に検問が頻繁にありました。外国人旅行者にはパスポート番号等のチェックがあり、ボリビア人は身分証の確認をされ ていました。(身分証を持っていないと、連行されるとのことでした。)検問場所でツアーメンバーがうっかり写真を撮り、検問の警官より因縁をつけられ、金を要求されたことがありました。現地旅行社のガイド氏と運転手のアントニオが烈火のごとく怒り、スペイン語でまくしたてて撃退しました。アントニオがごっつい 石を蹴飛ばしたのが今も脳裏に刻印されています。
後で彼らに聞きましたが、「民政」化後の今の政府は軍部独裁時の支配者が、政党の看板を上げただけで、権力は継続しているとのことでした。(ついでにゲバラのことを聞きましたが、避けられました。)
アマゾンの開発とインディオの存在そのものの破壊過程の進行がどのように進んできたかが詳細に分析され、90年代のインディオの運動主体としての登場のなかにあらたなオルタナティブの論理が生まれてきていることが展開されています。この執筆者の岩波講座・文化人類学12『思想化される周辺世界』所収の古谷嘉章「近代の別の入り方」も読んでみましたが、なかなかの力作でした。
ところで、この論文に、アマゾンのインディオであるカヤポーのホームページの紹介があり、その URLをゲットしょうとしたんですが、うまく出ませんでした。どなたか正確な URLをご存知の方はおられませんか?

昨日、京都で「複数文化研究会」があり、出かけたついでに、本屋で次の本を見つけました
グスタボ・アンドラーデ/堀坂浩太郎編『変動するラテンアメリカ社会ー「失われた10年」を再考するー』(彩流社)。ラテンアメリカにおける80年代の債務危機等の経済危機から現在の新自由主義経済への移行過程を批判的に分析した本です。上智大学でのシンポジュウムの記録です。

Wednesday, July 07, 1999 at 17:49:25 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
香山リカ著『インターネット・マザー』(マガジンハウス)を興味深く読んだ。
香山リカさんは精神科医で、臨床医としての経験から展開される文明批評・社会批評には注目すべき論点が提出されている。

この本はマスメディア、最近ではインターネットの発展のなかで、若い世代の感性、人格が変容してきていることを、精神科医の視点から掘り下げている。

それは「私とはなにか」の感覚の変容、インターネット空間が生み出す「ふたつの自己」の並立であり、取り上げられている話は最近注目を集めた「ドクター・ キリコ事件」「神戸等の少年事件」などであり、切り口も新鮮だ。

後書きには次のようにある。

テレビゲームやインターネットなどいわゆる電子メディアの世界というのは、自己やリアリティの不鮮明の問題に悩む人、あるいは自己の切り取りに失敗した人 にとっては、とても寛大であると思う。その中で人は、「茫漠とした自己」のまま保護されるし、あるいは自分がデザインした通りに<わたし>を切り取ること も容易にできるからだ。しかし、「それがすばらしいことである」というコンセンサスは、いまだ成立していない。そして私自身も、「解答はここにしかない」 と胸を張って言うことは、まだできずにいる。

一読して、決して明るい話ばかりではないが、<その新たな可能性>への問いかけを続けた書だと思った。

Tuesday, July 20, 1999 at 00:15:21 (JST)
てすと <てすと>
テストメッセージです。 作業終了後に削除します。

Thursday, July 22, 1999 at 22:54:21 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
<『クレオールの民話』(パトリック・シャモワゾー)>

管啓次郎さんの「コヨーテ歩き読み14」私は愛読している。
その「コヨーテ歩き読み14」にパトリック・シャモワゾー著・吉田可南子訳『クレオールの民話』(青土社)の書評があり、早速、購入し、読んだ。
原題は『マルチニックの民話』で、カリブ海のフランスの海外県であるマルチニックの民話である。
読んでみて、その躍動感、言葉の展開に魅せられた。マルチニックの夜の語りの場での抑圧からの解放、その哄笑が感じとられた。今日は時間的余裕がないので、その感想はまたあらためて書きたいと思います。

<『百年目の帰郷』(鈴木洋史)>

鈴木洋史著『百年目の帰郷』(小学館)は推理小説を読み終わったときの感覚を持たせるノンフィクションだ。

この本は王貞治とその父・王仕福の2代にわたるルーツの物語だ。私はスポーツ系は全然興味がないので、プロ野球と王貞治に入れこんだ人には私の何倍かのおもしろさがあるだろうと思わせる力作だ。

王貞治のルーツを台湾(中華民国)と見る俗説は根強いが、実は父・仕福の生まれたのは中国(中華人民共和国)の浙江省であり、彼は生涯、中国籍を手放さなかった。そして、貞治と兄弟は台湾籍。この複雑をきわめる王家をめぐる戦後史 が解き明かされる。デビューから756号達成までの貞治をめぐる「2つの中国」の政治過程とその人格形成をていねいに追いかけ、そして、究極の仕福のルーツまでたどり着く渾身のルポルタージュだ。

最後に仕福が「封印」したものをついに切る。深く重い読後感が残る。(この封印切りは書いてしまうと、読まれる方の興趣をそぐので、書かない。)

しかし、最後の

王よ!

「王仕福之子王貞治」よ。

二十一世紀に君のルーツの地を踏めーー。

はやはり、書く人間の傲慢さではないかと思った。

Monday, July 26, 1999 at 18:13:39 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
<学校解体新書/世紀末ノ教育現場カラノ報告』(永山彦三郎)>

だいたい教育書というものはつまらないと相場が決まっており、あまり読まないことにしている。

が、この本、永山彦三郎著『学校解体新書』(TBSブリタニカ)は抜群におもしろい!読みだしたら、やめられない。

著者は39歳、栃木県宇都宮の教員で、中学校勤務後、現在は小学校に勤務。世代的には「新人類世代」に当たる。60年代の消費社会の形成過程に生育した世代だ。

私は世代的にはうんと離れているが、小学校勤務から中学校勤務へという著者とは逆のコースをたどった故か、現在、私が「中学校」について考えていることとほぼ共通の見解なのには共感した。

中学校の秩序維持の三種の神器は「生徒指導」「部活指導」「進路指導」であるとし、これは「80年代の校内暴力を封じ込める際に武器となった」が、「現在の90年代的な荒れにはまったくといっていいほど有効に機能しなくなった」と、実際の中学校での経験を具体的に展開し、その原因を解明していく。

それは、「近代という<大きな物語>」が崩壊し、「その発展装置としての<学校>」が機能しなくなったことにある。

「現代日本において、<学校問題>とは、子供がどうの、親がどうの、教師がどうの、といったレベルではすでになくなっています。あえていえば、歴史的必然として、いま僕達は「学校問題」に直面しているわけです。」

中学校勤務の経験と豊かな感受性でその事実を解析していく叙述は、深刻な話であるにもかかわらず、なにか心をなごませるものがあった。それは、著者が現在の中学生と感受性においては(消費文化世代ということで)きわめて近いことに自覚的であることからきていると思わせた。また、小説を書いておられるという著者の営みとも関連するのかもしれない。

著者は17歳からのサーファーであり、その波の乗り方の運動感と感性を感じさせる文体だ。

<Book8・『日本人対朝鮮人/決裂か?和解か?』(永六輔・辛淑玉)>

大阪のミュージシャン・趙博さんのコンサート等で、永六輔さんの話を聞く機会が何度もあり、永さんが単なる「話芸の名手」だけではなく、「人と人の関係」「人と社会の関わり」について「底の深いもの」を持っておられる方だと感じた。

また、昨年、大阪であった「コリアン映画祭」で、辛淑玉さんお話をはじめて聞くことができた。その発言のなかに「今を見る視線の確かさ」と「その鋭さ」に大いに興味を持った。

本屋の店頭で、『日本人対朝鮮人』(光文社)を手に取り、そのお二人の対談なので、購入し、すぐ読んだ。期待に違わず、日本と朝鮮との関係、在日朝鮮人と日本人のこれからを考えさせてくれた、とてもおもしろい!本だった。

Wednesday, July 28, 1999 at 13:27:54 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
<『学校崩壊』(河上亮一)>

教育書は「つまらないと相場が決まっており、あまり読まない。」と言いながら、また読んでしまった。河上亮一著『学校崩壊』(草思社)である。この本はどこの本屋でも平積みになっており、売れているようだ。

「プロ教師の会」の本は10年位前に、「別冊宝島」で出始めたのだが、それら一連の本には(中学校の現状についての把握については大枠で納得できるもの)いつも棘のように違和感が残った。

結局は弱体化しつつある「中学校の求心力」「教師の力」を取りもどし、再度、それを強化するため全力を注ぐことに、「プロ教師の会」の面々は(諏訪哲二、河上亮一氏など)は向かっていたからだ。

70年代には「埼玉教育塾」に拠り、機関紙「異議あり!」で、「反教育」論を展開していた人たちが、なぜ?という疑問がいつもあった。

『学校崩壊』を読んで、同じ感想にとらわれた。中学校の現状の詳細な叙述、生徒がこの10年で大きく変貌したこと、「学校崩壊」の事実の分析にはほぼ同感するのであるが、はたして「学校・教師の権威(力)」を回復することで、事態への解決になるのだろうか、ということだ。

『学校解体新書』で永山彦三郎氏は河上氏の著書『学校崩壊』について
「河上氏のスタンスは80年代とまったく変わりません。義務教育とは子供の社会的自立を促す場であり、だから学校では必然的に管理が発生し、そしてそれは子供には必要なことなのだといった、理想空想論に走らない、いわば現場たたき上げの論理で、その主張の一貫性は尊敬に値すると思います。
けれど、やはり違和感が残ります。
河上氏が変わっていないとすれば、たぶん僕が変わったのです。」
と前置きし、学校をとりまく社会、文化、家庭、子ども変化との関連で学校をとられようとされている。

私も『学校崩壊』を読んだ後の違和感は何なのか掘り下げていきたい。

ところで、「週刊ポスト」(7・2号)には河上氏の紹介として
「夜9時には就寝、早朝に起床。6時には<登校>し、仕事が始まるまでの時間を唯一の自分の時間にするという健康な生活を送る。」とある。

どうして、こんなに頑張られるのだろうか?私と同い年とは思われません。

Wednesday, July 28, 1999 at 15:56:25 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
松岡です。昨日は楽しいことがふたつありました。

ひとつは「金成亀(キム・ソング)ライブ」に行ったことです。
ジャズベーシストであるキム・ソングさんの演奏は何度か聞きましたが、まだ、フルバンドで聞いたことがありませんでした。CD「Wind of Nan Gang」発売を記念して、大阪のバナナホールでコンサートがあるので、飛んで行きました。この歳になるまで、ジャズの生演奏を聞いたことがなかったので、震えるほど感動しました。キム・ソングさんのベースはとてもすばらしいのは勿論ですが、韓国のテナーサックス奏者、李廷植(リ・ジュンシク)さんの演奏には目をみはりました。リズム・音感がちがうんだな!それと、ピアノの板橋文夫さん、ドラム の東原力哉さんの演奏にも引き込まれました。ドラムの東原さんのファンになりそう。

もうひとつは、コンサートの前に、今上映中の「豚の報い」(崔洋一監督)を見に行ったことです。
崔監督の映画はデビュー作の「十階のモスキート」より見ており、私はファンです。高槻でやっている「連続講座・リゾナンス’90」で崔さんに講演いただいたことがありました。今度は沖縄が舞台です。今、大阪では上映中ですので、ぜひ、ご覧ください。

そんなことで、今、前に買ったまま読んでいなかったこの映画の原作『豚の報い』(又吉栄喜)を探し出して、読むことにしました。

夏休みは好きなことができて、大変満足です!

Friday, July 30, 1999 at 15:32:32 (JST)
Ryuta Imafuku <cafemaster@cafecreole.net>
crossroadsやantipodesで崔洋一の「豚の報い」が話題になっているようですが、このフィルムが気に入った私はパンフレットにエッセイを寄せています。ロケ地である久高島の静謐にしてぽかーんと明るい陽光を素直に浴びたいい映画です。
東京ではあまり当たっていないと聞いたのですが本当ですか? 今の人はいったい何を映画に期待しているのでしょう?・・・

Monday, August 02, 1999 at 21:29:36 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
マスター。ご無沙汰しております。 「豚の報い」のパンフレットで、マスターの文章を読みました。
沖縄とカリブ海の島々をつなぐ想像力に喚起されました。
これから、井村さんに会いに、越境します。では、また。

Monday, August 02, 1999 at 22:03:40 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
<Book・『脱「学級崩壊」宣言』(芹沢俊介・藤井誠二・氏岡真弓・向井吉人)>

「学級崩壊」関係の本も3冊目になりました。

芹沢俊介(批評家)・藤井誠二(ノンフィクションライター)・氏岡真弓(新聞記者)・向井吉人(小学校教員)の4人の討論の本である『脱「学級崩壊」宣言』(春秋社)は類書の多々あるなかで、大変おもしろく、未来展望がある。

「学級崩壊」(現在、問題になっているのは小学校における学級担任制の崩壊現象であり、これを一般化して「学校崩壊」とする河上亮一氏の論理は現象の分析に錯誤を生む)に関する議論で気になるのは、「学校防衛」(管理システムの強化)に傾斜したものが多いことだ。河上氏の本はその最たるものだろう。

「またぞろ、管理強化か!?」と思ってしまうのが私の本音である。小学校の「学級崩壊」の対応策として、中学校の「管理システム」が小学校に導入されるだけだったら、あぶはち取らずではないか。教員をしていて、教員相互の管理監視システムにいいかげん嫌気がさしているのに、これ以上の強化はまっぴらだ。

ところで、この本はそのモチーフを次のように言う。
「<学級崩壊>現象について、二十一世紀の学校の新しい方向性が提示されているのかも知れないというふうに、肯定的に見る視点がひとつぐらいあっていいではないかーー。これがこの本でとった私たちのスタンスであった。実際、分析すればするほど、<学級崩壊>現象は未来を孕んでいた。この本はそのことを確認する作業であった。」

消費資本主義社会が生み出した「自由裁量制」の強制・拡大と子どのたちの「個別性」の拡大が、「集団性と集団的身体」中心の近代学校システムをスクラップ化しつつある、それが「学級崩壊」の原因である。この角度から、子どもと学校をとりまく、さまざまな文化事象の変化を4人の論者があざやかに析出する。

Monday, August 02, 1999 at 23:21:55 (JST)
Hisayo <jn8h-tjt@asahi-net.or.jp>
ひとときの涼を求めてやってきました。(一昨日の隅田川花火大会では銀座線のホームに人があふれて阿鼻叫喚だったとか。いつものことなのか?) お祭りは徒歩圏の地域の人のものだったはずなのに、と足を運んだ東京っ子はぷりぷり怒っていましたけど、地域の祭りが東京に集まる異郷の人びとを巻き込んだ一大イベントになることはそれはそれで楽しいじゃないか、と思った私です。
ところで昨日、この春から念願かなって小学校の教師になったという友人と久々に話をしたのですが、「学級崩壊」という言葉は、子どもも教師も生きて考えている存在だということを忘れさせてしまうから困る、と不満そうでした。たしかに教育現場を知らない私みたいな人間が使うと、「こわれたおもちゃ」みたいな意味あいとして響くのだと気付いて反省。私だって、「出版崩壊」とか言われたら嫌だなー。(私は出版社で働いています) で、「学級崩壊」という言葉がたまたま松岡さんのメッセージに入っていたので、このあたりの温度差などについて伺えれば、と。もっとも、松岡さんの普段のメッセージを読めば聞くのも野暮かもしれませんが。どうでしょう?

Thursday, August 05, 1999 at 02:26:35 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
hisayo様
「学級崩壊」についての温度差ですが、学校と学校外とではちがうでしょうね。
実は学校のなかでもちがうのです。まず、今、学級崩壊は小学校が焦点ですが、そのため中学校の教員と小学校の教員とでは温度差がありますね。
中学校では生徒の「荒れ」として把握されがちで、まだまだ「生徒管理」の手法でやっていけると考えている教員が多いです。私はこの発想は好みません。
小学校でも高学年と低学年の学級崩壊の現れ方がちがいますし、担当の教員の悩みも多様なようです。
それに根本的に学級崩壊の当事者の担任とまだそれを経験していない教員とは感覚がちがうでしょうね。
そういう意味では学校内部に「温度差」があるわけですから、学校外の方が「どうなっているの?」と問われても、返ってくる答えがまちまちなので、戸惑われるのではないでしょうか。
hisayoさんのお友達は学級崩壊を経験されていないのではないでしょうか。今、子どもたちの世界に進行している社会的・文化的変化に目を向けないと、「学級崩壊」はつかみとれないように思っています。

Sunday, August 08, 1999 at 17:36:00 (JST)
Hiayo <jn8h-tjt@asahi-net.or.jp>
なるほど、「学級崩壊」と一口に名指されるものもその実態はさまざまですね。私の友人にしても、三年生の担任で、クラスに数名暴れる子がおり、「腕力が強くなったわ」と苦笑混じりに語っており、特に一人の子どもは授業中に「死んでやる」といって窓から身を乗り出して見せ彼女はそのたびに羽交い締めにしなくてはならないようだけれども「そうやって甘えているのかも」と新人教師らしいやる気に満ちた口調で語っていました。彼女の学級が「崩壊」しているかどうかを判定しようとしても本人たちには意味のないことなのだろうと思いました。

Sunday, August 08, 1999 at 22:43:21 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
hisayoさん
ご友人のクラスはなかなか大変なようですね。
おもしろい雑誌がありますので、ご友人に紹介してあげてください。
小学校教員である岡崎勝さんが編集人である「おそい・はやい・ひくい・たかい」(ジャパンマシニスト社)です。第4号まで出ています。最新号は「しつけは家庭で?学校で?」です。
この雑誌は学校関係者だけでなく、親・子どもも参加した教育雑誌で、とてもおもしろいです。ちなみに岡崎さんはホームページをお持ちです。http://www.ipc-tokai.or.jp/~m-okaza/
私は同様の趣旨のメーリングリストを開設しています。「教育サイバーネット(略称・cne)」です。(このページのはじめの方に紹介しています。)先ほども埼玉新任の方が参加されました。
ということで、情報でした。

Monday, August 09, 1999 at 02:18:43 (JST)
椿説弓張月 <imura@gc4.so-net.ne.jp>
松岡さんは元気だなあ。(以下、越境してきた異国人のひとりごと)小学生の頃からじっと座っているのが嫌いだった私にとって、「学級崩壊」に持ち込める今の子どもたちがうらやましいっす。つまらない先生のどうでもいい話を聞いているよりは、芝生の上に寝転がりながら、好きな本をもっと読みたかったなあ。しかしそういう子どもは、高校で年に50回遅刻し、大学にやっと入学しても定期券も買わないような、就職しても「オレ」とか言ってしまうような人間になってしまうのである。でも強がりを言えば、それ(?)によって失わずにすんだものも多い、ような気がする。子どもには人権が「ある」とか「ない」とかおおざっぱな議論をしてもしょうがないんですね(いつも大人からの視点だから)。だって「大人」は子どもに、自分たちと同じような教育を通過した、自分たちと同じような大人になることしか望んでいないのでしょう(なぜならばそれ以外のことを想像できないから)。それで、そこからするりと抜け出そうとしている子どもをまったく理解できない。いつまでも「あの頃はよかった」式の教育理念じゃあなあ〜。「教育」って、いったい何をどうしたいというのだろう? 「集団行動できる人」を育てるため? それじゃ、ナカタもマスターも生まれないぜ。とりあえず、国家公務員を減らして、小中学校の教師に月100万円ぐらいあげることから始めましょうか。

Monday, August 09, 1999 at 09:01:13 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
井村さん、越境していただき、ありがとう! ほんとう、「教師稼業」っていやな仕事ですね。
中学・高校生の頃、テスト前ほど関係ない本をよく読んだことを思い出します。今でも、仕事のノルマがかかっている時ほど、本を読んでしまいます。
ところで、ブラジル映画「セントラル・ステーション」を見られましたか。私は3回見ました。それと「ライフ・イズ・ビューティフル」も3回見ました。
どちらの映画でも、登場人物の少年が「ジョズエ」です。それにひっかり、今、『聖書』の「ヨシュア記」を読んでいます。まもなく、久しぶりに映画評を「カフェ・リゾナンス」に掲載します。
それでは、よい夏休みを!

Wednesday, August 11, 1999 at 21:29:19 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
<Book・『滅ぼされたユダヤの民の歌』(イツハク・カツェネルソン)>

「みすず」誌上で、イツハク・カツェネルソン著(飛鳥井雅友・細見和之訳)『滅ぼされたユダヤの民の歌』(みすず書房)の発刊を知り、読んだ。

イツハク・カツェネルソンはポーランドのユダヤ系詩人で、この詩集は東方ユダヤ人の日常語・イディッシュ語で書かれた遺作である。彼は1944年5月にアウシュヴィッツで虐殺されている。彼の最愛の妻と息子たち3人もここで亡くなっている。

ワルシャワ・ゲットー蜂起後に移されたフランスのヴィッテル収容所で、彼はこの大作を密かに書き続け、アウシュヴィッツへ移送される前に、その詩稿を3本のビンに詰めて収容所の地下に隠していた。死後、その詩集が刊行されたのである。

15の歌からなるこの作品はユダヤ人絶滅の壮絶きわまりない証言である。後代の私たちには理解を絶する極限状態を、死を前にして、死力をつくして書き残したものである。

「この詩は煤色の空に黒い涙で書かれている。これらの詩句のなかで、どんな希望がないにもかかわらず、なお一つの希望が輝き出ているとすれば、それは、破滅した人間がなお自らの絶望をそもそも言葉で表現していることからくる。」(ヴォルフ・ビーアマン)

Friday, August 13, 1999 at 16:49:53 (JST)
小倉 富規子 <umoguraf@hotmail.com>
熊野大学にどなたか参加されましたか。私は日本に久しぶりに帰ってきて、まだ仕事も決まってないので、残念ながら行くことができませんでした。そのかわりにといってはなんですが、上野俊哉さんのディアスポラの思考を買って読み、大変充実した気分です。

Saturday, August 14, 1999 at 17:00:36 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
松岡です。
教育サイバーネットのホームページに、だいぶ以前になるのですが、フランス・スペイン・イタリアの学校訪問をした時の記事を、写真を入れてアップしました。
これで、「カフェリ・ゾナンス」に書いたものとあわせて、旅行記はすべてアップできました。
よろしかったら、見てやってください。この後、リンク集を作りたいと思っています。
教育サイバーネット http://www.jca.apc.org/~isao_m/
カフェ・リゾナンス http://village.infoweb.ne.jp/~fwhz9173/
暑さきびしい折ですので、お身体にお気をつけください。

Saturday, August 14, 1999 at 22:42:32 (JST)
アムス <imura@>
「オレはあの本に載ってるすべての文章(「現代思想」などの)をコピーで持っている。書き下ろした部分は立ち読みした」と作者に言ったら、作者は「もともとの文章に書き足した部分がおもしろいんじゃい! つべこべ言わずに購入しなさい」と捨てぜりふを残し、アムステルダムに旅立っていった。

Monday, August 16, 1999 at 21:07:40 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
<Book・『火花/北条民雄の生涯』(高山文彦)>

「週間ポスト」の書評欄で、高山文彦著『火花/北条民雄の生涯』(飛鳥新社)の発刊を知り、早速、入手した。昨年の1月に読んだ宮本常一の評伝『旅する巨人』(佐野真一)以来、久しぶりで夢中になって読んだ評伝だ。

戦前、北条民雄はハンセン病との闘病・対峙のなかで、『いのちの初夜』を表した小説家として著名だ。学生時代に、後に妻となる彼女が北条民雄を卒論のテーマにしていたことで、私は北条民雄を知った。当時、新潮文庫の『北条民雄集』で「いのちの初夜」を読み、強烈な印象を受けた。

「人間ではありませんよ。生命です。命そのもの、<いのち>そのものなんです。(中略)あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがぴくぴくと生きているのです。」(『いのちの初夜』)

戦前(戦後も最近まで)、癩病は不治の病とされ、患者は忌避と差別の対象となり、隔離を強制されてきた。北条民雄は19歳でハンセン病を患い、東京の全生病院でのわずか3年半の作家生活のなかで、生を燃焼しつくした。その生涯と文学のたどり着いた地点を、太平洋戦争、天皇制国家主義へと動く時代背景のなかに置き、川端康成との交情、交友のあった友人たちなどの証言で、浮き彫りにしたの力作だ。

今、黄色く変色した新潮文庫版の『北条民雄集』をあらためて探しだし、読もうとしている。

Thursday, August 19, 1999 at 00:43:43 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
<Book『「弱者」とはだれか』(小浜逸郎)>

また、おもしろい本を見つけた。小浜逸郎著『「弱者」とはだれか』(PHP新書)だ。小浜氏は家庭論、教育論、思想、哲学などの幅広い批評活動をしてきた人だが、その論理性に注目している。ずいぶんと以前の著作だが、『学校の現象学』が出たときには友人たちとこの本についてよく議論したものだ。

差別問題に関わったときに感じる「居心地の悪さ」は私も経験しているが、この本は、障害者差別、部落差別、マスコミの表現規制などの差別問題について、私たちの感じる「言いにくさ」や「遠慮」の構造を解き明かしている。

差別ー被差別、「弱者」ー強者の関係の固定化はなぜおこるのか?このあたりの議論はぜひやってみる必要があると思っている。

「この本では、被差別性や弱者性という、倫理的優位が確保できることがわかりきっている立場の特権性を解体させるにはどうすればよいかという点にしぼって、その問題を追究した。特権性の解体とは「弱いものいじめをしてはならぬ」とか「人間の命はみなそれぞれ尊い」とい原理を捨て去ることことではない。これらの原理が、私たちの社会状況の中で、具体的にどういう意味合いで生きた力を持つか、その条件をはっきりさせることなのだ。そのために配慮されるべき「弱者」のフレームの捉え直しが必要だったのである。」(あとがき)

Saturday, August 28, 1999 at 23:12:46 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
<Book・『悲鳴をあげる身体』(鷲田清一)>

今回の本は鷲田清一著『悲鳴をあげる身体』(PHP新書)である。鷲田さんは哲学(現象学)が専攻で、ファッション論・身体論などのアクチュアルな場面でその深い思索を展開されており、非常に魅力的な方だ。

「なにか身体の深い能力、とりわけ身体に深く浸透している知恵や想像力、それが伝わらなくなっているのではないか。あるいは、そういう身体のセンスがうまくはたらかないような状況が現れてきているのではないか。

そんな身体からなにやら悲鳴のようなものが聞こえてくる気がする。身体への攻撃、それを当の身体を生きているそのひとがおこなう。化粧とか食事といった、本来ならひとを気分よくさせたり、癒したりする行為が、いまではじぶんへの、あるいはじぶんの身体への暴力として現象せざるをえなくなっているような状況がある。」(プロローグ)

ピアッシング・拒食・過食あるいは性・生と死など、「引き裂かれる身体」についての興味深い本だ。関連書に『普通をだれも教えてくれない』(潮出版社)がある。

Wednesday, September 22, 1999 at 12:08:19 (JST)
Fukiko Ogura <umoguraf@hotmail.com>
先日、辺見 庸さんの講演に行ってきました。実は数年前にも辺見さんの講演を聞く機会があったのですが、この時は、あまりの日本のひどさにうんざりされてるといった感じで、世捨て人のように見えました。今回は、緊急事態にいてもたってもいられない、なんとかしなくてはという意気込みが伺われた講演だったように思います。辺見さんは高橋哲哉さんとの対談でだいぶエネルギーを消耗したとおっしゃていましたが、 かなり突っ込んだ議論をされたようです。お二人の対談は東京新聞の夕刊に掲載されています。今度は辺見さんと鵜飼哲さんで対談してほしいです。

Monday, December 06, 1999 at 22:04:03 (JST)
Isao Matsuoka <fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp>
松岡です。ご無沙汰していました。
90年のはじめよりやってきました「連続講座・リゾナンス’90」は丁度10年の区切りとなり、最終講座となります。その案内をさせていただきます。

第 27 回  対論「イスラエルとイスラーム〜経済と宗教戦争〜」
講  師  守     誠 氏(ドキュメンタリー作家、愛知学院大学経営学部教授)
大 塚 和 夫 氏(中東民族誌学、東京都立大学人文学部助教授)
日  時  12月11日(土)pm2:00〜4:00
場  所  高槻現代劇場(文化ホール)2F展示室  0726-71-9999
(大阪府高槻市野見町2-33、阪急高槻市駅下車南へ5分)
資 料 代  900円
主  催  記  録  舎  〒567-0819 茨木市片桐町1-8 松岡 勲   0726-26-4469

守     誠・大 塚 和 夫 氏 の 略 歴
守    誠 氏  1933年、横浜生まれ。慶応大学経済学部卒。総合商社に32年間勤務。退職後、大阪国際女子大学コミュニケーション学科教授から現職に。中東地域、特にイスラエルの政治・経済に造詣が深い。著書は『華麗なる窓際族』、『特許の文明史』、50万部を突破したベストセラーの『英会話・やっぱり・単語』など多数。
大 塚 和 夫氏  1949年、北海道生まれ。東京都立大学人文学部大学院社会人類学専攻博士課程修了。国立民族学博物館助教授から現職に。中東民族誌、特にイスラーム(原理)主義に詳しい。著書は『異文化としてのイスラーム』、『テクストのマフディズム』、共著に『アフリカの民族と社会』、『植民地体験』など。

講   演    内    容
20世紀も後1年あまりで終わろうとしていますが、最近では東ティモール、コソボ紛争と、民族対立・内戦が多発し、ますます過熱化しています。
4回の中東戦争の場であるイスラエルとパレスチナ、アラブ地域の政治的・宗教的対立は、和平の努力にも関わらず、昂進しています。
最終講座は守 誠さんから、イスラエルとパレスチナ、アラブ諸国との間の政治・経済の動向(石油問題、水問題、政治制度)から宗教戦争は起こりうるかを分析していただきます。また、大塚和夫さんからはイスラーム(原理)主義の動向からその予測をしていただき、お二人での対論となります。中東から見ると21世紀はどのような世界となっていくか、興味をかきたてられます。


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